KING of the DAY

 大学に最寄りの駅で腕を掴まれた。
「ハイタニって、お前?」
 ほとんど瞬きをしないグレーがかった眼で見つめられて、灰谷は知らず、唾を飲み込んだ。
「……どちら様ですか」
 少年院から出てきてまだ一年余り。喧嘩をしないに越したことはない。灰谷は息を潜めるように毎日を過ごしていた。帽子を目深にかぶり、必要最低限にしか口を開こうと思わない。
 また罪に問われることを避けたいと強く願うわけでもなかったが、また周囲に騒がれることは面倒だ。血は血を呼ぶ。灰谷がまた誰かの返り血を浴びれば、その匂いを嗅ぎつけた乱暴な人間に喧嘩をふっかけられてしまう。
 喧嘩は面倒だ。
 疲れるし。
 とは言え、振り払おうとした灰谷の腕を掴んだまま離さないでいる男には喧嘩を売る様子もなかった。
 やたらと骨ばって細い体で、姿勢が悪い。外国人の血統なのかと思うような整った顔立ちをしているが、――頭は悪そうだ。
「お前喧嘩強いんだろ」
 大きな口でからっとした声を上げた男の腕が、灰谷を引いた。咄嗟に足を踏ん張ろうとして、背後の気配に気づいた。
 夕方の帰宅ラッシュが始まった駅の構内だ。老婆が通り過ぎるのに、灰谷は邪魔になっていた。
「――……用がないなら離していただけますか」
 バツの悪い思いで、どちらにともなく小さく頭を下げた灰谷は視線を伏せて唸るように答えた。
 噂なんてものは消すことが出来ないし、事実ならば余計、いつまでも絶えず自分について回ることだ。仕方がない。灰谷は一生この罪と一緒に生きていくしかないことは判っている。
 覚悟ならとっくにしている。
「俺の名前は十文字だ。用事ならある。俺の質問に答えろ」
 改札口へ急ぐ人の波に押されて、灰谷は十文字と名乗った小柄な男と駅の壁際へ寄っていた。
 十文字の口調はやたらと上段から振り回されて、面倒事を窺わせる。灰谷は大きく溜息を吐いた。
「強くはないですよ。答えました。もういいですか」
 否応なく喧嘩に巻き込まれたことならある。しかし、強いとは思わない。
 自慢にもならないことだが灰谷には腕力がないし、俊敏に動けても打撃に重みがない。多分、喧嘩には向かないのだろう。そんなことは自分でよく判っている。だから喧嘩は面倒だ。
 灰谷は十文字の腕を強引に引き剥がすと、掴まれていた二の腕を掌で軽く払って踵を返した。
「お前」
 すぐさま十文字の声が背中から追ってくる。
 灰谷の目の前には、いつの間にか大きな男が立ちはだかっていた。反射的に顔を見上げると、顔面に大きな裂傷がある。濃い色のスーツを着て、いかにも堅気じゃない雰囲気がある。
 灰谷は十文字をゆっくりと振り返った。十文字は、腕を組んでふんぞり返るように立っていた。唇には不敵な笑みをたたえて、相変わらず瞬きの少ない大きな眼がギラギラと光っている。
「――人を殺せるんだってな?」
 サラリーマンや学生でごった返した駅の中で、十文字は声を潜めようともしない。
 灰谷はきっと捕まったら逃がしてもらえないだろう屈強な男を一瞥した後で、再び溜息を吐いた。
「はい、殺せますよ」
 こんなことは珍しくもない。ただ、喧嘩と同じくらい面倒だ。
 少年院の中でも、少年院から出た後でも、灰谷を仲間に招き入れようとする暴力団の勧誘はいくつもあった。中には幹部自らが灰谷の家までやってきて、好色そうな目で舐め回すように見つめられたこともあった。
 稚児になる気はないと追い返して以来、暫くは面倒事が絶えなかった。
 喧嘩は面倒だ。
 でも、殺せばもっと面倒だ。
 人を殺せば殺すほど、灰谷は雁字搦めになる。
「俺の組に来い」
「お断りします」
 灰谷が言うと、十文字は早いよ、と大袈裟に眉を顰めた。
 言われるだろう勧誘の言葉を想定して反射的に答えたはいいが、まさか「俺の組」などと言うとは思わなかった。
 十文字のような非力そうな男が組長だというのだろうか。どれだけ弱小な組織だろう。まさか暴力団ごっこというわけではないだろうな。
 灰谷はもう一度、灰谷の背後を塞いだ大きな男を振り仰いだ。静かな面持ちで微動だにせず、立っている。まるでよく躾けられた番犬だ。十文字が主人か。
 その人間がどういう人間かを知るには、その人間の持ち物を見ればいいという。部下を見れば、十文字がどんな人間かを計ることもできるということだ。
「暴力団に属する気はないんです。……あなたも、俺を雇えば面倒になる。それくらい、調べはついてるんでしょう」
 他の組での面倒を抱えた人間を組み込めば、組同士の衝突になりかねない。ごっこ、というわけでもなくても十文字の組が強大とは思えない以上、面倒に巻き込むのは気が引ける。
 諦めてください、と両手を掲げてみせた灰谷が、顔に傷のある男を避けて人ごみに立ち去ろうとすると、その腕をまた十文字が掴んだ。
「面倒かどうかは俺が感じることで、お前が気にすることじゃない」
 確かにそうだ。
 笑みをかき消した十文字に顔をぐっと寄せられて強く告げられると、灰谷は返答に詰まった。
「ただ、お前がヤクザ者になる気がないっていうなら、いきなり組に入れとは言わない」
 額を突き合わせるように顔を寄せ、声を潜めた十文字の低い声が続ける。目を瞠った灰谷の視界には十文字のギラギラと光る眼差ししか飛び込んでこない。
 引き寄せられる。呼吸も忘れるような、変な気分だ。
「友達になろう」
 十文字は言った。
 至極、真顔で。
「――は?」
 聞き間違いかと思った。思わず首を傾げた灰谷から顔を離した十文字は、再び背を逸らして偉そうに腕を組んだ。
「俺の友達にしてやるよ。お前どうせ、友達とかいないだろ? 暗そうだし」
「間に合ってます」
 躊躇うことなく、灰谷は踵を返した。
 もしかしたら本当に「ごっこ」かもしれない。ちょっと頭のおかしい人間なんだ。きっとそうだ。灰谷が逃げるようにその場を後にしようとしても、屈強そうな男はそれを引き止めようとはしなかった。その代わり、十文字の声が追ってくる。
「お前は俺を好きになるよ」
 混み合った改札は思うように前へ進めない。灰谷は後頭部を打つようなふざけた言葉に思わず振り返った。
「生憎そんな趣味はないもので」
 言い返すと、十文字は屈託なく大きな口を開けて笑った。
 まるで、太陽のような男だ。
 灰谷が遮ろうとした手を退けて、やすやすとその光を射してくる。釣られるように思わず言い返せば、既に十文字の掌にいるようだ。
「俺だってお前なんかに勃、」
 人でごった返した駅の構内で何かを言いかけた十文字の口を、裂傷を持った男の大きな掌が塞いだ。
 二人を振り返った灰谷が男の顔を見上げると、男は穏やかな眼差しで十文字を見下ろしていた。灰谷の視線に気付くと、早く行け、というように顎を揺らす。
 灰谷は黙って男に小さく頭を下げると、人波に押し流されるようにその場を後にした。
 背中に、大きな太陽のぬくもりを覚えながら。