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「灰谷さんツイッターやってんの?」
 風呂から上がってきた瀬良に尋ねられて、灰谷は視線を上げた。
 瀬良はまた、今日は蒸し暑いからという理由にならない理由でシャワーだけで済ませてきたのだろう。硬い髪にタオルを乗せて、手には自分の携帯電話を握っている。
 風呂から上がるなり携帯電話だなんて、まるで依存症の子供だ。灰谷は上半身裸のままの瀬良から、呆れたように顔を逸らすと短く、ああ、とだけ答えた。
「全然つぶやいてないじゃん」
 ビジネス書を広げた灰谷の寄りかかっているベッドに転がり込んだ瀬良は、携帯電話を眺めながら口先を尖らせている。液晶画面にはツイッターの画面が表示されているのだろう。
「瀬良、ベッドが濡れる」
 瀬良は風呂上りに体を拭くのが下手だ。髪から垂れた雫とは思えないほど濡れたまま出てくることもままある。
 灰谷は、ひょっとしたら瀬良のことだから本当に犬のようにブルブル、と体を揺するだけで上がってくるのではないかと考えて複雑な気持ちになった。思わず、眉間に皺が寄る。瀬良をまるで犬のようなものだと形容したのは他でもない自分自身だが、本当に犬になってしまったのだろうか。
 灰谷の一言で慌てて身を起こした瀬良が、羽毛布団の表面を気にして掌で払っている。
 ある程度の清潔感を保ってもらわなければ――ただでさえも瀬良のベッドは、互いの体液で汚れる機会が多いので――嫌になるだろうとは思っているが、ベッドの寝心地が悪いから泊まらないだのと、実際に灰谷が言ったことは一度もない。
 しかし瀬良は灰谷が泊まらなくなったら嫌だからと言って上質な羽毛布団を買い、頻繁に天日干しをしてくれる。
 おかげで確かに瀬良のベッドは寝心地がいいので感謝したいところだが、そもそも瀬良のベッドは瀬良の寝るところであって灰谷の寝る場所ではないのだから、感謝するのは驕りというものだ。事実、瀬良が灰谷の存在さえなければこんなに寝場所に気を使うことなどなかったとしても。
 ありがとうという気持ちを示してしまえば、灰谷は瀬良の隣で眠ることを、灰谷自身も認めてしまうことになる。
「…………」
 灰谷は、背後で相変わらず半裸のまま携帯をいじっている瀬良のせいで少しも集中して読むことのできなくなったビジネス書を黙って閉じた。
 第一、本当に灰谷を泊めたいと思うのであれば広いベッドを買い換えるべきだ。
 ただでさえも大きいなりをした瀬良がベッドからはみ出すくらいなのに、そこに灰谷が入れば、必然的に重なりあうようにして眠るしかない。
 それが嫌ならば灰谷だって自分の家があるのだから帰宅すればいいだけの話だし、床に寝るという手段もある。瀬良は、灰谷が言えば自分が床で寝ることだって厭わないかも知れない。しかし、そういう問題ではなく、広いベッドに買い換えれば済むだけの話だ。
 そうしないのは、瀬良が灰谷と重なるようにして密着して眠りたいから、というそれだけの理由にほかならない。
 だから、感謝するような話でもないのだ。
 灰谷は無理やりそう結論づけると本を置いて腰を上げた。
「灰谷さん、風呂?」
 いつの間にか瀬良の部屋に灰谷の下着や服が揃うようになっている。こう頻繁に泊まるなら、そうしないと面倒だからだ。
 灰谷は瀬良に対するいらだちのようなものを抱えて、返事をせずに下着を出した。
 瀬良が悪いわけではないが、苛立つものはしょうがない。瀬良も慣れたもので、灰谷が返事の一つや二つしなかったところで別に何とも思っていないだろう。
 本当に怒っていれば、自分の家に帰るだけだ。ここで風呂に入るということは、どんなに口をきかなくてもひとつの布団にくるまるのだから。
 その時、背後からカシャッという電子音が響いて灰谷は瀬良を振り返った。
 瀬良が、携帯電話のカメラを構えていた。
「――――ッ!」
