猟犬は傅く(12)
茅島Ⅲ
上座に座った椎葉は、少し痩せたように見える。
茅島が夜毎撫でた黒髪に艶がないし、伏せた視線は淀んでいる。眼窩も少し落ち窪んで、頬はこけたようだ。
虚勢にしろ自信にしろ、堂上会系傘下暴力団の組長勢を前にしていつも胸を張って前を見据えていた椎葉が、今は力なくうつむいている。
茅島は今すぐにでもその座布団の前まで駆けていって、具合が悪いのか、夜はきちんと休息しているのか食事は摂っているのか、肩を抱き寄せ、顔を覗き込みながら世話を焼きたい衝動を抑えた。
いつもならそうしただろう。
もっとも、茅島がそうできるような状況なら椎葉がこんな萎れた花のようになってしまうこともなかったに違いない。
椎葉の優しい心根に、華奢な体に、深い心労を負わせてしまっているのはきっと茅島の思い違いではないはずだ。今すぐ茅島が抱きしめてあの時のことを詫びたとしたって、それが償えるものではない。
それでも、椎葉を危険に晒すよりはましだ。
いつかはこうなることがわかっていた。
椎葉は太陽の下を歩く人間で、茅島は生まれついての日蔭者だ。椎葉を愛しく思えばこそ、他の女とは違うと思えばこそ、愛など囁くべきではなかったのだと何度も思った。
それでも彼の手を握ってしまった。
茅島の気持ちを伝えずにはいられなくて、それに応えてくれた椎葉の唇を奪わずにはいられなかった。
今茅島にできることは、早くこの事態を抜け出すことだけだ。
茅島は憔悴した椎葉の姿から目を逸らすと、障子の前に座った能城を見遣った。眦の釣り上がった狐のような顔は相変わらず、真顔でいても下卑た笑いを浮かべているように見える。
その隣には椎葉の事務所で会った、迫という弁護士が座していた。
見慣れない男を値踏みするようなヤクザ者たちの視線を一身に受けて、緊張しているようだ。なるべく彼らの方をみないようにしながら、能城と談笑を続けていた。
迫の素性を囁き合う面々の中には、生傷のある顔もあった。殺気立っている者や、ろくに眠れず、疑心暗鬼そうに目をぎょろぎょろと動かしている者もいる。今時分、トラブルを抱えている組は少なくない。
茅島がその中でとりわけ小さな体を探そうと視線を走らせると、座敷の前の方にいた。定例会に顔を出すのは実に一年ぶりくらいか。十文字は背筋を伸ばして、正座を崩そうとしていなかった。
茅島がその姿に小さく笑おうとした時、座敷に会長が入ってきた。
「待たせた」
総勢二十人はくだらない屈強の男たちが一斉に頭を下げる中で、老人はそう言うと椎葉の前を通り過ぎて上座の中央に座った。
入れ替わるようにして立ち上がる能城の隣を会長が窺うように見遣ると、迫が竦んだように慌てて頭を下げる。
「そちらは」
嗄れた声で会長が尋ねると、迫がビクッと震えて弾かれたように背筋を伸ばした。演技でそうしているようには見えない。能城はこの業界にすれていない人間を自分の意のままに操るつもりなのだろうか。会長が椎葉を起用したように。
「こちらはこの度、新しくうちで雇うことにした顧問弁護士で迫先生といいます。会長には後ほどゆっくりとご挨拶を」
座敷内が一瞬、ざわついた。
「ウチの法務関係は椎葉先生に一任してるだろう」
構成員の疑問を統括するように会長が優しく尋ねると、能城は室内のざわめきを一蹴するように甲高い声で笑った。相変わらず耳につく、嫌な声だ。
「ええ、あくまでも堂上会とは関係ない、うちの――松佳一家で頼んでいる先生です。アドヴァイザーとでも言いますか」
芝居がかった身振り手振りを加えた能城の説明に、ざわめきは消えない。しかし中には押し黙っている組員の姿もある。それが能城派の人間ということか。座敷の末席に座った茅島が注意深くそれを眺めていると、十文字と目があった。
