TAGGER TARGET

 薄暗い倉庫の一角に身を潜めて、瀬良はゆっくりと呼吸を往復させた。
 時刻は夜の十時をとうに回っていて、気温がだいぶ下がってきた。ここまで全力で走ってきて、心臓は破れそうなほど激しく打っているし、外気の冷たさで肺も凍りつきそうだ。
 倉庫の中は静まり返っている。大きく息を弾ませれば、それだけで敵に居場所を知られてしまうだろう。
 瀬良は酸素を欲しがってどくどくと跳ねる心臓を、服の上から左手でぎゅっと掴みながら、あたりの気配を窺った。
 倉庫に飛び込んできたは良いが、退路を塞がれかねない。少しでも敵の身じろぐ気配を感じたら飛び出さないと、袋のネズミだ。
 自分の心音が鼓膜に響いて、他者の気配を聞き逃しそうだ。
 瀬良は強く目を瞑って、神経を集中させた。
 灰谷はどこへ行っただろうか。
 ここまで駆けて来る途中で見失ってしまったが、敵に捕獲されてしまった可能性もある。助けることはできるだろうか。敵の居場所ならわかっている。しかし、敵陣に乗り込むだけの取引材料がない。
 そもそも、灰谷を助けたところで――
「ッ、!」
 瀬良の視界で、人影が動いた。
 姿勢を低く構える。手の中の弾は、残り僅かだ。闇雲に撃つわけにいかない。弾切れを起こせば、灰谷を助けに行くどころではない。
 瀬良は息を殺して、気配を探った。
 埠頭に立てられた現在は使われていない倉庫。身を潜めるには最適だし、敵もそう思って当然だ。鉢合わせる覚悟はしていた。
 逃げ回っていても、勝てない。正面からまともに行っても勝てる相手じゃない。
 それなら、こちらから懐に飛び込むしかない。
「誰だ?」
 倉庫の鉄筋を響かせるような低い声で、男が言った。
 やはり。
 瀬良は倉庫に転がり込んできた自分の勘が間違っていなかったことに笑みを浮かべながらも、改めて気が引き締まるのを感じた。
 望んで挑むつもりでここまで来たものの、実際に対峙するとなると呼吸が震えるような気がする。
 緊張なのか、興奮なのか、自分でもわからない。
「――瀬良か」
 男は暗がりの中で、小さく笑ったようだった。
 男もまた、瀬良が自分の懐に飛び込んできて相打ち覚悟の勝負を挑むことくらい、予想していたのだろう。
 瀬良は手の中に握りしめた残弾を握り直した。相手はいくつ弾が残っているのか。そんなことを考えてもしかたがないかもしれない。きっと、勝負は一瞬だ。
 瀬良が物陰から飛び出して構えるまでの間に、男も瀬良を振り返るだろう。
 瀬良が男めがけて弾を撃ち込むのが先か、あるいは男が先か。それだけだ。
 寒さで、指先がかじかむ。しかし、弾を外すなんてことはできない。負けられない闘い。これは瀬良の、男の意地をかけた、闘いだ。
 瀬良は静かに息を吐き出すと、身構えた。
 男の声の方向に間違いはないはずだ。物陰を立ち上がり、弾を放つまでの行動をシュミレートする。無駄を一切省いても、男より早く動けるかどうか。相手は百戦錬磨の極道者だ。
「――――ッ、!」
 瀬良は物陰から転がり出ると、倉庫にわずか差し込んだ月光を浴びた男に向けて構えた。
「覚悟!」
 弾を放とうとした、その瞬間。
 瀬良の後頭部に鋭い衝撃が走った。
「!」
 ついで、弾が倉庫の床に落ちる、乾いた音。
 瀬良が振り返ると、――闇の中に灰谷の光る眼があった。まるで、猫のようだ。
「瀬良、背後がガラ空きだ」
 思わずその場に膝をついた瀬良に、灰谷がゆっくりと歩み寄ってくる。
 まだだ。まだ、勝機はある。しかし、灰谷に向かって撃つのか。いや、先に――
「……ッ、辻さん!」
 瀬良はもうなりふり構わず、左手に握りしめた全弾を振りかぶって、倉庫の中央に無防備に立ち尽くした男――辻に向かって、声を上げた。
 その掌が開かれるより早く、灰谷の冷たい指先が瀬良の額に弾を押し当てる。
「鬼は外」
