CLANDESTINE MARRIAGE

 茅島から連絡があったのは、午後十時を過ぎてからだった。
 仕事を終えた椎葉が夕飯と入浴を済ませてもまだ携帯の鳴る様子がなかったから、今日は顔を見せないのかと思っていた。
「遅くなってしまいましたが、一目、顔を見たくて」
 そう言ってくれる茅島のことを、椎葉が拒むはずもない。
 寝る支度を進めて寝間着姿でいたのを着替えて、慌ててビールを冷やす。――グラスをリビングに用意してから、椎葉は茅島を一目だけで帰すつもりがない自分に気付いて顔を赤くした。
 茅島にその気がなければ出さなければいいだけだ。
 必死で自分に言い訳をしながら、キッチンの中に肴を探す。この間茅島が買ってきてくれたチーズがある。
 慌ただしく準備をしている間に、インターホンが鳴った。
「茅島さんですか?」
 皿を持ったままインターホンに出ると、スーツ姿の茅島が映った。少し、くたびれているように見える。
『夜分に、すみません』
「いいえ、お待ちしていました。どうぞお入りください」
 椎葉の家の鍵は茅島も持っているのに、黙って使用したりはしない。この建物自体、堂上会から支給されたもので椎葉のものというわけでもないのに。
 茅島の律儀な部分を好ましく思うと同時に、まるで自分の家のように帰ってきてくれる日がくればいいのに――と、そう願う気持ちもある。
 インターホンを切って間もなく、階段を上る茅島の足音が聞こえてきた。やはり少し疲れているのか。いつもより足取りが重い。
「茅島さん、お疲れですか?」
 茅島が椎葉の居住スペースの戸を開くなり、椎葉はその目前で待ち伏せて顔色を窺った。
 さすがに茅島も驚いたようで、ドアノブに手を掛けたまま目を丸くしている。その顔に目を凝らして、背伸びをする。少し無精髭が伸びて、目の下の疲労が濃い。肌の艶も悪くて、心なしか頬もこけて見える。
 いつも椎葉が圧倒されるような、茅島の雄っぽいオーラがない。
「……ええ、少し」
 椎葉の勢いに面食らって背を反らした茅島は、ようやく気を取り直して小さく笑うと、爪先立ちになった椎葉の腰に腕を回した。
「今朝、オヤジの散歩に付き合わされてからこの時間までずっと、小さいトラブルが立て続けになって。昼寝も出来なかったし、食事もとれていないんです」
 そう言いながら椎葉の体に身を屈めると、首筋に鼻を寄せて深く息を吐く。
 まるで椎葉の香りを嗅ぐことで、少しでも疲れが癒せると信じているかのように。
「お疲れ様です」
 椎葉は茅島の仕種が急に可愛らしく思えてきて、頬がほころぶのを感じた。子供のように丸められた背中に腕を回して、ゆっくりとさする。今日は一晩中でもこうして撫でてあげたいと思えた。茅島が椎葉に甘えてくれているというわけでもないのに、甘やかしてやりたいと、思ってしまう。
「――あ、」
 しかし、椎葉が急に思い出して声を上げると茅島も顔を上げた。
「じゃあ、お食事のほうが良かったですか?」
 ビールとつまみではなくて、しっかりした食事のほうが。
 茅島はいつも椎葉の家に泊まっても、朝食は食べずに帰ってしまう。そのまま堂上会長との朝の散歩に行ってしまうと、下手をすればこのまま明日の昼まで食事を食べることがないかも知れない。
「いえ、お構いなく――」
「駄目ですよ、きちんとご飯を食べないとこの時期は熱中症とか、怖いんですから。茅島さんに倒れられてしまっては、私も、組の皆さんも困ってしまいます。茅島さんは先にシャワーを浴びていらしてください。何か簡単なものを作りますから」
 椎葉が矢継ぎ早に言って茅島から身を離し――背後に回りこんでバスルームへと押しやると、茅島も仕方なく歩を進める。
「はぁ、」
 困惑したような茅島が肩越しに椎葉を振り返った。
 その顔を見上げて、椎葉はもう一度背伸びをする。茅島のくたびれたスーツを握りしめて、精一杯。茅島もすぐに身を捩って、椎葉の唇に応じてくれた。
「……し、下着と寝間着、出しておきますね」
 唇を軽く押し当てるだけのキスだったが、目を開くと茅島が疲れを吹き飛ばしたような顔で笑っているものだから急に恥ずかしくなってしまって、椎葉はさっきまでよりいっそう強い力で茅島をバスルームに押し込んだ。
 茅島の日用品は椎葉の家に殆どある。茅島が毎晩のように泊まるうちに増えたものだ。最初は茅島が使い捨てのようにして使っていたそれを、椎葉が洗濯を始めた。