「それじゃお前ぇ、椎葉先生のメンツってもんが――」
「会長、構いません」
老人の言葉を遮るようにして張り上げられた椎葉の凛とした声に、茅島すらはっとした。
椎葉に視線を戻すと、さっきまで萎れていた椎葉が胸を張って、能城を見据えている。座敷に漂っていた不穏な低いざわめきも、ぴたりと止んだ。
茅島は人知れず眉を眇めると、苦笑を零した。
誇らしいような擽ったいような、妙な気分だ。最初はあんなにおどおどしていた椎葉が、今はたった一言で強面の組長どもを黙らせてしまうのだから。
茅島が愛した男は、とんでもなく豪傑らしい。
「堂上会直参組織の法務は私が努めさせていただくことに変わりはないのですから、問題はありません。それでなくても、松佳さんはシノギのトラブルが多くて私一人の手には余るところでした」
座敷のどこからともなく、忍び笑いが聞こえた。
十文字かと思ったがどうも違うようだ。茅島が周囲を見渡す限り、数人が肩を震わせている。
「それは、例えばどんなことでしょうか?」
さっきまで怯えていたはずの迫が、身を乗り出して椎葉に食いついた。
やはりさっきまでのは演技だったのか、あるいは相手が椎葉だから舐めているのか。茅島は緩く腕を組んで、お手並み拝借を決め込んだ。
「能城さんの経営する飲食店『オーシャンズ』ですが、従業員の半数が就労ビザを取得していませんね。前回もお願いしたはずですが、先月末の時点でまだ放置されています」
不法滞在している外国人を駒のように使い捨てるのは能城の十八番だ。いざとなれば強制送還させてしまえばいいとでも思ってるのだろう。外国のマフィアと手を組んでいるふしも伺える。そんなのは、会長が最も忌み嫌う行為だというのに。
椎葉が従業員のリストだろう資料を掲げると、会長が手を差し出した。椎葉が腰を浮かせて、手渡そうとする。するとそれを叩き落すようにして迫が口を開いた。
「オーシャンズの件なら、既に解決しています」
視線が一斉に、迫を振り向いた。
迫は鞄を開いて紙の束を取り出すと、それを座敷の面々へ見せつけるようにして高く掲げた。
「就労ビザを持たない従業員は全員、既に入籍しました。日本人国籍を入手しています」
迫が掲げたのは、婚姻届のコピーだった。
能城の経営するフィリピンパブは郊外の大型店舗で、従業員は三十をくだらないはずだ。半数が該当するとしても、全員入籍させるのは大変だ。
おそらく、能城が囲っているゴロツキの籍を勝手に弄っただけだろう。形だけの入籍をするだけで薬物が貰えるならヤツらは喜ぶだろうし、形だけでも夫婦ということになればフィリピン女を抱くのは自由だ。
「……っ、しかしオーシャンズの店舗形態は風適法に抵触する恐れが――」
「ご忠告ありがとうございます。既に店舗の内装は大きく変更し、個別の部屋を撤廃しました」
余裕の口ぶりで迫が立ち上がり、会長に資料を提示する。
「しかし店外営業は、」
「飲食店で知り合った男女が退勤後に男女の関係になろうと、それは個人の問題です。我々経営者が関与すべきことではない。――そんなこと、行政法に精通している先生なら、おわかりでしょう?」
長身の迫に見下された椎葉が、黙って唇を噛んだ。
和室に静寂が訪れる中で、能城がただ一人、肩を震わせていた。
「迫先生、この後お時間ありますか? 私の店に珍しい日本酒が入りましてね。ほら、先生先日日本酒がお好きだって言ってたじゃないですか。つまみに宮崎県の黒豚を用意させましょう」
上機嫌になればなるほど声が大きくなる能城の笑い声が、長い廊下に遠ざかっていく。
いつの間にか十文字は座敷から姿を消していた。
