SURE LOVE

 木曜の夕方に、安里に頼んで事務所の入り口にはお盆休みの張り紙を出した。
 一応先月の定例会で夏期休暇の旨は各組長に伝達してあるので、面倒はないだろう。
 まるで一般企業と同じようなスケジュールで休暇を取れることは、有難いことだ。法律事務所は役所を相手にすることが大半だから当然といえば当然だが、お得意様であるところの暴力団にはお盆休みも何もない。
 張り紙を出し終えて、休暇前の仕事を終えた安里はやはり何も言わずにいつも通り、お疲れ様でしたと告げて事務所を後にした。
 以前ならば彼の私生活など想像し難いことだったし、足がかりのない垂直な壁を上ろうとは思わないように、想像してみようという気もしなかった。
 しかし今は少し違う。
 安里がこの事務所に勤め始めてから今日まで、毎日一部の隙もなく繰り返される帰宅風景の先に、待つ人がいるのではないかと感じさせられることがある。
 それが茅島の預かっている青年――モトイなのだろうということも知っている。
 茅島がモトイを許すと決めた時こそ椎葉は気持ちが塞ぎもしたが、今は茅島の判断が正しかったのかもしれないと思える。
 茅島は事務所でモトイとうまくやれているようだし、何より安里の様子が少しでも変わったように見える。椎葉がそうと思ってみているせいなのかも知れない。相変わらず安里は自分のことを話そうとはしないし、安里とモトイが一緒にいるというのもモトイが言っていたと茅島から聞いて初めて知った。
 椎葉には知らないことばかりだ。それでも、夏期休暇を控えた安里の帰路につく足取りは、どこかいつもと違って見えた。
 良い休暇を、安里の背中にそう声をかけてみようかと逡巡して、結局やめた。
 口にしたら、もしかして嫌味っぽくなってしまうかもしれないと危惧したためだった。
 椎葉に休暇中の予定はない。
 休暇の日程が決まった時、真っ先に茅島へその日程を伝えると、その期間中は出掛けているとにべもなく返されてしまった。
 具体的に何かを期待していたわけじゃない。しかし、茅島がそんな風にそっけなくなることなど珍しいことだったし――そうされてみて初めて、椎葉は茅島の愛情に甘えていたのだということを自覚した。
 椎葉が長期の休暇となれば、茅島は少しでも一緒に過ごせるように計らってくれるのじゃないかと、まるで当然のように思っていた。
 事実、茅島は今年の正月も去年の夏も、その前も、椎葉の休暇にはそうしてくれていた。だから椎葉も、夏期休暇の日程は茅島に一番に伝えようと思っていた。
 しかし茅島にそれを強いることができるわけではないことは判っている。椎葉が暢気に休んでいられる期間だって、茅島は仕事があるのだ。
 鈍い椎葉が茅島の愛情に気付けないでいた間、茅島は待っていてくれた。
 それだけでもひどく感謝しなくてはいけないことなのに、椎葉は茅島がそばにいてくれることに慣れてしまっていて、茅島と過ごす楽しい時間も幸せな感情も、与えられるだけになってしまっていたのかもしれない。
 思えば、堂上会に関係してから今まで、椎葉は茅島とずっと一緒にいた。
 どんな記憶にも、茅島が関係している。それだけ茅島は椎葉の隣でじっと待っていてくれたということなのだろう。椎葉にとって、茅島を特別な人だと気付くまで。
「……――」
 だから、というわけではないことは判っているけど。
 行き先も告げずに茅島が椎葉の休暇中、姿を消してからずっと同じことばかり考えている。
 自分は甘えすぎていたのだ、そう自戒しているつもりが――気がつくと、ひどい不安に摩り替わって、いてもたってもいられなくなる。
 茅島がいることを当然だと思う自分に、茅島は呆れ返ってしまったのではないか。あるいは椎葉が気付くまでの間ずっと待ち続けていた茅島は、もう椎葉のそばにいる必要はないと思い始めたのではないかと。
