番犬と猫と野良犬

「では、再来週抜糸に来てください」
 怜悧な視線を伏せて薄い唇から淡々とした言葉を吐く神室に傷口を叩かれて、千明は小さく身動いだ。
 未明、違法店舗のガサでチンピラに脇腹を刺された。といっても刃先が掠めた程度のことで、大した傷じゃない。
 最近新しく配属された新米が煩く騒ぐものだがら一応縫合に来たものの、傷を見た神室の見解も「これくらい放っておけば勝手に癒着するだろう」というものだった。
 相変わらず神室は大学病院の医師とは思い難い言動をする。合理的とも言えるが、これでは大きな組織で苦労するだろう。
 なんのかんのと言っても四針縫合してはくれたのだから、それなりにうまくやってはいるのだろうか。
「できればここ一週間くらいは安静にしてもらいたいんだけど」
「無理だな」
「だろうね」
 神室は千明に目もくれずパソコンに向かってカルテを打ち込んでいる。にこりともして見せない。
 神室との付き合いはもう長い。
 出会った頃はまだうら若い研修医だった。ただその頃から可愛げの一つも見せない鉄仮面のような男で、それが任侠者を引き寄せたのかもしれない。
 やがて根本という極道とつるむようになったという話を聞いて、監視するつもりもあって千明は神室を気にかけていた。
 気付けば立派なかかりつけ医だ。
 幸いなことに外科医としての能力は高く、だからこそこの合理性に手足を付けただけのような無愛想な男でもこの大学病院での居場所が用意されているのだろう。
 残念ながら素行のほどは良くないようだが、そんなことは千明の知ったことじゃない。
 違法性の高い治療行為を行っているとはいえ人の命を救っていることに変わりはないし、道徳的にどうあれ神室の信念が揺らいでいるわけでもない。まして、法外な値段を巻き上げているという話も聞いたことがない。
 むしろ法的に問題のある治療行為を施してもらいながらその体まで蹂躙しようという根本のほうがよほど問題だ。
 ただまあ、神室がそれを許しているのだからそれでいいのだろう。千明に馬に蹴られる趣味はない。
 いざとなればメスを握っているのは神室の方で、根本を拒むことだってできたはずだ。あるいはそうさせないように根本が手練手管を費やしたのだとしても、それがやくざ者の方法だ。
 ただ実際、この冷酷無比を絵に描いたような神室が根本と懇ろだなんていうのは何年たってもにわかには信じ難いものだ。
 千明が知る限り、付き合いは相当長い。今でこそ家族のような情で繋がっているだけかもしれないが、時には気持ちの盛り上がった時期もあったのだろう。
 千明にその気はないから知らないが、男同士だからとはいえ根本が神室以外の人間と遊んでいるという話も聞いたことがないし、いわゆる恋愛状態に間違いはない。何にせよ足抜けをした極道者が安住の地を見つけるのは喜ばしいことだ。
「何か?」
 気付けば長いこと不躾に神室を眺めていたのだろう。冷ややかな目でじろりと一瞥されて、千明は首を竦めた。
 この誰が見ても可愛げのない男をどうして根本が選んだのか、尋ねてみたい気がする。あの男に限ってまともに答えてはくれないだろうが。
「いいや、何も」
 男が男に惚れる理由など、わからないほうがいいこともあるものだ。
 千明は努めて無表情に診察室の椅子を立ち上がって上着を取った。
「千明さんもいい歳なんだからあんまり無理しないように」
 次の患者のカルテを用意しながらもののついでのように神室が言った。それだけでも充分、気心の知れた相手だと認識されていることがわかった。そうでもなければ無駄口などきかない男だ。
「刑事が楽できるようになれれば、世の中は平和なんだけどね」
「誰かさんに伝えておくよ」
 にこりともせず、相変わらず千明を追い返すような素振りのまま神室が冷たく答えた。
 誰かというのが具体的に誰なのかはわからない。さしずめ、茅島辺りだろう。それも根本を介しての伝言だ。それなら、千明が直接茅島に伝えるほうが早い。それでも神室は軽口のように言った。
「お大事に」
 決まりきった定例句に背中を押されて診察室を後にしながら、千明は少し、根本の気持ちがわかったような気がした。
 合理性でしか動かない冷血漢が自分にだけ絆されるというのは、さぞや優越感を擽られる気持ちのいい瞬間なんだろう。
 そういう心持ちなのかと根本に尋ねたら、もしかしたら奴が嫉妬するかもしれないと思うと千明は苦笑を噛み殺した。


 無駄に広いロビーで会計待ちのソファに身を沈めていると、胸のポケットで携帯電話が振動した。
 署に残してきた部下からの連絡だろう。千明の勤務内外を問わず定時連絡は欠かすなと伝えてある。
 暴対法の強化と、名簿提出の義務がない半グレによる犯罪の多様化で四課の人間は疲弊しきっている。ただでさえ殉職の危険が多い部署で、神経まで参ってしまう。
 かといって千明には部下の気持ちを和ませるような役回りは無理だ。