椎葉はしばらく、その場に座ったままだった。迫から押し付けられた資料を眺めているふりをしているが、焦点があっていない。茅島には、椎葉が虚脱してしまっているように見えた。
大勢の組員の前で恥をかかされたのだから、無理もない。
茅島は後ろ髪を引かれる思いで、椎葉に踵を返して座敷を後にした。
定例会の後で茅島が椎葉を送り届けなかったのは、実に初めてのことだった。
都内の小さな寺の一角に、藤尾の墓はある。
亡骸の引き取り手がないことを生前から聞いていた茅島が、勝手に建てた墓だ。安里には伝えてあるが、墓参りに来ているのかどうかは知らない。
茅島はブランデーの小瓶を一本、墓石の前に置くと、ようやく詰めていた溜息を大きく吐き出した。
藤尾の最期の電話を受けた茅島は、その後しばらく藤尾がどうして安里を置いて逝ったのか理解に苦しんだ。
せめて安里に何か伝えることがあったのじゃないかと、あるいは安里が藤尾を失ったことを苦に自らの命を絶とうとするところまでが藤尾の望みだったのなら、何故一緒に連れて行ってやらなかったのかと。
藤尾の死は安里に隠し通せるものではない。
藤尾がどんなに安里を突き放したところで、安里の気持ちを変えることはできない。
それならば、一緒に連れて行ってやれば良かったのではないのか。
安里の痛ましい姿を間近で見守るこっちに気持ちにもなれと愚痴りたくもなったものだ。
しかし、今なら藤尾の気持ちがわかる。
一緒にいて抱きしめてやれなくても、椎葉に対する茅島の気持ちは変わらない。それでいい。
たとえ離れ離れになったまま茅島の身に何かあったとしても、椎葉に危害が及ばないならそれでいい。そう言えば椎葉は激怒するだろう。その想像だけで、茅島は生きられる。
茅島がもし命を落とすようなことがあっても、椎葉は生きていれば、いつかまた幸福になる可能性がある。
生きていれば、いつか。
「……お前にモトイの話をしたら、顔を顰められそうだな」
苔の蒸した墓石を見下ろして呟くと、茅島は一人で苦笑を漏らした。
しかもそのモトイが安里と一緒に暮らしていたなんて知ったら、化けて出てきかねない。藤尾が化けてきても茅島は構わないが、安里にしてみたらたまったもんじゃない。
モトイは今、茅英組の事務所で組員の監視をつけて軟禁している。そうでもしないと今すぐ能城を殺しに行きかねない。
「でも、モトイとお前の喧嘩は見てみたかったな。お前がいれば、モトイももう少しまともになったかもしれないし」
いや、余計面倒だった可能性もあるか。茅島は独りごちて声を上げて笑うと、スーツのポケットから煙草を抜き出した。
あるいは藤尾も生きていれば、根本のように丸くなったのだろうか。能城の一件さえ片付いたら、そうなっていた可能性もある。藤尾がいれば、能城はもっと早く片がついていただろう。だから真っ先に消されたということだ。
「まあもう少し、黙って見てろよ」
茅島は口先に銜えた煙草に火をつけると、大きく息を吸い込んだ。
「お前の仇はお前のために取るんじゃない。――生きてる人間のために、取るもんだ」
紫煙を燻らせた煙草を、ウイスキーの隣に立てる。
藤尾が呆れた表情で茅島を追いやる姿が見えたような気がした。昔から人一倍寂しがりのくせに他人を寄せ付けるのが嫌いな男だった。だからなかなか墓参りにも来れない。
しかし能城の一件さえ片付いたら、少しは墓前に腰を落ち着けて久しぶりに酒をゆっくり酌み交わすこともできるだろう。
茅島は小さく首を竦めて笑うと、ゆっくりと踵を返した。
煙草の煙だけが微かに、茅島のスーツに藤尾の名残を残している。茅島は戯れるようにしてそれを掌で払った。
「あ、茅島さん」
寺を出た茅島を呼ぶ声に顔を上げると、路肩に停車させた茅島のBMWの隣で瀬良が待っていた。