knocking on your door(1)
その日は朝からロクなことがなかった。
霧雨は昨日の朝から止まないし、ビデオ予約した洋画はつまらねぇニュースが飛び込んできて番組延長、ラストシーンだけ途切れた。
どうしても気になって駆け込んだレンタルビデオ屋にはそのビデオが二本、どっちにもレンタル中の札がぶら下がっていた。舌打ちして蹴り入れた空き缶にはどっかの酔っ払いの吐いたゲロがべっとりくっついていて、一昨日買ったばかりのスニーカーはあっと言う間に汚れた。
煙草買って帰ろうとしたら自販機は売りきれ、うたた寝の最中だったばぁちゃんに言って買ったら釣銭間違ってやがる。
これでもかというくらいに運の悪いことばかりが続く日だった。今日のバイトは三時から、何が起こってもおかしかない。
……死ぬかもな。
なんて、笑えない冗談吐いて苦い煙を吹かす。四角い窓に囲まれて見える空は濁った雲が敷き詰まったままで、こんな中で鉄筋運んでたら足を滑らせて死ぬなんて考えられないことじゃねぇ。
今の内に遺言でも書いとこうか?
くっくっく、と俺は一人の部屋で肩を震わせた。さっきからつけっ放しのテレビではくだらねぇ芸能ニュースを垂れ流し続けている。もう何日も鳴っていない電話は今日も大人しくしてカラーボックスの上に鎮座している。
時折、自分が何者か判らなくなる。ふと掌を見て自分の姿を確認して安堵する。
大の男がでかい図体持て余して何やってんだと遠い新潟の両親に叱られそうだ。
上京してきた時ァいろいろと理屈をつけてやって来たもんだがあの時の理屈は一体どこから湧いて出てきたもんなんだ? 必死だった記憶はあるものの、今となっては自分が生きてるのかどうかさえ判りゃしねぇ。
俺はまた一人で含み笑いを洩らした。
生きてる実感が湧くのなんて、夜中にエロビデオ見てマスかいてる時くらいか。
バイト先のおやじ相手に酒酌み交わしたって愛想笑いを浮かべるばっかりで
俺、何やってんだ?こんなところで、一人で。
……あぁ、こんなこと考えちまうのも妙についてねぇ今日の運勢の所為だ、畜生。
「はよございまーす」
簡易事務所で制服に着替えて現場に出ると、井上のおっさんが手を振って俺を呼んだ。
今日みたいな足場の悪ぃ日に限って嫌なことやらすんじゃねぇぞ、この野郎。死ぬんじゃねぇかなんてのが洒落んなんねぇ。
「オノダくん、今日新入り来るんだ、今から」
霧雨に濡れた額を薄汚れた袖口で拭いながらおっさんは言った。
「はぁ、そースか」
俺は肩まで伸ばしっぱなしの髪を後ろで一本にまとめながら相槌をうつ、おっさんははるか頭上の俺の顔を見上げて
「ちょっと今日人が少ないから仕事教えてやって貰えるかな」
何だ、おやじどもはサボりか? 雨降ってるからって。
「あぁ、いいスよ」
その野郎によるけど新人に合わせた仕事の方が楽だしな。とりあえず死ぬこたないだろう。
「水野透くんて言うんだ、よろしく頼むよ」
はい、と俺は返事をしてその新人が来るまでおっさんに頼まれた雑用をこなしていた。
「あぁ、来た来た」
俺が現場に入ってから三十分ほどしてその新人はやって来た。
「宜しくお願いします」
そう言って頭を下げながらやってきた「ミズノ」は
「…………はァ」
どっからどう見たって優男。土木に向いてねぇだろ、というのを飲み込んで
「人、そんな足んないんスか」
とおっさんに訊く。
優男と言ったって、こんなに土木に向いてなさそうなのを探し出してくる方が難しいんじゃねぇのと言いたくなるくらいお坊ちゃん面も良いところ、「おまえ苦労したことあんの?」と言いたくもなるような平和そうな顔面、女みたいに綺麗な顔――へぇ、随分と甘い顔してんじゃねぇの、こんな仕事やるより有閑マダムにでも飼ってもらやイイのに。