 灰谷が、月の光を浴びた白い顔色で夢のように美しく微笑む。
「――……っ負け、ました……」
 瀬良の掌から、バラバラと音をたてて、大豆が零れ落ちた。



「辻のぶんもチョーダイ」
 十文字はただ一人、暖かい事務所で胡坐をかいて座っていた。
「一体いくつ食べるつもりだ?」
 毎年、年齢の数しか食べてはいけないと煩く言うのは十文字の方なのに、一人で炒り大豆を貪り食べている。
 辻もいい加減毎年のことなんだから気にしなければいいのに、律儀に歳の数だけ分けるんだからご苦労様なことだ。
「ま、でも瀬良は粘った方でしょ?」
 味も素っ気もない、何が楽しくて食べてるんだかわからない炒り大豆を齧りながら、十文字は笑う。
「敗けは敗けです」
 灰谷は淡々としたものだ。いっそのこと灰谷も十文字のように笑ってくれるなら、まだ、救われるのに。瀬良は灰谷の言葉に深く項垂れた。
「……大体、辻さんと灰谷さんが同盟組んでるなんて卑怯ですよ……」 
 瀬良は、灰谷さえ守れればそれでいいと思っていた。
 自分が負けることは、構わなかった。十文字がそれを読んでいれば、灰谷を使って瀬良をおびき出すくらいのことはするだろうと思っていたが――まさか辻と灰谷が同盟を組んで瀬良を貶めようとは。
「何が卑怯なものか。極道は面子を守るのが仕事だ。辻さんは菱蔵組の若頭だ、負かす訳にはいかない」
 灰谷は、瀬良が自分に対して抱いている愛情を利用してまで辻の面子を守ったというわけか。
 瀬良は深く溜息を吐いて、それ以上口を開く気になれなかった。
「瀬良、顔を上げろ。首が塗りにくい」
「はい」
 悲しくて涙が出てきそうになる。
 事の発端は、十文字がシマ内の幼稚園から節分の豆撒きに鬼さんを呼んで欲しいと頼まれたことだった。
 誰が鬼の役をするのか、決めかねた――いや、瀬良はやってもいいと言ったのだが、それをあえて無視された上で――決着を、豆まきでつけることになった。
 灰谷に鬼の扮装をさせる訳にはいかない。
 瀬良は、それしか考えていなかった。組員を何人も大豆弾の餌食にし、あと一人、辻さえ仕留めれば勝てたのに。
「よし、できた。瀬良、乾くまで何処にも触るんじゃないぞ」
 半裸の瀬良に青い塗料を塗り終えた灰谷は冷たくそう言い放って、手を洗いに行ってしまった。
 灰谷を守れたんだからそれでいい。自分がこの寒空の下、園児たちに笑われながら豆を投げつけられることは何とも思わない。しかし、瀬良の胸には虚無感が渦巻いていた。
「俺は一体何のために戦ったんだ……」
 思わず壁に手をついて泣きたくなるが、どこにも触るなとのお達しだ。きっと涙も流してはいけないんだろう。目の周りまで青く塗られている。
「うはは、瀬良、青いなー! ブルーマンだブルーマン!」
 十文字は瀬良を指さしてゲラゲラ笑っている。あいつの笑いのツボは幼稚園児以下だ。
「瀬良、塗料が乾いたら虎のパンツを履いて、このかつらを被って完成だ。くれぐれも園児相手に怒ったりするなよ」
 淡々とした灰谷の手続きに、瀬良は黙って肯いた。
 何が悲しくて事務所でパンイチになって全身真っ青のまま、塗料が乾くまでぼんやりと立ち尽くしていなければいけないのか。しかもこのあとは鬼の扮装のまま幼稚園まで徒歩で行くのだろう。市民の冷たい視線が容易に想像できる。
 ヤクザってこんな商売なんだっけ……。
 瀬良が何度目かの溜息を吐こうとした時、灰谷の視線を感じて瀬良は顔を上げた。
「塗り残しですか?」
 灰谷は自分のデスクに座って、眼鏡をかけなおしている。もう節分など終わったとでもいうようだ。
「いや」
 ブルーマンにパイプ叩かせようぜ、と騒ぐ十文字の声にかき消されそうなほど小さく、灰谷は言った。
「今日はそれを落とすのに難儀するだろうから、――一緒に風呂に入ってやるよ」
 囁くような、小さな声で。