NIVEOUS LOVE

 受話器の向こう側は静かだ。
 聞こえるはずもないのに、しんしんと雪の積もっていく音が聞こえる気がする。向こうに暮らしている時からそうだった。多分みんな聞こえていたと思う。小さな雪の結晶が降り積もっていく、音なき音を。
『今年の正月は帰ってこれるの? おどさんの墓参りもあるし……』
 母の声もだいぶ嗄れたようだ。
 椎葉は電話の受話器を口元に隠すように掌を添えて、短く相槌を打った。
 最後に帰省したのは司法修習中だった。父が病に倒れたという一報を受けて取るものも取り敢えず新幹線に飛び乗った。
 弁護士バッチもまだ付けていない内に帰ってくるとは何だ、と弱々しい声で椎葉を一喝した父の死に目には結局会えなかった。
 葬式には二回試験が重なって、今度は気丈な姉に帰ってくるなと一蹴されてしまった。
 以来、一度も実家には帰っていない。弁護士の守秘義務を理解している家族ならば、椎葉がどんな案件を抱えているかを尋ねるようなことはしないだろうが、椎葉の方に後ろめたい気持ちがあった。
 警察官だった父親は、まさか息子が暴力団の顧問弁護士をやっているとは思わないだろう。あるいは、父なら頭ごなしに暴力団の善し悪しをはかることはないかも知れない。しかし心配性の母は、そうと知っただけで胸を痛めるに違いない。
 何より、最後に会った時はまだぬくもりのあった父が、今は重く冷たい墓石になっているのだと思うと、帰省する気になれなかった。
 現実から目を背けているだけだとしても。
『お姉ちゃんも心配してるから、一日でも二日でも、帰ってこられない?』
 母の心配そうな声の向こうで、甲高い子供の声が響いた。それを叱る、姉の声も。
 思わず椎葉の唇に笑みが零れた。姉の様子は相変わらずそうだ。椎葉も幼い頃からよく叱り飛ばされた。
「はい」
 自然と頷いていた。手元のスケジュール帳を手繰り寄せて、正月休みを確認する。松の内だけでも、雪に囲まれた実家で暮らすのも良い。そろそろ顔を見せておかないと、甥や姪たちに知らない人だと思われてしまう。
「じゃあ、大晦日に新幹線のチケットが取れれば……」
 スケジュール帳の端に挟んだペンを取ってメモを書き込もうとした瞬間、インク切れに気付いた。慌てて他のペンを探して視線を上げると、そこには既にモンブランのボールペンが差し出されていた。
 それを握っている指先から腕を辿って、茅島の顔を見上げる。どうぞ、と茅島の唇が動いた。
「――松の内だけでも、帰ります。父さんに報告したいこともあるし」
 椎葉が答えると、母の声は嬉しそうに高くなった。それを聞くと、今までの不孝が申し訳なく感じる。
 滑らかな書き味のペンをスケジュール帳に走らせると、茅島が隣に腰を下ろした。何食わぬ顔で、雑誌を開いている。
 甥や姪に電話を変わろうか、と言う母親に固辞をして、挨拶だけ頼むと通話を切った。
 茅島は背凭れに身を預け、長い足を組んでいる。茅島がこの部屋にいることが当たり前のように感じるし、茅島が椎葉のこの部屋で寛いでくれていることは何よりも幸福だと思う。
 椎葉は借りたペンの蓋を閉めると、それを茅島に手渡しするよりも、胸のポケットへ直接戻そうと腕を伸ばした。
「ご実家はどちらですか?」
 こっそりと出来るようなことではないと判っていたのに、突然声をかけられると心臓が大きく跳ね上がった。
 茅島なら、椎葉がペンを挿し御えるまで知らんぷりをしてくれるだろうと思っていた。
「あ、……秋田です」
 戻し損ねたペンを握りしめて、茅島に向き直る。鼻の上の眼鏡を直すと、茅島も開いていた雑誌を閉じた。
「秋田というと醸蒸多知という旨い酒がありましてね」
 茅島のように酒に詳しくない椎葉は、曖昧に頷きかけて、目を瞬かせた。
 口に出して尋ねる前に、胸が強く鼓動するのを感じる。
 それを嫌だと思うわけではないし、なんだか気恥ずかしい気もする。いや、それとも、椎葉の思い過ごしかも知れない。
 モンブランのホワイトスターを握る手がじっとりと汗ばんだ。
「秋田のどの辺りですか? あそこも温泉が多い地域ですから」
 素知らぬ顔で続ける茅島の言い様に、椎葉は思わず唇が緩んだ。息を吐き出すように、思わず笑ってしまう。
「何もないところですよ」
 温泉はたしかに多いし、食事も美味しい場所だと――贔屓目かも知れないが――思う。しかしこの時期は雪ばかりでろくに移動もできないし、できたとしても、これといって見るものもない。
「別に、温泉でゆっくりしたいだけです」
 わざとらしく知らばっくれた茅島を笑いながらペンを返そうとすると、その手を茅島が掴んだ。やんわりと引き寄せられてバランスを崩した椎葉が茅島へ凭れると、すかさず背中へ腕を回される。
「――父は、」
 しばらく茅島の眼差しを見上げていた後で、椎葉は腕をついた逞しい胸の上へ顔を伏せた。
「厳しい人でしたが、人の話を根気強く、よく聞いてくれる人でした」