「水野透です」
皮肉には耳も貸さない様子で俺を向いて、そいつは微笑んだ。
……えれぇ小奇麗な顔だな。
俺はまじまじとその顔を見返した。こんな――透き通るようなっていうの?――白い肌を俺は雪国である故郷の女にだって見たことねぇぞ。
「先輩の、織野田斎丸くん。今日は仕事を教えてくれるから、仲良くね」
おっさんはそう言い残して自分の持ち場に戻ってしまった。
仲良くねも糞もあるか。
「……あの?」
残された俺と「ミズノ」は暫く向き合ったまま突っ立っていた。
「あぁ……」
いや正しくは、俺が「ミズノ」のその馬鹿みたいに女々しい顔を見ながら動こうとしなかったので奴も動けなかったのだが。
「えーと?」
俺は雨を含んだ後頭部の尻尾を手で絞りながら歩き始める。
「あ、水野です」
そいつは弱々しい笑みを浮かべてついて来る。
犬っころみたいだな。やっぱりどう見てもこの仕事にゃ向いてねぇ。一日で辞めるだろう、半日持つかも判らねぇ。お前さんにゃ花屋か何かが向いてるんじゃねぇのか?
「じゃあまずセメント運びます。……持てる?」
一袋5キロはある筈だ、その細っこい腕には抱えきれないだろう。
「はい、大丈夫です」
「ミズノ」は一袋抱え上げて笑った。
「あー、すいません。一個ずつ運んでたらキリないんで五個ずつくらい持って貰います」
言って、俺は重ねたセメント袋を抱え上げた。さすがにミズノは絶句して、困ったような表情を見せた。
「……しょうがないんで慣れるまで三個でイイです」
俺が露骨に呆れた調子で言うとすいません、とか細い声でミズノは答えた。
こういう素直な申し訳なさってのが俺は嫌いだ、うぜぇうぜぇ。早く自分が間違った次元の世界に来ちまったってのを自覚してくんねぇかなァ。
俺が無言でセメントを運び始めると慌ててミズノもついてくる、往復すること四回、おっさんに頼まれてボルト取りに行ったり他のおやじどもにミズノを紹介して歩く内に日は暮れ、休憩の時間を迎えた。
雨はいつのまにか止んでいたが、地面はぬかるんだままだ。
若いのは若いもん同士と押しつけられるようにして、いつもは一人で弁当を食う俺の横にはミズノがちょこんと座っていた。
「織野田さんはこの仕事始めてどれくらいになるんですか?」
白い肌は多少泥に汚れたものの、花のような笑顔は衰えていない。
俺は暫く話し掛けられたことに気付いてない振りをして黙っていてから、本当は口を開くのも面倒だったんだが仕方なく
「三十年くらい」
吐き捨てるように言う。
お坊ちゃまミズノはきょとんとした眼で俺を見た。
俺が人と話したくないんだってことが通じてりゃ良いんだが。
「……三ヶ月くらい、だ」
俺はほうじ茶を啜りながら付け足してやった。するとミズノは笑って
「なんだ、そんなに年上の方なのかと思ってびっくりしちゃいました」
……思うか、フツウ。
俺はうんざりに上乗せして、弁当をかっこんだ。
「織野田さんてお幾つなんですか?」
まだ続けるかこの野郎。黙って飯食えよ。
女みてぇなのは顔だけじゃねくてお喋りなところもか。
「四十四歳」
俺が答えると、ミズノは暫く顎に手をあてて考え込み
「――二十二歳、ですか?」
畜生、人並みに脳味噌はあるらしい。
俺は仕方なしに頷いた。
「あぁ、じゃあ俺の方が年上なんですね」
え?
俺は箸を止めてミズノの顔を見た。花のような笑顔がほころぶ。
「三歳も」
そいつは言った。