 せめて感情に流されないよう、機械的に動いてみることを勧めることしかできない。
 それが良いことなのか悪いことなのかは知らない。ただ千明はどうにもやるせない気持ちになった時、感情に蓋をしてその場をやり過ごすことがある。実践するかどうかはともかく、方法を知っていると知らないとでは大きな違いだ。
 実際のところ、今現在部下がそれをどう感じているかを千明が知ることはできない。
 薄い端末の表面に映し出された箇条書きの報告を眺めながら、千明は脇腹の疼く傷に触れた。
 会計窓口の上に無機質な数字が並んでいる。今時は個人情報保護かどうか知らないが患者の名前をむやみに呼び出したりはしないようだ。
 ざっと定時連絡を確認してから手持ちの札の番号を確認して顔を上げた時、見知った顔が視界に飛び込んできた。
 一瞬、誰だったかと悩んだ。
 その瞬間、千明はその人物を注意深く見てしまったのだろう。相手が視線に気付いて振り向いた。過敏なまでの反応だった。
 それが誰だか思い出した時、千明は挨拶するべきかどうか躊躇した。
「どうも」
 困ったような表情で頭を下げたのは相手が先だった。
 千明が躊躇したこともわかった上で、長い髪を揺らして会釈よりは深いお辞儀をして寄越す。それまでされて、こちらに無視をすることはできない。はなから無視をする理由もなかった。先方には理由があると思ったが。
「懐かしい顔だな」
「ご無沙汰しております」
 物腰柔らかい静かな口調は、かつてと変わった様子がなかった。
 彼はちょうど会計を済ませてきたところのようで、そのまま帰ることもできただろうに千明の掛けているソファまで歩み寄ってきた。その足取りはしっかりしている。どこが悪いのかと尋ねたくなるほどだ。
「どうされたんですか?」
 まるで千明の考えでも読み透かしたかのように彼が首を傾げた。
 その顔にはかつてと全く同じ柔和な微笑みが浮かべられている。
 神室の鉄仮面のような無表情も困ったものだが、この笑顔もなかなかのものだ。とはいえ、以前より多少顔が丸くなったか。
「仕事で、ちょっとヘマをしてね」
「外科ですか」
 脇腹に触れた手を揺らしてみせると、ああ、と丸く口を開いた彼が双眸を細めた。
 以前より顔色もだいぶ良い。色濃く刻まれていた目の下のくまもなくなって、そうして笑っていると胡散臭さが薄れたようだ。
「この病院だったのか。――柳沼」
 千明は念のため周囲を窺って、声を潜めた。
 一般人から見れば気にならない程度の気遣いだ。しかし柳沼は目聡くそれを察して苦笑を漏らした。
「ええ。転院させられまして」
 誰に、とは言わない。
 柳沼の禁断症状が抜けるまで強制的に入院させられていた病院について、茅島はついぞ口を割ることがなかった。千明が信用できないというわけではない。そうすることは茅島にとって矜持でもなんでもなく、祈りや願掛けの類だったのかもしれない。
 しかしその後の経過観察とはいえ最初の病院を離れたということは朗報なのだろう。
 茅島の手の中で守られている以上は縁が切れていないも同義だし、病院側だってどうしても色眼鏡で見てしまう。
「どうだ、順調か」
 柳沼が千明の隣に腰を下ろしたところを見ると、社交辞令的に声をかけてくれたというわけでもないようだ。千明は久し振りの再会を少なからず喜んで身を乗り出した。
 順調そうなのは見るからに明らかだ。
 茅島のところにいた時からどうも業界では浮いたように見えていたが、今は更に渡世人の面影もない。
 だからといってただのサラリーマンにも見えないのがこの男の不思議なところだ。どこか、浮世離れしている様子は変わらない。
「順調でなければ千明さんに声なんてかけられませんよ」
 それもそうか。
 千明は閉口して、わざと大袈裟に首を竦めてみせた。
 柳沼がかつていた場所を思い起こさせるものは全て排除していなければ自我を保っていられないようなら、それはまだ不安定だということだ。
 とはいえ、完全に安心できるようなら通院だってしていないだろう。
 柳沼のかかっているのが内科なのか精神科なのかは知らないが。詮索する気もない。
「……まあでも、お前はそれと一生付き合っていかなくてはならないんだろうけどな」
 多くのものを失って、見向きもしたくないような醜悪な時間からは一生逃れられない。
 それが柳沼の受ける罰だ。
 こうして千明と対峙していても逮捕されることはない代わりに、罰だけは一生受け続けなければならない。自ら死なない限りは。もちろん、千明は柳沼が死を選ぶことなんて望んではいない。
 それを把握しているだろう上で、柳沼は小さく肩をそよがせるようにして声もなく笑った。
「除名はしても、やっぱり警察の人間は好きになれませんね」
 今度は千明が笑う番だった。
 元、とはいえ暴力団構成員に好かれるような刑事なんてあっては困る。
