WINTER NIGHT(2)

 正月と言えば思い出されるのは、不思議と刑務所の中のことばかりだ。
 思い出そうと思えば、家族で御節を囲んだこともあったのかも知れない。
 紅白歌合戦を見たこともあったかもしれない。
 言われてみればそんな記憶もあるような気がするけど、どれも霞がかった記憶の彼方のことでしかない。
 刑務所の中で見た紅白歌合戦は、それは退屈なものだった。
 何しろ、いつもだったら消灯時間後だ。もう眠たい。起きていていいよと言われても、起きている気にはなれなかった。
 大体、塀の外でどんな歌が流行っているかなんて興味もなかった。
 年越しそばを食べて、灰谷はすぐに自分の布団に潜り込んだ。
 年が変わるからと言ってとり立てて何が変わるわけじゃない。五日間の休みの間に配給される食事も菓子も、灰谷の気持ちを弾ませる要素は何一つなかった。
 それなのに、未だに正月と言えばあの薄暗い景色を思い出す。
 もう、何年も昔のことなのに。

「灰谷さん灰谷さん、お餅焼けたよ」
 何の味にする、と石油ストーブの前に屈み込んだ瀬良が灰谷を手招いている。
 灰谷は鳴らない電話の前で番をしながら、頬杖をついてその姿を眺めた。瀬良の能天気な様子に、返事をする気にはなれなかった。
 刑務所を出てからというもの、年末年始はこの菱蔵組で忙殺されるまま、気がつけばいつの間にか松の内を終えていることばかりだ。
 今年は事務所待機を命じられているけど、それもこれも瀬良が灰谷が風邪っぽいなどと洩らしたせいだ。
 確かに咽喉がひり付くように痛んでいるのは数日前から感じていた。しかしまだ風邪と呼べるようなものではないし、風邪だから、何だ。どんな高熱に浮かされていようと、氷水に三時間浸かっていろと十文字が命じれば、そうするのが自分たちの仕事だ。と、灰谷は思っている。
 たかが咽喉の痛みくらいで露店を休むなんて、本当だったらあってはならないことだ。
「灰谷さん、お餅焦げちゃうけど」
 角餅の表面を割って膨れ上がってくる隆起を突付きながら、瀬良は適当な皿を持ってきてその上に餅を一時避難させた。
 何が餅だ、くだらない、と吐き棄てる気も失せる。
 正月なんて何てことはない。今となっては稼ぎ時の一つでしかない。年越しそばも御節も、餅も、自分から進んで楽しみたいと思うことなどない。
 いつもと同じ祝日だ。
「灰谷さん」
 小さく息を吐いて手元の売上げ書に視線を落とした灰谷の傍らに、瀬良が運んできた餅の皿が滑り込んできた。
 驚いて手を引くと、そこには磯辺と黄な粉の両方が乗せられている。
 堂上会長の邸に行けば、つきたての餅を食べる機会もあるだろう。実際、年始の挨拶に伺った辻や十文字が持って帰ってくることもあった。灰谷にそれが残されていても、例年、もう硬く冷えてしまったあとだったが。
 瀬良が運んできた皿からはまだ湯気が昇っている。
 近所のコンビニエンスストアで買ってきた安物の角餅だ。しかし、大きく膨らんだ表面はまだ萎みきらず、粘り気を帯びた表面をきらきらと輝かせながら息衝いている。
 こんな風に温かそうな餅を見たのは、もうずっと前のような気がする。
 灰谷は机の上に遠慮がちに置かれた皿を、思わず食い入るように見つめた。
 刑務所の中で出された餅は雑煮の中でしかなかったが、当然、こんな風に温かいものではなかった。
 塀の中に入る前だって、こんな風に餅を振舞われたことがあっただろうか。もう思い出せないほど遠い昔、自分が幼少の頃にはあったかも知れない。
 もうそんな自分は自分ではなかったように思えるほど隔絶されてしまっているけど。
「灰谷さん、……まだ怒ってる?」
 弱弱しい声に弾かれて顔を上げると、瀬良は灰谷の背後で膝を抱えていた。
 深く顎を引き、眉尻を引き下げてわざとらしいほど消沈した表情を作っている。そのわざとらしさが気に障るんだと言っても、瀬良は悪い癖を直そうとしない。
 そんな大きな図体で可愛い子ぶって見せても灰谷の神経を逆撫でするだけだと言うのに。
「ああ」
 灰谷は短く答えると、大きく肩を落とした瀬良から顔を背けて皿に添えられた箸を取った。
 瀬良らしい、大雑把な磯辺焼きだ。海苔は大きすぎるし、豪快に漬けられた醤油が隣の黄な粉の餅まで染みてきている。
 それでも、二度ほど息を吐きかけた後で頬張ると、柔らかい食感の向こうに香ばしさが広がってきて灰谷は息が詰まった。
 素朴な味が胸の奥まで突き上げてきて、何とも言えない気持ちになる。
 後悔をしたことはない。
 誰かを恨んだこともない。
 だけど、瀬良と一緒にいるとたまにこんな衝動に駆られることがある。
 ただ胸の奥を掻き毟って、叫びだしたいような、それは衝動としか言えない感情だった。
 多分それを素直に表現すれば、涙を流すということになるのかもしれない。だけど灰谷はそれを知らないから、獣じみた咆哮を胸の内に抱えたまま、餅と一緒に飲み下した。
「瀬良」
 磯辺焼きを半分ほど消化した後で、灰谷は背後で大人しくしている瀬良を一瞥すると、手の中の皿を小さく掲げた。
 瀬良が勢いよく顔を上げる。
 これくらい従順な仕種が十文字にも出来るようならもっとマシな組員になれるはずなんだが。
 まったくいつまでも半人前の瀬良を手招いて口付けの一つでもしてやろうかという気持ちを押し隠しながら、灰谷は磯辺焼きの追加を注文すると、小さく笑った。
 それは瀬良にも見えないくらい小さな笑みかもしれなかったが。