RAIN GIFT

 雨が、降り始めた。




 最近開店した飲み屋まで遣いにやらせたモトイが騒がしく駆け込んできて、茅島はそれを知った。
「降り出したのか」
 珍しく自室を出て事務所のソファで新聞を広げていた茅島が顔を上げると、モトイはグレーのティーシャツの裾を摘んで、ばさばさと振りながら飛沫を払っていた。相変わらず白けた色の長い髪を、左右に振る。そうしていると、本当に犬のようだ。
 能城の戯言のようにヤクザにも品格をだなどと言う気はさらさらないが、それにしたってモトイの野生児然とした振る舞いには苦笑を禁じえない。
「もー、すごいよ。いきなりすごい降って来た。……あ、俺も飲み物ちょうだい」
 綿で織られたティーシャツをいくら振っても雨雫が払い落とせるものでもない。色濃く染みのように濡れてしまった服を、結局は潔く脱ぎ捨てたモトイが長い前髪をかき上げた。
 事務所に鎮座している茅島に、他の若い組員は神経を磨耗しているようだ。無骨な手で失礼がないようにコーヒーを淹れている様子に、モトイが気軽な調子で声をかけた。
「まあ、朝からずっと降り出しそうな気配ではあったからな」
 濡れたティーシャツを丸めて小脇に抱えたモトイが、ソファの上で新聞を畳んだ茅島の傍に歩み寄ると、コーヒーを運んできた若い組員が露骨に眉を顰めた。
 小さな組とは言え、茅島は組長であり、それに無礼な態度をするモトイは許されないと思う者も多い。そうじゃなくても、茅島に瀕死の傷を負わせたモトイが組に残ることは多くの組員が賛成していなかったことだ。
「……もう入梅してるのか」
 四つに畳んでテーブルの上に放り投げた新聞の天気予報を視界に止めながら、茅島はコーヒーカップの縁で呟いた。
 きっとここに柳沼がいれば、茅島が気付く前にそう教えてくれただろう。
 あるいはモトイが出かける前に、傘を持たせたかもしれない。
 しかし奴はもういない。ここには。
「つゆって、雨が毎日降ることでしょ。つゆが終わったら……明けたら? 夏が来る。あと、あじさいがキレイ。……なめくじ大量発生」
 茅島の掛けたソファの肘掛を跨いで座ったモトイが、天上を仰ぎながら指折り数えた。
 まるで子供だ。茅島は眉を眇めて熱いコーヒーを一口啜ってから、なんだそれは、と尋ねた。とんちか何かか。
「安里が言ってた」
 モトイの答えは簡潔だった。
 指を追った掌を広げては、悪びれもなく答えて茅島に視線を下げた。
 安里のあの茫洋とした様子でなめくじ大量発生なんて語ったのかと思うと、思わず笑いが込み上げてくる。
 それは茅島の知らない、安里の新しい一面だ。モトイが招いた変化だろう。
「――……あ、」
 沸きあがってくる笑いを抑えこむようにコーヒーを呷った茅島の顔を眺めていたモトイが、背筋を伸ばして声を上げた。
「何だ」
 茅島がコーヒーカップをテーブルに戻す手を一瞥してから、モトイはバケツをひっくり返したように雨を落としている窓の外を見遣った。
 痩せ細った手を伸ばし、灰色の空を指す。
「帰って来る途中で、ベンゴシのセンセイみかけたよ」
 雨音が、茅島の耳元で響くようだった。
 今更椎葉の名前一つ聞いたところで胸を切なくさせるような必要もないのに、不意を突かれた茅島は思わず返す言葉を躊躇した。
 顔には表れなかっただろう。それは長年渡世人として生きてきたのだから、自信はある。
 しかし、発作的に恋しく思った。
 無自覚に茅島を視線一つで屈服させる、椎葉のことを。
「ああ、今日は終日事務所を空けていると言っていたからな」
 ようやく言葉を絞り出して、茅島は窓の外を覗いた。