 あの茅島だって千明のことを好きでいるわけじゃないだろう。
 千明だってやくざ者なんて一生好きにはなれない。それでいいと思っている。努めて、好感を抱かないようにしているくらいだ。
「――……僕はずっと、どん底に行きたかったんです」
 ひとしきり笑った後で、長めの前髪で顔を隠すように視線を伏せた柳沼がぽつりと呟いた。
 病院ロビーの雑踏に掻き消されてしまうような、低く、湿った声だった。
「組に入る前からずっと、淀んだ暗闇を掻いて掻いて、泥を掻き分けて絶望の底を這いずり回りたかった。それが好奇心だったのか自虐だったのか、今となってはわかりません」
 柳沼の身に実際のところ何があったのか、千明は詳しく知らない。
 知ろうと思えばいくらでも情報はあったが、それを知ってしまえばつけなくてはならないけじめが出てくる。
 極道にあるように、警察にもけじめがある。
 彼らを警察のものさしで切り分けてしまうことを嫌がって、千明は意識して目を背けてきた。
 しかし柳沼には初めて茅島の部下として会った時から妙な喪失感があった。儚さと言ってもいい。
 おそらくあの時に柳沼とこうして話す機会に恵まれてもこんな話は打ち明けてもらえなかっただろう。柳沼自信、意識もしてなかったかもしれない。
 千明は相槌も打たず、手の中の番号が刻まれた紙を見つめたまま柳沼の消え入りそうな声に耳を傾けていた。
「僕は絶望したかった。自己憐憫だったのかな。……だけど、そうやって自らを貶めて沈んでいこうとする僕に、いつも水面から呼びかけてくれる人がいた。棄てたいはずの希望が、僕にはいつもあった」
 それが茅島なのかモトイなのか、あるいは今柳沼と一緒に過ごしている人間なのかは千明にははかりかねた。一人ではないんだろう。
「その声こそが僕にとって、……クスリのようなものだったのかもしれない」
 クスリというのが柳沼を治癒するための良薬なのか、依存性のある麻薬だったのかはわからない。
 しかし、どちらも同じことだ。
 手術に使用する麻酔は用法を変えた麻薬にすぎない。
 同じものであっても、見方や立場を変えれば良くも悪くもなるものだ。
「それがお前の運命ってもんのだったんだろう」
 業とも、性と言っても良かった。
 つまり、柳沼はそうなるべきだったのだ。
 柳沼がそういう人間じゃなければ、千明だってこんなところで話をしたいとも思わなかった。茅島だってとっくに始末していただろう。
 俯いていた顔を上げて千明を驚いたように見た柳沼が、唇を震わせるように笑い声を漏らした。
 いつも笑っている印象のある柳沼だが、そんなに無防備な笑い声を聞いたのは初めてだった。
「らしくないですね」
「らしくないってなんだよ」
 顔を露骨に顰めてみせると、柳沼は口元を押さえて肩を揺らした。
 会計ロビーに番号を読み上げる電子音が響く。
「番号。呼ばれていますよ」
 電子掲示板を仰いだ柳沼が千明の手元を覗きこむ。
 こんな時に限って精算が早く回ってくるようだ。
「ああ」
 千明は手の中の番号札を握りなおして、小さく肯いた。肯いただけだ。席を立つ気にはなれなかった。
 だからといって話題も多くはない。
 茅島やモトイの近況ならいくらでも話せるネタはあるが、柳沼はそれを知りたがらないだろう。
 結果的に千明が黙りこむと、隣の柳沼が先に立ち上がった。
「僕はこれから買い物をして帰らないと。夕飯の支度があるので」
「柳沼」
 柳沼が立っても、ソファの隣が揺れたようには感じなかった。
 それほど体重が軽いままなのか、それとも千明が今見ているのは幻なのだろうか。
 思わず柳沼を仰いで、呼び止める。
 柳沼は変わらず微笑んで千明を見下ろしていた。
「せっかくだ、今度酒でも」
「すみません、アルコールも控えているものですから」
 それもそうだ。
 酩酊状態は判断力を鈍らせ、更生の妨げになる。
 そんなことは百も承知しているはずだ。
 千明はばつの悪い思いで掌で口を塞いだ。
 こんな時に気の利いた言葉のひとつも出てこない。
「失礼します」
 以前何度でもかわした挨拶と同じように、柳沼が一礼して踵を返した。
 会計ロビーでは千明の握り潰した番号札と同じ番号を繰り返し呼び出している。
 千明が思わず立ち上がっても、背中を向けた柳沼はこちらを振り返ろうともしない。
 千明が茅英組を訪ねた時や、面倒事を起こした際に署まで同行させた帰りに柳沼が帰っていく後ろ姿をこんなふうに眺めたことはない。別れを惜しむような気持ちもなかった。
 しかし今日ばかりは、これが永遠の別れのような気がした。
 それを惜しんではいけないんだろう。
 千明とでさえ縁を切ることが、柳沼の希望なのだ。
 吹き抜けのロビーに差し込んでくる陽の光を受けて、柳沼が真っ直ぐ自動扉へ向かっていく。
 その背中で揺れる長い髪を見つめながら、千明はしばらくそこに立ち尽くしていた。