Festes Versprechen

「ほら」
 日勤明け、神室がリビングで束の間の休息を楽しんでいると、根本は我が物顔で帰宅するなり白い物体を神室の膝の上に放った。
 食後に一杯だけ飲むことを楽しみにしているコーヒーにでも入ったらどうしてくれるんだと神室は眉根を寄せながら、膝の上のものを掴み上げた。
 大きさは、掌の上に乗るほどで、白い布でグルグルと巻かれ、歪なボールのようだ。軽い。それにどこか、神室の職場と同じ――消毒液の香りがした。
 白い布はガーゼでできた安っぽい包帯のようだ。
 根本の姿を振り返ると、既にキチンに入って冷蔵庫を漁っている根本は背を向けている。怪我をしている様子はない。
「――……」
 神室は薄く開いた唇から微かに呼気を漏らしたが、言葉にはならなかった。
 掌の上の包に視線を落として、逡巡のあと、包帯の端からそれを解いた。
「ビールは?」
 根本の声がキッチンから響いてくる。
「そんなもの知らない」
 神室はそれを振り返りもせずに答えた。そもそも神室はビールなんて年に数回しか嗜まないのに、根本が勝手に買ってきて冷蔵庫を占拠している。それを止めろといえば根本はあっさり止めるだろうが、止めろと言うほどのことでもない。
 それに、根本の飲食するものが神室の家にある限り根本はここへ戻ってくる。そんな気がした。そんなことは何の保証にもならないのに。
「じゃあコーヒーでいいか」
「残ってない」
 一杯分だけドリップしたコーヒーは、神室の分しかない。
 大体、いつ帰ってくるか、そもそも帰ってくるのか、ここに戻ってくる筋合いもないような人間を待ってコーヒーを淹れるなんてことはできない。
 根本のような社会性のない根無し草に部屋の合鍵を持たせただけで、ここへ戻ってくるなどと考えるのは考えが甘すぎる。
 もともと、どこから流れてきたのかもわからないような極道者だ。
 神室にその世界のことなどわからないから、どこの組に所属しているどんな役職の者なのかも聞いてみた試しがない。根本某などというのが本名なのかどうかも、既婚者なのかどうかも、このマンション以外に帰る場所があるのかどうかも、もし根本が説明をしたところで、神室は信用しない。
 信用しないようにしている。
 人の心は曖昧で、人の言葉は不確かだ。
 根本の肉体がここにある限りは、根本は神室のそばにいて不都合がないということなんだろうと信じられる。目に見える物体は信用できるし、それに過度な期待を乗せたりはしない。
 根本がここに戻ってきたならその事実だけを、根本が今夜も神室を抱くなら、その事実だけを淡々と受け止めるだけだ。
 人は到底わかりあうことなどできないのだから、その行為にどんな感情が介在するかなどということは考えるだけ時間の無駄だ。
「コーヒーなら余ってるだろ」
「!」
 急に背後から声をかけられて、神室は竦み上がった。
 背後を振り返るのと、根本が神室の目の前のコーヒーカップに腕を伸ばしたのはほとんど同時だった。思わず根本の無精髭が生えかけた顎の線に顔が触れそうになって、体を引く。
 心音を乱れさせた神室のことなど一瞥もせずに根本は神室のカップを掠め取っていくと、ソファの後ろに立ったままコーヒーを呷った。
 香りを楽しむ、も何も無いような飲み方だ。
 神室は肩で小さく息を吐いて、膝の上に取りこぼした包に再び手をかけた。
「ブランデーでも入れりゃ、美味いのにな」
「文句を言うなら飲むなよ」
 やたらと厳重に、幾重にも巻かれた包帯を開いていくとやがて酸化した血の色が見えてきた。
 一度手を止め、鼻の上の眼鏡を直す。
 凝固して、包帯が貼りついているのを慎重に剥がしながら包を解いていくと、――指先が出てきた。
 関節の短さ、細さからすると小指か。僅かに湾曲している。右手だ。
 切り口を覗くと、既に壊死が始まっている。
「結合はできないな」
 恐らくどんな名医が見ても同じ決断をするだろう。