 モトイは茅島と椎葉の関係をよく知っている。柳沼を通して、安里を通して。実際のところどこまで理解しているのかと思うこともあるが、自分の命を投げ打ってでも互いの事を守りたいと思う関係だということは、モトイが自分の目で見て知っていることだ。今更とぼけるような必要はない。
「昨日から出かける予定だったんだ?」
 茅島のうろたえた末の言葉を聞くと、モトイは肘掛の上に片足を抱えるように上げて、ふーんと洩らした。
 窓を打つ雨から視線を外して、再びモトイを振り返る。モトイがちらりと、茅島を盗み見た。
 こういう瞬間、モトイが普段はただ自分の賢しさを押し隠しているだけなのだと思い知る。
「――センセイ、傘持ってなかったけど」
 モトイが思わせぶりに付け足した瞬間、茅島は事務所のソファを立ち上がって駆け出していた。
 誰のものか判らない雨傘を掴んで部屋を出て行く間際、モトイが茅島の飲み残したコーヒーを啜りながら手を振っているのが見えた。



 傘を忘れたのは単純なミスだった。
 湿度の高い曇り空を見れば、天気予報を見るまでもなく今に降りだすということは誰にも判っていた。
 安里が出掛けに何も言わなかったのも、あまりにも明白な雨空だったからだ。
 椎葉はよく鞄に折りたたみ傘を備えていた。今日も、そのはずだった。
 堂上会の準構成員のことで資料を提出するように求められていた椎葉は、安里に任せず自分で警察署まで出向いたはいいが、警察署から近くの組事務所まで向かっている途中で雨粒が落ち始めた。
 一滴、足元を濡らしたかと思うとすぐに雨足は強くなった。
 急いで駆け込んだ書店の軒先で鞄を開いたが、入っていると思っていた雨傘がない。
 ひっくり返して確認するような鞄じゃない。いつも必要な書類と、最低限の筆記具、携帯電話と財布しか入ってない。
 中でも雨傘はそれなりに場所をとるもののはずなのに、何度確認しても入っていない。
 最後に使ったのはいつだったか、先日の晴れの日に、これから梅雨だからと思って天日に干したところまでは覚えているが、それを仕舞い忘れたのだろうか。
 そんなことを今、ここで悔やんでも仕方がない。
 見る間に目の前の道路は白い飛沫を跳ね上げるほどの本降りになり、そこかしこで短い悲鳴のような声が上がった。
 さてと、背後の書店を振り返ると軒先に出した雑誌を片付ける店員と目があった。
 どうも、この店で傘を買うことはできなさそうだ。
 若い女性の書店員は途方に暮れて雨宿りをしている椎葉の気持ちを見透かしたように、首を竦めて苦笑した。
 改めて通りに視線を向けると、片道二車線の幹線道路を挟んで向側にコンビニエンスストアの看板を見ることができるが、それを渡るまでにずぶ濡れになってしまうことは必至だ。
 椎葉は左手に嵌めた腕時計を見下ろした。
 用事のある組事務所まではここから歩いて数分の距離だ。傘を持って迎えに来てもらうことなどできそうにないし、かといってずぶ濡れで訪ねて行くような非礼はできない。
 安里に傘を持ってきてもらうように頼むには遠すぎる。
 椎葉はもう一度雨空を見上げると、深く息を吐いた。
 真夏の通り雨などではない。すぐに止むようなことはないだろう。ただ、雨足がもう少し弱くなるような可能性はある。何とかそれまでやり過ごせれば。
「傘忘れたの?」
 書店の屋根の下から腕を伸ばして雨の雫を受けていた椎葉の傍らに影が落ちて、それを見上げると若い青年の顔があった。
 どこかの組の若衆だろうか。
 瞬時に大量の組員の顔を思い出そうと勤めたが、椎葉に対してこんな砕けた様子で声をかけるような若い組員で、すぐに思い出せないような人間はいない。
「駅まで? よかったら傘、半分貸そうか」