 もう、放っておいても椎葉は茅島のことをずっと思っている。
 だから、茅島は無理をしてでも椎葉のそばにいる必要はないと思ってるのじゃないかと――
「……馬鹿馬鹿しい」 
 椎葉は何の予定もない休暇中、何度も思い至った茅島に対して失礼な想像を打ち消すように呟くと、朝からずっと着けたままの部屋着姿で立ち上がった。
 部屋の中でじっとしているから、下らない妄執にとらわれるのだ。外の空気を吸って、事務所の掃除でもすれば気が晴れるかもしれない。
 椎葉は小銭を手にして自宅から事務所、駐車場へと続く階段を小走りに駆け下りた。
 思えば学生時代から、夏期休暇といえばまとめて学習する機会に充ててきた。だからまとまった休みと言われても、することがない。これといった趣味はないし、久しぶりの休みだから会おうと連絡を取り合うような友人もいない。
 こんな人間だから、茅島も愛想を尽かしたのだろうか。
 階段の途中で足を止め、再び首をもたげてくる不安にとらわれた椎葉は密かに顔を顰めた。
 茅島が自分を好きになる理由など、今まで一つも判ったことがない。だからこうしてみると、嫌われる理由ばかりが思い浮かんでくる。
 自戒ならともかく、ただ恐れおののいていても何も始まりはしないのに。不毛で非生産的で、まったく無駄な感情だ。
 しかし恋なんていうものは、百の内、九十が無駄なものでできているに違いない。噛み付いても歯応えのない綿菓子のように正体がなくて、いくらでも食べてしまえるけれど、消える時はあっという間だ。
 だけど、一度覚えてしまった甘さは容易には忘れられない。
 砂糖を溶かしたような茅島の愛情をもし、失ってしまうようなことがあったら――
「……っ!」
 膝から力が抜けていくような気がして、椎葉は慌てて階段脇の壁に手をついて、凭れた。
 たかが、休暇中に会えないというだけだ。
 だけど、こんなことは初めてだったし、何よりも自分が嫌われる理由ばかりが多すぎる。
 今回じゃなくても――それが遠い未来であっても、いつか茅島が気持ちに冷めた時、椎葉は茅島を引き止める術を持っていない。知らない。
 そばにいて欲しいんだと、あなたが欲しいんだと、子供のように泣き喚いたってきっと無駄だろう。そんな風に取り乱せる自信もない。だけどきっと、気が変になってしまう。
 恋は理屈ではないから、椎葉には何も判らない。どうしたら茅島がずっとそばにいてくれるのか。今までそんな基本的なことに頭を悩ませずに茅島のそばにいられた自分は、ひどく、脆弱だ。
 たった数日、会えないだけでこんなにも不安になる。
 あとどれくらい会えない時間が続くのか判らない。
 もしかしたらもう会えないのかもしれない。
 椎葉は壁伝いにずるずると身を沈ませ、両手で顔を覆った。
 鼻の奥がつんとして、目蓋が熱くなってくる。息をしゃくりあげると、震えた声になった。
 この家は、椎葉が一人で休日を過ごすには広すぎる。初めて来た時には茅島が案内してくれて、初めて茅島に体を暴かれたのもこの家だ。どこもかしこも茅島の思い出が染み付いていて、こんな場所でずっと一人で過ごすことは耐えられない。
「――っふ、ぅ……っ、」
 階段の隅で蹲り、顔を覆っていると次から次へ涙が溢れてきた。
 薄暗い階段には椎葉の漏らすか細い泣き声だけが響き、遠くに聞こえる車の往来する音も、かすかに聞こえる虫の音も、椎葉の孤独感を浮き立たせるばかりだ。
 こんなことなら、事務所を休みになどしなければ良かった。安里には休みを与えても、椎葉まで休む必要はなかった。仕事以外に時間を過ごす術を知らない椎葉に、酒の楽しみも食事の楽しみも、二人で過ごす甘い時間を教えてくれたのも、茅島だ。茅島がいないなら、椎葉には仕事しか残っていない。
「先生?」
 駐車場から続く階段に、不意に声が飛び込んできた。
