Medizinische Behandlung

 全治三ヶ月、と宣告されて根本は露骨に顔を顰めた。
「何、その表情」
 汚れた脱脂綿をゴミ袋に詰め込みながら、神室が冷ややかな視線で応じる。
 手狭とは言い難いベッドルームには消毒液と血の匂いが入り交じって、根本には噎せ返りそうに感じた。神室は慣れているのだろう、平然としている。
 根本は左脇腹を押さえながらベッドの上の体を起こそうと、身を捩った。
「馬鹿、大人しく寝てろ。今また傷が開けば、三ヶ月でも治らないぞ」
 神室の細腕でそれを制されると、根本はますます苛立った。
 普段なら神室の力に負けることなどない。関東一円に勢いのある堂上会に単騎で乗り込んで来た根本だ。それができるだけの力があると見込まれている。こんなところで、いかにも優男といった風の神室にベッドに押さえつけられているだなんて、とてもじゃないが人に見せられない。
「……この藪医者が」
 右掌の下に押さえた脇腹が熱い。消毒液を含ませた綿を詰め、きつく包帯で縛り付けられているせいで呼吸もままならない。
「へえ、その藪医者のところへ駆け込んできたのはどこのどいつかな」
 仕方なく枕に頭を沈めた根本を見下ろした神室が、両手のゴム製手袋を剥ぎ取って根本の胸へ放り投げた。血が付着している。根本はシャツの胸元に血がつくのを反射的に避けたがったが、体が動かない。既に脇腹が血で染まっているのだから、今更避けるようなことでもないのに。
「大体、俺はもぐりの医者でも何でもないんだから点数も稼げないような患者を診る筋合いはないんだよ。それも、自分のベッドを占領させてまでね」
 胸の上の薄い手袋を見下ろしていた視線を神室へ戻すと、神室の服にも大量の血がついている。根本のものだ。
 白衣を脱いだプライベートな時間に、自宅の部屋着を汚されても神室は気にも止めていないようだった。額にうっすらと浮かんだ汗を拭うように、前髪をかきあげる。
「文句があるなら他所へ行ってくれ。行けるもんならな」
 そこまで言った神室は大きく息を吐いて、再び片付けを再開した。
 つまらない抗争に巻き込まれて凶弾を受けた根本は、気付くと神室の元へ来ていた。一歩足を踏み出す度に溢れてくる血を、拳で押さえながら。時間が日の出前で良かった。足を縺れさせながら血を垂れ流して歩く根本の姿を、一般人が見たら通報されていたことだろう。
 それでも神室が住むマンションの一階にある花屋の従業員はもう起きていて、根本の姿を見ると小さく息を飲んだようだった。黙っていて欲しいというように唇に人差し指を立ててみせたが、伝わっているだろうか。
「……他所へ行く気があったら、最初からそうしてる」
 根本は観念したように長く息を吐き出すと、天井を仰いだ。
「じゃあ最初から文句は言わないことだ」
 根本の血を拭った脱脂綿やガーゼを一通り片付けてしまうと、最後に神室は汚れた部屋着を脱いだ。貧相なその体にまで血が染みている。神室は脱いだ部屋着を丸めると、ゴミ袋とは別に小脇へ抱えた。
「棄てろよ」
 部屋を出て行こうとする神室に、右腕を頭の下に敷いた根本は声をかけていた。また、つまらないことに口を挟むなと怒られるだろうか。
 振り返った神室の視線は相変わらず突き刺すように冷たい。これで勤務医なのだというから驚きだ。堅気の患者なんて神室に一瞥されたら竦み上がってしまうんじゃないだろうか。
「お礼に今度新しい服を買ってやる。何枚でも」
 血の染みは落ちない。そんなこと、神室なら知っていそうなものだ。
 しかし神室は鼻を鳴らして根本に背を向けると、寝室の戸を開いた。
「馬鹿を言うな。恋人の血の染みがついた部屋着くらい、何でもない」
 吐き捨てるような声音に、一瞬の間のあと笑いがこみ上げてきて根本は傷を押さえた。
「――あぁ、……悪いね、バレンタインにチョコレートじゃなくて鉛の玉を持ってくるような恋人で」


「あれっ、根本さん今日は昼飯いーんすか?」