 青年の歳格好は20歳かその頃に見えた。薄手のシャツを着て、細身のジーンズを履いている。爪先の尖った大きな靴はかなり濡れていた。
 目尻が下がって眉は丁寧に整えられている、女性受けが良さそうな甘い顔立ちだ。髪は長めで無造作に毛先を散らしていて、辺りによくいる大学生のようでもある。
 ただ、そんな通りがかりの人間が椎葉に突然声をかけてくるとは思えない。
「ああ、半分っていうのはね。……残りの半分は、俺も入れてって意味なんだけど」
 椎葉が相当訝しんだ表情をしたのか、青年は小さく笑うと頭上の大きなこうもり傘を指して肩を窄めた。
 知り合いではない。
 あるいは椎葉のことを一方的に知る人間なのか。
 椎葉はぎこちなく首を左右に降りながら、青年の顔から目を離さなかった。
「いいえ、……駅まで行く予定ではありませんから」
 身長は、茅島と同じ程だろうか。
 反射的に能城の顔が浮かぶ。能城が使う舎弟の底辺は構成員としての登録もしない、ごろつきの集まりだ。青年の身なりは綺麗で、とてもそんなうらびれた雰囲気には見えない。
 しかし宇佐美だって、精悍な人間だった。
 この青年が宇佐美と同じように椎葉に近付こうとする人間なのだとしたら、あまりにも露骨に不審ではないのか。
「そんなに警戒しなくても」
 椎葉の低く抑えられた声に苦笑を洩らした青年は、眉尻を大きく下げると弱りきったように首の後ろを掻いた。
「……じゃあ、こうしよう。あそこのコンビニまで。連れて行ってあげる。それでいいでしょ」
 しかし首の後ろから下ろした手をすぐに伸ばすと、青年は背後のコンビニエンスストアを指した。
 確かにそこまでなら、多くの人間の目の前だし、何をされるものでもない。
 あるいは彼が椎葉の命を狙って近付いてきたのだとすれば、ここで押し問答していても同じことだ。
 椎葉が警戒心を露にしたまま浅く肯こうとした瞬間、青年が再び口を開いた。
「お礼に望むのはたった一つ」
 椎葉は、弾かれたように顔を上げた。
 青年は朗らかに微笑んでいる。
「――お兄さんの名前と、連絡先。教えてくれるよね?」
 椎葉の頭の上に傘を差し掛け、声を潜めた青年は僅かに背中を追ってまるで楽しい内証話のように告げた。
 驚いて青年の顔に目を瞠った椎葉に、青年が悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
 知り合いじゃないのか、それとも知らない振りをしているだけなのか。
「おい」
 青年の言葉を推し量ろうとしていた矢先、不意に声がしたかと思うと、ついで鈍い音と同時に青年が蹲った。
 彼の手から傘が落ち、水溜りの上に転がる。
 雨が叩きつける道路の上には、見知ったデザインの缶が転がっていた。白地に青い水玉模様の、乳酸菌清涼飲料水だ。
「ツレに用があるなら、俺に言えよ」
 二回、三回と転がって緩やかに止まった缶を見下ろしていた椎葉が視線をあげると、頭を抑えてしゃがみこんだ青年の後ろにはいつの間にかBMWが停車していた。
「……!」
「っ、なンだよいきな、……っり、――」
 後頭部にしたたか缶を打ち付けられたのだろう青年がやおら立ち上がってBMWを振り返ると、怒鳴りつけようとした声がすぐに鎮火していくのが判った。
 左ハンドルの運転席から顔を見せた茅島を見れば、あまり絡みたいとは思わないものかもしれない。椎葉だって初めて堂上会長の背後に腰を下ろした茅島を見た時は萎縮したものだ。
 青年は理不尽に受けた暴力への怒りの矛先を失って、ただ足元に舞い落ちた傘を拾い上げた。
「譲さん、杢代會事務所までですか? お送りします」
