SUMMER VACATION
「灰谷さん、今年の夏休みいつ取るの?」
背後からの声に振り返ると、風呂から上がったばかりの瀬良が上半身裸のままアイスの棒を手にして立っていた。
いつからそうして灰谷の後ろにいるのか知れない。少なくともアイスを一本食べきるまではそこにそうしていたのだろう。
今日は珍しく早く夕飯を終え、のんびりと読書に耽っていた。
瀬良と一緒に暮らす気はないが、こうして毎晩訪ねているせいで瀬良の部屋には灰谷の私物がちらほら見受けられる。この本もそうだ。読み終えたら自宅に持ち帰るつもりだが、それまでは瀬良の家に置いておいたほうがページが進む。
もうしばらく、灰谷は自分の家に戻っていない。
風を通すためだとか布団を干したいとか衣替えだとか、意図的に戻ることはある。調子に乗りすぎた瀬良にお灸をすえる意味でそれほど腹が立ってなくても怒ったふりをして帰宅することもある。半年に一度くらいだが。
瀬良は何度も「一緒に暮らそうよ」と言うが、灰谷はかたくなに拒み続けていた。
いざとなったら帰れる場所がある。それが灰谷には大事な気がした。戻れる実家のない灰谷だから、そう思うのかも知れなかった。
「夏休みか、他の予定を聞いてからだな」
灰谷は一度瀬良から目を離して本を閉じた後、一つ息を吐いて改めて瀬良を振り返った。
重い腕を怠そうに上げ、掌を天井に向けて人差し指を軽く曲げる。一度、二度。
パッと表情を明るくさせた瀬良が素早く灰谷のそばまで来て、しゃがみこんだ。ちぎれんばかりに左右に振れる尻尾が眼に見えるようだ。
瀬良に背中を向けさせると、灰谷は唇に笑みを浮かべた。それを瀬良に悟られないように、タオルで乱雑に瀬良の髪を拭ってやる。
「俺と一緒に休み取れる?」
尋ねながら振り返ろうとする瀬良の頭を両手で抑えこんで、無理やりうつむかせる。
瀬良は笑い声をあげて手足をばたつかせた。そのままぐいと前屈されると、今度は灰谷の上体が持って行かれて、思わず瀬良の背中に乗りかかってしまった。
瀬良の裸など今さら意識するようなものでもない。
いやというほど灰谷の肌と重ねあわせて、時には爪を立てもする背中だ。
普段は頼りなくてバカに二本足をつけて動いてるだけのような男のくせに、――こうして改めて見ると、頑丈そうな背中だ。頼もしい、とも言える。
灰谷をひょいと担ぎ上げてしまえるくらい。
「じっとしてろ」
後ろから頭を叩くと、瀬良は笑い声をあげて首を竦めた。
「お盆時期は無理だぞ。九月になるかも知れない」
地方から出てきてる組員で実家に帰れるものには実家に帰してやりたいと思うし、他を休ませている間幹部が全員事務所を出払っているというのも心配だ。
灰谷一人なら、休みなど要らないとさえ考えていた。
しかしそれを言えば、瀬良が黙っていないだろう。バカのくせに労働基準法がなんだかんだとやかましくするに違いない。結局のところ、自分が灰谷と一緒に長期休みを取りたいというだけのために。
「それでもいいよ」
伸びてきた髪を灰谷に拭われて上機嫌の瀬良は、そう言って顔を仰向けた。
不意打ちで顔を仰がれた灰谷が顎を引くと、瀬良が今度は後ろに体重をかけてくる。支えきれないというよりは、支えてやる気のない灰谷がその場に尻餅をつくと、瀬良はバランスを崩してひとしきり暴れた後、灰谷の膝の上に頭を落ち着けた。
「ねえ灰谷さん、俺の実家行こうよ」
灰谷の部屋着が濡れる、と瀬良の頭を退けようとした瞬間――瀬良の言葉に、灰谷は耳を疑った。
「は?」
思わず、思い切り顔をしかめてしまった。
瀬良が不安そうに表情を曇らせて、のそのそと起き上がる。灰谷に膝を突き合わせるように正座して、窺うような視線で覗き込んできた。
「俺の実家に、……来ない? 嫌?」
さっきまでばたばたと振れていた尻尾が、萎れてしまった。
正座をして猫背になった瀬良の、捨て犬のような眼差しを避けるようにそっぽを向くと、灰谷はため息をひとつ吐き出した。
「何しに?」
瀬良のことだからどうせ、家族に深いトラウマを抱えている灰谷を実家に誘うことが無神経だっただろうかとか何とか考えて肩を落としているのだろうが、別にそんなことはない。
ただ、単純に意味が解らないだけだ。
そう伝えればいいのだろうけど、長々と説明するのが面倒くさい。もういい加減、言わなくてもわかるだろう。
「何しにって、……あの、だから」
すっかり背中を丸めてうつむいてしまった瀬良は、言い出しにくそうにしている。
逞しい、頼りがいのある背中が、台無しだ。灰谷は盛大に溜息を吐くと、手に持ったタオルを床に叩きつけた。
「言いたいことがあるならはっきり言え!」
「灰谷さんを両親に紹介したいです!」
反射的に背筋を伸ばした瀬良が、両目をぎゅっと瞑って大きな声を張り上げた。
「……、は?」
両親に紹介。
どうして?