 根本が缶コーヒーを差し出すと、金と黒の入り交じった髪をあちこちに跳ねさせた頭をしたコンビニ店員が目を瞬かせて言った。
 人の顔を二度見ただけで覚え、人懐こく話しかけてくる若いのは、嫌いじゃない。黙っていれば堅気に見えると定評のある根本だからかも知れないが。これが茅島相手にだったら、このコンビニ店員だってこうはいかなかったかも知れない。あれはヤクザの血が強すぎる。
「ああ、うん。朝が遅かったからね」
 ベッドから起き上がれるようになるまで一ヶ月近くかかった。まだ遠出は出来ないが、マンションの一階に降りてくるくらいはリハビリの内だ。
 それでも神室は「さすが丈夫」と呆れたような驚いたような顔をしていたが。
「また神室先生に怒られますよ~」
 茅ヶ崎と名札をつけたコンビニ店員に揶揄われると、根本は調子を合わせるように背後を気にして店内をぐるりと見渡した。今頃病院で診察にあたってるだろう神室の姿があるはずもない。店内では、キムチを手にした青年二人が睦まじく戯れあっている。身長差は十センチくらいだろうか、手が届かない距離ではないのに、溌剌とした様子の青年は気怠げな雰囲気の青年からなかなかキムチを奪えないでいる。
「テープでいっすか?」
 根本と同じ方を眺めて小さく笑った茅ヶ崎が尋ねると、ようやく根本はレジへ向き直って肯いた。
 受け取った釣銭をレジ横の募金箱に投入すると、元気のいい茅ヶ崎の声を背に自動扉を潜る。と、花屋の店員である柳瀬がいた。
 手には小ぶりの花が携えられている。思わず根本はガラス戸の向こうの茅ヶ崎を振り返った。ただの配達なのか、それとも柳瀬と茅ヶ崎の間でそういう贈り物の習慣があるのかは知らない。
 柳瀬は根本を見ると、黙って小さく頭を下げた。
 茅ヶ崎ほど知った仲ではないが、関係がないわけでもない。根本は、思わず柳瀬を呼び止めていた。
「はい」
 予想以上に低い、掠れた声だ。そう感じて初めて、声を聞いたのは初めてだと気付いた。あのバレンタインの夜に一度視線を交わしたきりだ。無理もない。
 柳瀬は緊張しているように見える。そう悟られまいとするように平静を装っているが、それがかえって目立っている。何より視線が泳いで、根本の脇腹を探っているようだ。
 根本は柳瀬に取り繕うように、破顔してみせた。
「自分の店を持つってのは、良いものかな」
「……は?」
 不意を突かれた柳瀬が、目を瞬かせる。
「いや、俺もいつかは自分で店を構えたいと思っててね。……もちろん花屋なんて似合わないだろうから、せいぜい飲み屋だなあ」
 はぁ、と柳瀬が気の抜けた返事を漏らした時、マンションの他の階の住人が小走りで降りてきた。何を急いでいるのか、髪がボサボサだ。
 根本は他の住人に聞かれないように声を潜めると、柳瀬の肩に手を置きながら脇を通り抜けた。
「……ま、いつまでもこんな稼業やってるわけにいかないんでね」 
 言い残して、柳瀬が根本を振り返ろうと振り返るまいと気にせずにエレベータへと向かった。
 これが口封じになるとは思わない。むしろ、今まで黙ってくれていた柳瀬への挨拶程度のものだ。


 しまった、と思ったのは神室が帰宅してからだった。
 ソファで大人しく横になっていたまでは良かったが、コーヒーの缶を捨て忘れていた。それに、夕食も摂っていない。
「全治三ヶ月じゃ困ると言ったのはお前自身だろう」
 仕事で疲れているのだろう、神室の声は低く、ため息混じりだった。指先で額を押さえながら、眉間に皺を寄せている。
「別に俺は、お前の傷なんかいつまでも治らなくったって知ったことじゃない。でもお前は治す気があるんだろう?」
 滔々と静かに話す神室は面倒だ。頭ごなしに叱るのじゃないだけに、回りくどくて話が長い。後半部分の畳み掛けだけを言ってくれれば、すぐに済む話だ。
「まあね」
「それなら、俺の言う事を聞け。俺はお前の主治医だ。怪我を治す気があれば主治医の言う事を忠実に守れ。食事は一日三回だ。俺はそう言ったはずだな?」