 唖然とする青年を尻目に、運転席を降りた茅島が椎葉にその大きな掌を差し出してくる。
 は、と青年が短く息を飲んだ――あるいは声を洩らしたのか――のが聞こえた気がした。杢代會はこの辺りではそれなりに由緒ある組だし、青年が堅気でもそれなりに名前くらいは知っていたのかもしれない。
 またはそんなことではなく、車を降りた茅島の雰囲気に飲まれたのかもしれないが、椎葉には判らない。
「茅島さん、――どうして……」
 椎葉の予定は確かに昨夜話したが、それにしても突然こんなタイミングで通りかかるなんて。
 椎葉はそれまで緊張していた気配を一気に茅島のペースに引き込まれて、胸が締め付けられるように感じた。
「それを見たら、あなたに会いたくなりました。……それだけではおかしいですか?」
 茅島は青年の足元で濡れそぼった水玉模様の缶を視線で指すと、自然と掌を重ねた椎葉の腕を引いた。
 茅島の視線の動きを察した青年が、慌てて足元の缶を拾い上げる。完全に腰が引けてしまっていて、椎葉はひどく罪悪感に苛まれた。
「どうもありがとう、……傘を貸してくれる申し出は、嬉しかったよ」
 疑ってしまった詫びを篭めて小さく頭を下げた椎葉は、青年の手から缶を受け取ると茅島に促されるまま運転席を通って助手席に掛けた。
 青年はまだ目を忙しなく瞬かせたままだ。茅島はそれを気にも留めずに運転席へ戻ると、エンジンを吹かした。その横顔はどこか拗ねているようでもある。
 茅島が拗ねるような理由は思い当たらないが、上機嫌とは言えなさそうだ。かといって、怒っていると形容するほど深刻そうでもなくて、椎葉は助手席で身を縮めているしかなかった。
 呆然としたままの青年を置いて走り出した車中で、椎葉は一度眼鏡を外すと、曇ってしまったレンズを拭った。
「――紫陽花が」
 ハンドルを握ったまましばらく押し黙っていた茅島が、ぽつりと呟いた。
 椎葉の膝の上には、濡れたままの缶が揺れている。
 車のフロントガラスに叩きつける雨はまだ弱まりそうもない。しかし、茅島の隣にいるとそれもなんだか心地いい雨音のようだった。
「紫陽花が綺麗だと、モトイが言っていたので」
 ワイパーが往復する目前を見つめたまま言った茅島の声は、まるで言い訳を探した子供のもののように聞こえた。
 もしかしたら、あの青年に危害を加えたことを椎葉が怒っていると思ったのかもしれない。それとも、急に目の前に現れたことの理由をまだ探していたのか。
 椎葉はクリアになった眼鏡を耳に掛けなおすと、わざとらしく澄ました調子で前を向いた。
「ええ、綺麗でしょうね。でも今は、杢代會事務所までお願いします」
 わざとらしい口調に応じるように、大きな素振りで首を縮めた茅島の様子を運転席に見ると椎葉は笑いを堪えるので精一杯だった。
 青年に缶をぶつけたことはとても褒められたことじゃない。だけど茅島が来てくれたのは、助かった。会えた瞬間、嬉しいと感じてしまったのも確かだ。
「……茅島さん、大変申し上げ難いのですが」
 椎葉はひとしきり笑いを堪えた後で、後部座席へ無造作に放り込まれている二本の傘をバックミラーで一瞥してから切り出した。
「私は今日、傘を忘れてきてしまったんです。杢代さんのところで何時までかかるか判りませんが、茅島さんのご都合さえ宜しかったら迎えに来ていただくことはできますか?」
 本当ならば運転席の茅島の顔を窺いながら言いたいところだが、とても彼の眼を見て甘えるなんてことはできそうにない。
 茅島はこちらを見ているだろうか。
 その惚れ惚れするような愛しい人の顔を見るのは、後でゆっくりとっておこう。
 きっと、夜に見る紫陽花も綺麗に違いない。