CAPTIVE LOVERS

「少し、歩きませんか」
 地下にある雰囲気の良いレストランを出た時、椎葉は少し酔っていた。
 今日入荷したばかりだというドイツのワインを勧められて、相変わらず茅島が手をつけられないボトルをすっかり空けてしまったのだ。
 いつもながらみっともないことだと、後で悔やむのは判っている。それなのにいつも、茅島に勧められるままグラスを傾けてしまう。
 茅島のせいで飲みすぎたのだなんてまったくの言いがかりだけど、茅島に少しも原因がないわけではない。
 一度、あまりにも茅島が次々とグラスを勧めてくるものだから「私を酔わせたいんですか」と訊いたことがある。他愛のない冗談のつもりだった。しかし、戯れた椎葉に双眸を細めて微笑んだ茅島の顔を見た瞬間、酒の酔いなど吹き飛んでしまった。
 取り立てて特別なことではない。うまく酒を注ぐことも茅島の職業では大切な接待マナーなのだろう。椎葉だってそんなことは判っている。判っているのにそんな馬鹿げた冗談を言ったのは、椎葉自身の期待を含んでいるのに他ならない。
 それを見透かされた気がした。
 酔わされても酔わされなくても、茅島に対する椎葉に何一つ変わるところなどないのに。
「次こそは代行の方を呼んでください」
 冷たい夜風がコートの上を撫でていく。
 この時間はさすがに肌寒い。今はワインで火照った頬を冷ますのにちょうどいいと感じているけど、それは椎葉の方だけだろう。傍らに付き合ってくれている茅島は炭酸水しか口にしていないのだから。
「そうですね」
 肩を揺らして声もなく笑う茅島は、それでも楽しそうに応じてくれる。
 終電の時間が迫っているのか、それぞれの飲食店を出てきたサラリーマンや大学生たちが、足早に駅の方面へと向かっていく。
 車の交通量はまだ多い。道の両側を覆う高層ビルも、灯りのついたままの窓がまだいくつか見受けられる。
 今からでも代行の人間を呼んで茅島ともう一軒、足を伸ばすことはきっと可能だろう。茅島はきっと進んでそうしないが、椎葉がどうしてもと言えばそうしてくれるかもしれない。
 茅島と一緒に旨い酒の味を分かち合いたい。
 だけど、二人きりの時間を邪魔されたくないという気持ちもある。
 それがたとえ、ここから椎葉の家まで車で十五分、それだけの時間だとしても。
 茅島と一緒にいる自分はきっとみっともないほど鼻の下が伸びているだろうから、それを他人に見せたいとは思わないし、仕事中でもないのにそれを我慢したくもない。
「――……、」
 なんだか可笑しくなってきて椎葉は顔を伏せて笑った。
「? 先生、何ですか」
 覚束ない千鳥足を支えあうように肩を組んで、大声で歌いながら歩き去っていくサラリーマンと擦れ違った。
 茅島はさり気なく腕を伸ばすと、椎葉が彼らに触れないように肩を引き寄せた。
「いいえ、……前に茅島さんが仰っていたことを、思い出していただけです」
 他の酔っ払いから守るように抱かれた腕の中で、椎葉は茅島の顔を見上げた。
 尋ね返すように、茅島が目を瞠る。
 曰く、こんな姿を他の人間に見せる気はない、と。
 椎葉も茅島が自分だけに見せてくれる――と思っている――表情を他人に見せる気はない。だけど、それを茅島のように口に出して言うのは照れくさくて、椎葉は黙って首を振った。
「何ですか」
 それを追い詰めるように、茅島が身を屈めて耳を寄せてくる。腕の中に捕らわれた椎葉には逃げる場所がない。せいぜい茅島の胸を押し返しながら小さく首を振るうくらいで。
 次々と笑いが込み上げてくる。椎葉に寄せられた茅島の顔も笑っている。
 こうして一緒に戯れあって、笑っていられるのだからどちらが酔っていようとどちらが素面だろうと、関係はないのかもしれない。
 どうしても同じボトルの酒を分け合いたければ、椎葉の家ででも、茅島の家ででも、好きなだけ楽しめる。
 相手の唇から香るワインの味も。
「――、あ」
 茅島の腕の中で声をあげながら笑った椎葉の唇に、茅島の指先が落ちた。
 驚いて首を竦めるとすぐにそれは離れて、目の前に差し出される。無骨な茅島の指先に、小さな花びらがあった。
「桜ですかね」
 椎葉から視線を外して辺りを見回した茅島の手から、濃い色の花びらを奪う。
「桃ですよ」
 桜にはまだ早いし、色も濃い。
 椎葉が即座に応えると、茅島はあぁ、と大袈裟にばつが悪そうな顔を見せた。
「どこから飛んできたんでしょう」
 茅島の身長から見渡して判らなければ、椎葉にはもっと見えないだろう。それでなくても、少しも弛みそうがない茅島の腕にしっかり抱きとめられていてとても周囲を見回せる状況じゃない。
「茅島さん、桜の季節になったらお花見でもしましょうか。組の人たちも呼んで」
 指先の花びらを宙に吹き飛ばしながら椎葉が提案すると、茅島は逡巡するように首を傾けた後、わざとらしく眉を眇めた。
「せっかくですが、お断りします」
 椎葉の肩を抱く茅島の手に力が篭る。
 それはまだ茅島の気持ちがあの時と少しも違っていないことを示しているようで、椎葉は一瞬の間の後、思わず笑った。


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