 まるで暗がりに迷い込んでくる蛍のように。
「どうしたんです、そんなところで――」
 階段を上がってくる革靴の音。聞き慣れたリズムで、椎葉は目を閉じていても、それが誰なのかよく知っている。目蓋の裏にはもうその姿が、浮かんでいる。
「……泣いているんですか? 何か」
 あったのか、と尋ねようとする茅島に腕を伸ばして、スーツの裾を掴む。
 顔を上げて仰がなくても、茅島がどこにいるのかも、椎葉の顔を覗き込んでいることも、判る。判ってしまう。茅島の行動なら、何でも。たとえ気持ちは判らなくても。
「茅島さん……!」
「っ、先生? どうかされましたか」
 手探りで掴んだ茅島のスーツの裾を引き寄せ、腰を上げてその首にしがみつく。
 上がってきた階段を押し戻されそうになった茅島がわずかに身を仰け反らせた後、かろうじて持ち堪えて椎葉の背中に腕を回すと、椎葉はようやく泣き止むことができた。
「別にどうも、……しません」
 鼻を啜り、茅島のスーツに回した指先に力を篭める。
 自分のもの以上に慣れ親しんだように感じる体温が、腕の中にある。茅島の腕の中にいる。それだけで、心の中がいっぱいに満たされて、もうこれ以上は何も要らないとさえ思える。この瞬間に世界が終わっても良い。
「どうもしない筈がないでしょう、こんなところで一人で……」
「どこへ行ってらしたんですか」
 もう用事は済んだんですか。
 茅島の言葉を遮り、肩口に顔を埋めたままの椎葉が尋ねると、茅島はそれで全てを察したように小さく息を吐いた。
 壁に背を預けるように身を反転させ、椎葉の体を引き寄せる。
 髪の上に、茅島の唇の感触が落ちた。
「――友人の、……七回忌に行ってきました」
 ぽつりと漏れたような茅島の呟きに椎葉が顔を上げると、茅島は確かに、黒色のスーツを身に着けていた。どことなく線香の香りもする。
「すみません、何も言わずに空けてしまって」
 椎葉は黙って首を振った。
 聞かなかったのは椎葉だ。休暇中、茅島が出かけるという事実だけで気後れしてしまって、何の用なのかは聞きそびれていた。
 大事な用の後でも、茅島はこうして椎葉に会いにきてくれたのに。
 つまらない想像で、茅島を疑った。
 椎葉が黙ったまま詫びるように視線を伏せると、茅島は椎葉の背中を抱く腕にいっそう力を篭めた。
「譲さん」
 頭上で囁かれた茅島の声は低く、濡れていた。
「あなたに寂しい思いをさせたことは謝ります。だけどこれだけは、覚えておいてください」
 椎葉は思わず、顔を上げた。明かりをつけていない階段で、茅島の表情はよく見えない。ただ、その双眸がしっかりと椎葉を見つめてくれていることは判る。
「私はあなたをこの先ずっと、愛しています。私がここにいなくても、私の気持ちは常にあなたのものだ」
 一瞬、椎葉は自分の愚かな不安を全て茅島に悟られたのかと思った。
 しかし、静かに注がれる茅島の眸を見つめているとそうじゃないことが判った。
 茅島が言う「ここ」は恐らく、この世界だ。
 いつか茅島が命を落とすようなことがあっても、椎葉を愛し続けてくれていると――茅島はそう言っているのだ。
 椎葉は握り締めた喪服の上へ額を摺り寄せるように顔を伏せると、小さく肯いた。
 茅島の気持ちを疑うようなことを思ってしまった自分を恥じるし、申し訳ないとも思う。
 しかし椎葉は茅島に謝る代わりに、その広い背中を抱きなおした。自分も同じ気持ちだと伝える言葉が、うまく紡げない。茅島に愛されて幸せだという気持ちも、自分がどれだけ茅島を恋しく思っているかも、伝えなければいけないことは山ほどあるというのに。
 朝が来て、また茅島が束の間椎葉の隣からいなくなる時までには言わなければいけない。
 結局どんな切羽詰った気持ちも、愛しているという言葉以外にはならないかもしれないけれど。