 切断面は綺麗なものとは言えず、二度三度と刃を入れたような痕跡がある。神経は拗れてしまっているし、骨も欠けている部分が多すぎる。
 下手くそだなと言ってやりたいところだが、どうせ素人のすることだ。言っても仕方がない。
 先輩医師の中にはこういう――いわゆる指詰めの、再結合をしたことがある経験がある人もいるようだ。神室はまだそんな患者に遭ったことはない。
 もし根本が「頼む」と頭を下げてきたとしたら初めての経験になるが、これではとても無理だ。
 せめてもっと早く、冷却した状態で持ち帰って来るべきだった。
「くっつけ直そうなんて思ってないよ」
 あっという間に神室のコーヒーを飲み干してしまった根本が、グラステーブルの上にカップを戻した。
 その右手には確かに包帯が巻かれている。指先を包んできたのと同じ、安っぽい包帯だ。この様子ではまともに消毒も出来ていないんだろう。もしかしたらこの手当のために、今日もとりあえず神室のもとへ来たのかもしれない。
「――……そう、か」
 どんな失態を晒した責任で指を詰めなければならなかったのか、そう尋ねようとして、神室は口を噤んだ。
 そんな立ち入ったことを聞くのは憚られた。
 言葉ではいくらでも嘘を紡げると思っているのに、人は言葉を介さなければ意思の疎通がはかれない。しかし言葉を通じて介したつもりになっている意思など、信じるに価するのかどうかもわからない。
 それなら、他人の意思などわかろうとするだけ無駄だし、自分の気持をわかってもらおうとも思わない。
 ただ他人と交わるのは時間潰しでしかない。
 現代医療は日進月歩で進化し続けている。日本人の平均寿命は高齢化の一途を辿り、人間一人で過ごすには人生はあまりにも長すぎる。だから、他人と上っ面の交流をして時間を潰すしかないのだ。
 それが会話でも性交渉でも大して変わらない。
「とりあえず消毒をし直す。そこに座れ」
 神室は重い気持ちを振り払うように言うと、ただの肉塊となった根本の肉体の一部をテーブルの上に預け、ソファを立ち上がった。
 根本が神室の前に現れるようになってからというもの、神室の部屋には個人的に入手することが出来る限りの医療器具が揃うようになった。まったく、迷惑な話だ。
 しっかりと洗浄、消毒をして包帯を巻き直すことと、必要ならば鎮痛剤も――そう思ってその場を離れようとした矢先、根本に腕を掴まれた。
「――っ、」
 小指のない右手が、神室を捉えている。
 根本の顔を見上げると、穏やかな表情で神室を見下ろしていた。
「俺は、極道を辞めてきた」
 低い、静かな声だった。
 視線を伏せた根本の表情は今までに見たことがないようなもので、神室は呼吸も忘れて根本の次の言葉を待った。
 言葉なんて無意味だと思っていても。
「これからはのんびり、自分の店でも構えてやっていこうと思ってる」
 視線のやり場に困った神室が根本の右手に視線を伏せると、包帯の下から血が滲んできているようだった。早く清潔な状態にしたいと思うのに、根本の手を振り解くことができない。
 人間の肉体は何よりも信用に価する揺るぎようのない存在証明だし、それをケアすることが出来る職業に就けた自分に誇りを持っている。
 神室は、根本の生命を今までに何度も救ってきたと自負している。だからこそ余計に、こんな致命傷にもならない傷から感染症など引き起こされたくないと思う。
 根本が面倒な症状になればその面倒を――しかも満足な器具のない自宅で――診なければいけないのは神室自身だし、それが嫌で根本を追い出すくらいなら、もうとっくにそうしている。
 根本がここに来る以上、根本の面倒を見ようと決めたのは神室だ。
 根本が来ないようになれば、面倒をみたくてもみれなくなるのだ。
 だから、根本が自分のそばにいる限りは面倒をみさせて欲しい。
「渡世人辞めたくらいで、お前に釣り合うような人間になれると思ってるわけじゃないけどね」
 知らず俯いていた神室の頭の上に、根本の左手が乗せられた。