灰谷はますます眉間の皺を深くして、大きく首を傾げた。
「そもそもお前、家族には何の仕事してるって言ってるんだ?」
そう遠くない場所に実家があるくせにわざわざ一人暮らしをしている息子の職業を、家族は知っているのか。
問い詰めるような灰谷の視線に、瀬良はまたじわじわと背中を丸めた。
「……金融業」
まあ、間違ってはいない。
でも正しくはない。
灰谷が冷たい眼差しで応えると、瀬良はうつむいてしまった。
「でもさ、俺、この先一生、灰谷さん以外の人と付き合うつもりないし」
うつむいて丈の半端なスウェットを握りしめた瀬良が、次第に声に力をみなぎらせていく。
灰谷は思わず、瀬良の姿を見つめた。あっけに取られて。
「結婚――は、できないかも知れないけど」
瀬良が、顔をあげた。大真面目な顔で、灰谷を見つめる。
思わす視線がかち合ってしまった。
「この人が俺の生涯の伴侶です、って、親に紹介したい!」
言い切って、瀬良は灰谷の両肩をがしっと掴んで、引き寄せた。
待て、という言葉が出てこない。驚きのあまり、口の中が乾いて。
馬鹿か、と言い返すこともできない。
可笑しくて、呆れて、脱力してしまってどうしようもないのに、顔が熱い。
灰谷は今自分がどんな表情をして瀬良の眼に映っているのかもわからなかった。
瀬良を傷つけないように、しかし早まった真似はするなと、言いたいが、言葉が浮かんでこない。
「……駄目?」
さっきまで決意を固くしていたくせに、また迷いの色を浮かべた捨て犬が、鼻をキュンキュンと鳴らしそうな声音で尋ねてくる。
その唇が、近い。
灰谷はまだ言葉を探しあぐねて、ただ視線を逸らした。
いきなり男の恋人を紹介された親はどう思うのかとか、そもそも瀬良の家族はやっぱり瀬良のような脳天気な人間ばかりなんだろうかとか、紹介なんてものは必要なのかとか、――いろんな疑問が浮かんでくるが、駄目かと言われたら、駄目だと言うつもりにはなれない。
そうしているうちに瀬良に唇をついばまれて、灰谷は目蓋を伏せた。
「ん、……ぅ、ン」
乱暴に抱き寄せられて瀬良の膝の上に乗り上がる形になると、灰谷は自分から顔を傾け、瀬良の首に両腕を回した。
いつからか、こうして瀬良と四肢を絡めていることがまるでもとからあった形のように自然で、安堵する場所のように感じるようになっている。
瀬良の近くにいると、全てが許されるようだ。
だからこそ怖いと思うこともあった。今でも、そう感じる時がある。
「俺が、灰谷さんの家族になるよ。……俺の家族も、灰谷さんの家族だよ」
舌の表面をかすめるように触れ合わせた後で、灰谷がもっとねだるように舌を伸ばすのを短く吸い上げた瀬良が言う。
灰谷に父親はいない。母親からは捨てられた。自分が望んでそうしたのだ。家族なんてもう要らない。その気持は、変わらない。
だけど、瀬良がそう言うものを突き返す気にはなれない。
灰谷は唇を大きく開いて瀬良の口を塞ぐと、舌を大きく差し入れて瀬良の唾液を貪った。瀬良の体に火がつくように、合わせた腰を艶めかしくすり寄せる。
灰谷の背中を抱く瀬良の腕が強くなった。風呂上りの素肌がじっとりと汗ばんでくる。
明日事務所に行ったら、夏休みの日程を調整しよう。
紹介なんて大それたものじゃなくても、瀬良の家族に会うのは悪くない。
灰谷に家族は要らない。ただ、瀬良だけいればいい。その瀬良を育ててくれた家族に礼の一つでも、言っておきたい。
「……瀬良」
床の上に灰谷を押し倒した瀬良の必死になっている顔を仰ぐと、灰谷はその頬を両手で包んで、言葉を飲み込むようにまた口づけた。