 寡黙な人で、椎葉は父と話す時いつも緊張していた。父には何でも見透かされているようで、隠し事などできないと思ったし、また同時に、父ならばつまらない誤解もしないという安心感があった。
 誰の話でも最後まできちんと聞いてくれて、相手を理解しようという優しさの深い人だった。
 どこか茅島に似ているところがあるかも知れない。
「だから、父の――今は土の中で眠っていますが――墓前で、茅島さんのことをお話してこようと思って」
 きっと父ならば理解してくれるだろう。
 椎葉が堂上会の顧問弁護士をしていることも、茅島と深く繋がっていることも。
 茅島が黙って、椎葉の髪を撫でた。茅島のシャツを強く握り締める。胸の奥が強く突き動かされるようで、苦しい。椎葉は自分から茅島に身体を密着させるように、ソファの上を擦り寄った。
「ではやはり、私も行った方が良いのではありませんか」
 不意に耳元で低く囁かれて、椎葉は肩を震わせた。
 気付くと、茅島は椎葉を覆い隠すように強く抱きすくめていた。
「茅、……」
 ただでさえ苦しく感じていた胸を塞がれて、思わず身を竦める。決して嫌ではないし、抱きしめて欲しいと、もっと触れたいと願っていたはずなのに、反射的に。
 しかし茅島は離れようとはしなかった。首を竦めた椎葉の顔を覗き込んで、間近に眸を覗き込んでくる。
「私は渡世人です。礼節を何よりも重んじるように、親父から教わってきました」
 茅島の父親代わりは、堂上会長その人だ。幼い頃から仁義を叩き込まれて育ってきたのだろう。
 凶暴さを秘めた茅島の鋭い眼差しに射抜かれて、椎葉は息を飲んだ。茅島は椎葉に危害を加えようというのではない。しかし、凶暴な愛だと感じることはある。噛み付かれ、喰らい尽くされそうなほど、愛されている。愛されたい。
「だから、――いつかあなたのご両親に挨拶をしなければならないと思っています」
 息をするのも忘れた椎葉の鼻先に唇を滑らせた後で、茅島の指先が眼鏡を取り上げた。
「ご迷惑ですか?」
 茅島の手から眼鏡が落ちる。
 椎葉は下唇を噛んで、俯いた。
「……茅島さんは、狡いです」
 茅島が椎葉の顔を追ってくる。頬に唇を伏せ、短く吸い上げながら。
 椎葉は胸の上に置いた掌を茅島の背中に滑らせると、茅島の口付けから逃れるように肩口へ顔を押し付けた。
「こんな風に口付けながら、そんなことを訊くのも――いつも私より先に大事なことを言ってしまうのも、……狡いです」
 キスすることを阻まれた茅島が、困ったように椎葉の髪へ鼻先を潜らせた。腰の手が椎葉を引き寄せ、茅島の膝の上へ抱き上げられた。髪の上から項へ、唇が降りてくる。
「先に言ったのはあなたの方だ」
 首筋を舐めるように口付けられて、椎葉は身体を強張らせた。
 息苦しさが、甘美な切なさになっていく。首の後ろで茅島の唾液の音が聞こえる。
「お父上の墓前で私のことをお話するなんて、期待してしまいますよ」
 熱い息を吐き出した椎葉が緩く首を振りながら顔を上げると、茅島もようやく首筋への愛撫を止めてくれた。その代わり、濡れた唇を椎葉の唇へ寄せてくる。
「期待、……?」
 自然と目蓋を落として顔を傾け、唇を開いて茅島の口付けを受け入れる。何度も食むように唇を吸った後で、茅島は舌を差し入れてきた。
 茅島の首へ両腕を回して応じながら、椎葉は結局自分が茅島の言葉を求めていることに気付いた。
 本当に卑怯なのは自分の方だ。
 きっとそのことに、茅島も気付いている。
「ええ」
 一度口付けを解いた茅島が、椎葉の唇に残った唾液を舐め取りながら小さく笑う。椎葉の狡さを許すように。
「あなたとこのまま、生涯を添い遂げられるのかと」
 熱ののぼった目蓋を開いた椎葉は、結局茅島に言わせてしまった自分の卑劣さを押し隠すように茅島の頬を掌でおさえ、自ら唇を重ねた。舌を伸ばし、茅島のそれを欲しがって貪りつく。
 僅かながら面を喰らったような茅島がソファの背凭れに身体を倒すと、椎葉は上にのしかかるようにして茅島の唇を奪った。
「譲さ……」
「そんなの、」
 茅島の肩に手をついて、唇を離す。銀糸を引いた口元を拭って――しかし気恥しさで目を見つめることはできずに顔を伏せながら、椎葉は声を絞り出した。
「――そんなこと、私はずっと前から望んでいます。茅島さんさえ良ければ、ずっと、」
 声が震える。
 茅島に拒まれることはもうないだろうという甘えがあってもなお、緊張で。
 すると茅島の掌が、湯気が立ち上りそうなほど熱くなった椎葉の頬に触れた。つられるように顔を上げると、茅島が穏やかな眼差しで椎葉を見つめていた。
 抱きしめられるより、口付けされるよりずっと愛しさの募るような眸だ。
 椎葉はそれを見つめ返すと、心が落ち着いていくのを感じた。安心して、気持ちが満たされていく。
 恋しくて感じる息苦しさも、劣情に締め付けられる気持ちも、全て包み込んで、昇華されて行くようだ。解かれた気持ちが、自然と唇をついて出てくる。
「ずっと――一生、お傍にいたいと」
 年が明けても、その次の年がきてもずっと先も、この命が枯れるまで、永遠に。