 そのままやんわりと引き寄せられかたと思うと、神室は根本の腕の中に抱かれていた。
「釣り合うって、」
 思わず尋ね返すと、根本が微かに笑ったのがわかった。体を寄せていなければわからなかっただろうほどの、小さなものだった。
「ツレが医者やってるのに、一方で俺が人を殺してるんじゃ、釣り合わないだろ」
 根本の腕の中で神室が顔を上げると、根本は複雑な表情で苦笑を浮かべていた。
 ばつが悪そうな、照れくさそうな、様々な思惑が感じ取れる。
 ――でも、言葉や表情がどれほど信じきれるものか。
 神室は惑わされないように視線を伏せると、しかし黙って根本の腕を抜け出た。
 信じ切れたものではないと思うのに、疑わしいと言ってしまうこともできない。神室の弱さだ。
 もし神室の疑いが図星ならば根本はこの場を去ってしまうだろう。それならば、嘘でもいいからここにいて欲しいと願うし、もし根本が心の底から言っているのだとすれば、疑うことは彼を傷つけるかもしれない。
 神室は肉体の傷を癒すことはできても、心を癒すことはできない。
「待てって」
 根本から逃れて消毒液を取りに行こうとする神室を、根本が慌てて追ってきた。
 手には、既に変色した自分の指先を持って。
「だから、ほら」
 神室が医者でなければグロテスクにも映るんだろうそれを鼻先に突きつけて、根本は恭しく頭を垂れた。。
「お前が俺のことをどう思ってようと、この際どうでもいいよ。お前のために極道を辞めたなんて恩着せがましく言うつもりもない」
 汚れた包帯の上のどす黒い色の小指を差し出す根本の様子に、神室は何かを連想して――思わず、口を覆った。
「ただ、俺はこれをお前に渡したいと思って詰めてきたんだ。だから、受け取ってくれ」
 ――これじゃまるで、結婚指輪じゃないか。
 そんな発想をする自分自身が信じられなかった。
 つくづく、自分の思考が根本に漏れ伝わるようなシステムでこの世界が形成されていなかったことに感謝した。それでも自然と顔面の毛細血管が拡張し、――顔が熱くなってくる。
「馬鹿か、お前、そんな――……」
 唇の震えをおさえて、呆れたように取り繕ったが根本の視線がこちらを向くとそれ以上言葉が続かなくなった。
 言葉なんていくら重ねても、信じるに値しない。だから。
「指きりげんまん、っていってな。昔の遊女の心中立てだ。……俺の右手の小指は後にも先にも、これきりしかない。俺の命の一部をお前に差し出しているのと同じことだ。命は二つとない。お前にしか、渡せない」
 未だかつて、根本にこんなに強く見つめられたことはなかった。
 黙って根本の言葉を聞いているだけなのに、何故だか全身が小刻みに震えるようで、床の上に確りと立っているという感覚もない。
 うまく呼吸する方法もわからなくなって、神室はめまいを覚えた。
 恐る恐る、差し出された根本の指に触れる。冷たい。
 さっきまでは何の変哲もない、ただの肉塊だった。それが今は、他のどんなものとも違って感じる。生命から切り離された死肉に過ぎないのに、そこに根本の言葉が加えられただけで。
 神室は根本の肌の色とは違ってしまっている小指を目の高さまで上げると、喉を鳴らした。
 根本は黙っている。
 神室は唇を開くとそこに冷たい小指をねじ込んだ。いつかの夜には、性的な刺激に歯噛みした神室の身悶えを堪えさせるために口に含んだこともあるかもしれない、指だ。
 根本の小指は消毒液の香りがした。生命の宿らない肉特有の、臭みもある。しかし神室は躊躇することもせず大きく喉を開くと、そのまま根本の小指を嚥下した。
 喉に引っかかるような大きさだったが、仕方がない。コーヒーで流し込もうにも、そのコーヒーは根本が飲み干してしまった。
「馬鹿はどっちだ、食う奴があるか」
 神室の行いを止めもしなかった根本にまた抱き寄せられて、神室は素直に身を委ねた。
 まだ喉がつかえているような気がする。
 しかし、二つとない根本の生命がそこに宿っているのだと思うと、どこか安堵した。