 最初はただもったいないからという理由で始めたつもりだったが、今となってみれば、使い捨てられる下着に自分を重ねていたのかも知れない。
 一晩のためだけに存在するだけで椎葉の家に留まらない茅島の日用品が、自分との関係に後腐れを残さないためにあるように見えた。
 茅島も次第に椎葉の家に置く私物を増やして、椎葉が洗う下着を着けるのが普通になってきている。
 シャワーの音が響く脱衣所に下着と寝間着を置いて、椎葉は慌ただしくキッチンに戻った。
 ビールはいいとして、食事――椎葉の夕食の残りは何品かあるが、メインの肉か魚は作らないといけない。椎葉はキッチンの壁にかけておいたエプロンを取ると、首から掛けた。
 冷蔵庫から食材を取り出して、フライパンを温めているうちに茅島がバスルームから出てきた。
「あ、すみません。今、作りますから」
 いつもは後ろに撫で付けている髪を下ろして首からタオルをかけている茅島は、今にも眠ってしまいそうにも見える。
 椎葉は慌てて炒め物を始めた。連絡をくれた時点で食事をとっていないと知っていれば、前もって準備できていたのに。今度からはそうしてください――と言うのは、明朝でもいいか。
 慌ただしく皿を準備しながら茅島が眠ってしまっていないかと再びリビングへ視線を転じると、――茅島の姿がない。
 まさか、寝室に行ってしまったのか。
「茅島さ――、」
 リビングに目を凝らしながら声をかけようとした瞬間、背後から抱きすくめられた。
「っ、!」
 びっくりして、肩が大きく跳ねる。
 振り返ると、風呂上りの茅島が可笑しそうな顔で椎葉を見下ろしていた。
「っ、もう。危ないですよ!」
 まだフライパンに火が付いているし、皿も落としかねない。
 しかし椎葉の甘い怒りなどお構いなしに茅島は椎葉の腹部を緩く抱いたまま、うなじに唇を落としてきた。
「茅島さん、お夕飯作りましたから早く食べてください」
 椎葉と同じボディソープの香りを漂わせる茅島の口付けを擽ったがりながらコンロの火を止める。
「ね、今日は早く寝ましょう」
 お疲れでしょうから、と椎葉が茅島の腕の中で体を反転させると、茅島はすぐに椎葉の唇へ口付けを移してきた。
 シャワーを浴びる前にしたのとは違う、口内をまさぐるようなキス。椎葉は茅島の濡れた胸へ手をあてがって、首を伸ばして何度も欲しがった。
 食事が冷めてしまうのも、その分睡眠時間が削られているのも、考えられないくらいに茅島の腕に溺れる。
「――こうしていると、まるで貴方をお嫁さんにもらったみたいだ」
「!」
 疲労で掠れた茅島の声に揶揄されて、椎葉はかっと顔を熱くした。
 椎葉が洗った下着をつけて、椎葉が作った食事を食べさせるなんて、たしかに茅島の言う通りじゃないか。
 まして、このあと同じベッドで眠ろうというのだから――
「す、すみませんあの、……そういうつもり、ではなくて」
 耳の先まで汗ばんでいるような気がする。
 椎葉はぎこちなくうつむいて、茅島に心音を悟られまいと身を離そうとした。しかしそれを拒むかのように抱き寄せられて、眼鏡を取り上げられる。
「なぜ謝るんです? 私が貴方を嫁だなんて言ったことに、貴方が怒るならいざ知らず」
 顔を背けた椎葉のこめかみに茅島の唇が押し付けられる。体の芯まで痺れるように擽ったく感じて、椎葉は茅島の胸についた手をゆるく握った。
「私が茅島さんのお世話をしたいと思ってることが、その……精神的に、負担に感じているかと思って」
 一般的には、尽くしすぎると負担に感じる人間が多いと聞く。
 痴情の縺れで起こる犯罪は少なくないし、その半数は愛情のバランスが一定ではないことが原因だ。
 椎葉は茅島に健康でいて欲しいからと思ってしていることだが、まるで世話焼き女房のように映っていたらと思うと――
「馬鹿なことを」
 取り上げた椎葉の眼鏡を放って、茅島が一笑した。
「あなたを私の伴侶にして一生を添い遂げたいと思いこそすれ、負担に感じるなんてことはありません」
 茅島の指先に顎を捕まれて、強引に茅島の顔を振仰がされた。
 まだ髪が濡れたままの茅島の目には劣情が宿っていて、つい数十分前まではなかった気迫がある。椎葉が初めて茅島という男に出会った時から変わらない、肉食獣の眼。
「私は貴方に会いに来たんです。貴方が私の腕の中にいてくれさえすれば、それで良い」
 暗示にかけられるような低音の囁きに、椎葉は応えたかどうかも定かではない。
 ただ、そうと決められたように瞼を閉じて、茅島の口付けに対して唇を開いていた。