 はい、と根本はおざなりに応えた。返事をしなければそれはそれでうるさい。
 そもそも、神室はやくざ者とは判り合えない思考の持ち主だ。自分の命を取引材料にして信念を渡り合うような社会のことを、医者が理解できるはずがない。理解しろという方が、酷な話だ。
「……判ったよ」
 根本は長く息を吐くと、ソファを押し遣って体を起こした。
「出て行く。世話になったね」 
 所詮は、生きる世界の違う人間だ。こんなことは慣れている。渡世に生きる以上人並みの生活は送れないものと思っているし、それでもこの世界を選んだのだ。
 根本はソファを降りると、昼間に空けたきりのコーヒー缶を手にして玄関へ向かった。他に荷物はない。身一つで神室の部屋に転がり込んでしまった。もう一ヶ月だ。迷惑をかけたんだろう。職場でも自宅でも人の面倒を診ていれば、神室じゃなくても疲れる。
 思えば、神室と知り合ったのも根本が下手を打って死にかけていたせいだ。神室の腕が良いからこそ、主治医と言わしめるほどの責任感を負わせてしまったのだろう。
 それも、これで終いだ。
「待て」
 根本が玄関で血の跡が残った靴に足を入れた瞬間、神室の小さな声が追ってきた。振り返らずに踵を落とし込む。
「根本」
 神室は、廊下に足音を立てて追ってくると根本の腕を取った。指先に下げた空の缶が揺れる。
「もう大丈夫だよ、この通り。今日もコンビニまで行って買い物ができるくらいに調子がいい。主治医の腕が良いおかげでね」
 脇腹の傷はまだ疼くように痛むが、あとはホテルでも取ってそこで安静にしていればいい。闇医者のツテがないわけじゃない。それなのに、神室に甘えてしまった。
「まだ駄目だ」
 神室は眉間の皺を深くして、首を左右に振った。掴まれた腕に、神室の細い指が食い込むほど強い。根本は苦笑した。
「判ったよ、全治三ヶ月だろ? 安静にしてる。約束するよ」
 神室は優秀な外科医だ。言う事を聞くべきなんだろう。根本は大きく肯くと、腕を掴む神室の手に掌を重ねた。
 剥がれない。
 神室は、強張ったように険しい表情のまま根本の腕を掴んで離そうとしない。
 一ヶ月で自由に動き回れるほどになった根本を、神室も驚異的な回復力だと認めてくれたはずだ。駅まで行けばホテルもあるだろう。コンビニからタクシーを呼んでもいい。
「かむ、……」
「ここにいろ」
 根本が言葉を重ねようとした瞬間、神室がそれを遮った。
 まるで、泣き出しそうな顔だ。
 いつもの冷ややかな表情はなく、鼻の頭が赤く染まっている。きつく寄せられた眉根は微かに震えて、薄い唇をぎゅっと噛み締めていた。
「何も、ホワイトデーの日に出て行かなくてもいいだろう」
 搾り出すような神室の声に、根本は無意味に視線をあげた。玄関から目視できる範囲にカレンダーはない。神室の家で悠々自適な生活を送っていたせいで、曜日の感覚もなければ日付も気にならなくなっていた。
 そういえばコンビニでは、ピンク色の包装紙が目立っていたか。
「バレンタインには死んでもおかしくないような怪我をして転がり込んできて、ホワイトデーには出て行くのか。勝手すぎる」
 根本を捉えた神室の手が震えている。
 恋人だなんて戯言かと思っていた。
 少なくとも、神室が根本に好意を寄せる要素が何一つない。このマンションに住んでいるからには神室の性癖は判っているつもりだが、神室が男なら誰でもいいなんてことを言うような人間じゃないことも知っている。
「――……何か言えよ」
 思わず言葉を失って目を瞠ったままの根本から、神室が先に視線を逸らした。
 なんだか今無性に、昼間柳瀬が持っていた花束が思い出された。中央に作り物の薔薇が入った代物だった。あの花屋なら、この時間でも開いているだろう。根本は傷の疼く腹を押さえて、今すぐにでも花屋へ駆けこみたかった。それも、神室がこの縋るような手を離してくれたら、の話だが。
 神室の腕は貧弱で、細い。しかしいかにも優男といった風の神室に、根本はこの傷が完治した後も、どうにも勝てそうになかった。