 灰谷は自分が考えるより早く、瀬良の手から携帯電話を取り上げた。
 液晶画面には下着と部屋着を手にした灰谷の姿が、思案顔で映っている。見慣れた無表情の顔には苛立の片鱗も見えていない。瀬良はよく灰谷の顔を飽かずに見つめていることがあるが、こんな何の感情もない顔を見ていて面白いことなどあるのだろうかと、灰谷は未だにそれがわからない。
 灰谷は瀬良が撮った写真を保存せずに消して、携帯電話を閉じた。
「どういうつもりだ」
 瀬良は叱られることが判っている犬のように大きく肩を窄めている。垂れた耳と力をなくした尻尾が眼に見えるようだ。だからといって可愛いと感じているわけではない。ただ犬のようだと思う、それだけだ。
「灰谷さん、そーやって、写真撮って、ツイッターにアップすればいいんだよー、……てこと」
 そう言った瀬良が、瀬良自身の携帯電話を手にした。
 反射的に灰谷が自分の手元を見ると、灰谷の携帯電話が握られている。つまり、瀬良は灰谷の携帯電話で灰谷を撮影したということだ。その写真をツイッターに投稿しようと思っていたのであれば、自然なことだろう。
 灰谷は瀬良の部屋で携帯電話を厳重に管理しているとは言えない。電話がかかってきても、灰谷が手を放すことができなければ瀬良に取ってもらうこともある。しかし、それは瀬良に自由に触らせていいということではない。
 反射的に強く握りしめた携帯電話が、灰谷の手の中で軋んだ音を立てた。そのまま振り上げて、瀬良の頭を殴りつけそうになる。灰谷を怒らせたことが判っている瀬良は避けも抵抗もしないだろう。
 しかし灰谷は暴力をぐっと堪えると、大きく息を吐き出した。
「――……携帯電話を勝手に触るな」
 唸るようにそう言うので精一杯だった。
 瀬良の返事はない。こういう時、瀬良は反論か疑問を抱えていて、しかしぐっと飲み込んでいる。灰谷が正しいと思って他に余地のない場合、瀬良は即座に自分の非を認めて返事をした。そうじゃない時はとりあえず黙っていて、灰谷の激昂が収まった時に、改めて口を開く。
 瀬良がそんな風に利口な犬になったのは、ここ数年のことだ。灰谷がそう躾けたというよりは、瀬良が灰谷を大事にしてくれているということなのだ、ということは判っている。
 だからそれ以上灰谷は口を開くことも出来ず、しかし瀬良を許すこともできないまま、瀬良の家を出て自宅に帰ることもできない。
 ストラップも何もつけていない携帯電話を握り直して、灰谷は踵を返した。
「風呂入ってくる」
 瀬良の返事はない。
 灰谷の気持ちが落ち着いた頃に瀬良に尋ねられても、灰谷は答えることができないだろう。どうして灰谷の携帯を触っただけであんなに激昂しなければならなかったのか。
 今回の喧嘩は長引く可能性がある。灰谷が答えるまで、瀬良は釈然としないからだ。瀬良はあれで頑固なところがあるし、灰谷も融通がきかない。
 バスルームに入った灰谷は、大きく溜息を吐くとその場にしゃがみこんだ。
 携帯電話を握りしめた手が強張っていて、うまく開けない。一本ずつ解すように広げて、開いた携帯電話のデータフォルダを表示させる。灰谷の姿を保存しなかったフォトフォルダには、数枚の写真が保存されているきりだ。
 それはどれも、瀬良の寝顔だった。
 いつか灰谷が死ぬ時にはこれを眺められたらいいと思うし、それよりも前に瀬良と別れることになれば、写真は永遠に残すことができる。そう思ってのことだったが、さすがの瀬良も、灰谷に勝手に盗撮されているとなればいい気分はしないだろう。
 これは親しい仲でもルールを逸脱した行為だ。
 そう思っていても、灰谷はその写真を消すことができずにいる。瀬良に嫌な顔をされれば消さなければいけないという気持ちにさせられるだろう。
 しかしそれを隠すために瀬良と喧嘩をしていては元も子もない。現実にいる瀬良と写真の中の瀬良と、どちらが大事かという話だ。
 灰谷は無防備な表情で眠っている瀬良の表情を写した携帯電話を閉じて抱え込むと、深く項垂れた。