knocking on your door(17)

 ミズノはよく笑うようになった。
 俺が言った一言がどんなに大切だったかが判る。
 ――いや、単に自分の過去を振り切ることができたから無理に笑うことをしなくなったのかもしれねぇけど。
 別にそんなことはどーでもイイ。
 ミズノは以前からへらへらとしてむかつくヤロウだったが、その偽りが消え、心からのニコニコヤロウになると、万年春をつれためでたい男みたいで俺は心底うんざりしていた。
「あんたさぁ」
 俺はほとんど毎日のように、ミズノの働く喫茶店でメシを食うようになった。が、まるっきり料金を踏み倒している。ミズノの給料から引かれてんのかな? だとしたら、悪いな。
「精神年齢さらに下がっただろ」
 頬杖をついて、今日もミズノの淹れたコーヒーを啜りながら俺が言うと、ミズノはカウンターの中で洗い物をしていた手を止めて俺をにらみつけた。
「そんなことありません」
 わざとらしくふんと鼻を鳴らして見せるが、まったくもって凄みも貫禄もクールさもない。
「何か、幼い」
 俺が冷静に付け加えると、店主の女がぷっと吹き出した。
「瑞貴さんっ」
 店主に笑われたことで焦ったようにミズノが声を上げた。口先を尖らせ、拗ねたようにして見せるのは一種のジョークなのか?
 俺もこらえきれずに肩を震わせる。
「斉丸! 年上のお兄さんをからかうなっ!」
 ミズノは店の雰囲気をぶち壊しにするのも恐れず喚いたが、俺も店主の女も、笑いが止まらなかった。
 あの日以来、よく笑うようになったのはミズノだけじゃなく俺もか。
 それまで事務連絡程度にしか口を利いていなかった仕事先の学生アルバイトとかとも今は軽口を叩き合える。
 オノダさんってもっと怖い人だと思ってた、なんて言われながら。
 俺だって、チャラチャラしたガキどもとなんか口を利くのは嫌だと思ってた。
 だけど思ったほどでもねぇ。
 俺はまた生きやすくなった。
 今年の夏は実家にでも帰ってみようかなんて気にすらなってくる。
 人間が丸くなったってゆーのか? こーゆーの。

「斉丸」
 ミズノは、俺に抱きつくのに了解を求めなくなった。
 少しは俺の意向も聞いてくれねぇか、と言いたくなってくるくらい、今では家の中にいる間中くっつかれている。
「斉丸、斉丸」
 こいつは、初めて名前を教えた時といいセックスの最中といい、やけに気安く人の名前を連呼しやがる。
「斉丸、好き」
 ペットボトルのウーロン茶を飲んでる俺の唇の端にぎゅうぎゅうと唇を押し付けてくる。漏れるじゃねぇかこのヤロウ、うぜぇ。
「あぁ、ハイハイ」
 手の甲を振って、犬でも追い払うようにあっち行けと示す。
 外ではもう少し男らしくもしてられるくせに、何でこうなっちまうのかね。
 昔の、ちょっと影があったくれーの方が良かったんじゃねぇのか。
「お風呂にお湯たまったよ」
「それを先に言いなサイ」
 俺は読み止しの雑誌をミズノの頭の上に載せて腰を上げた。
 今日は寒くて肩こって、早く湯に浸かりたいのだ、俺様は。
 ミズノが背後で「お湯張ってくれてありがとう、は?」と喚いているが、無視をして下着を出す。
 室内の時計を見ると午前三時を回ろうとしている。
「水野サン、あんたもう寝れば」
 ミズノは俺より二時間以上早く出勤する。おかげで万年寝不足じゃねぇか。
「斉丸と一緒にお風呂入る」
 俺の背中を追ってきたミズノが、俺の背中にまたくっついてくる。それを邪険に振り払って
「いいから寝てろ」
 そのうちまた風邪でもひかれたらかなわねぇ。
「じゃあ一緒に寝て」
 口先を尖らせて、上目で俺を見上げてくる。
 甘ったれてんじゃねぇ、作り物の幼さ演出はでぇ嫌ぇだ。他所当たれ。
「言ってろ」
 苛立たしさを床に踏みしめて、風呂場に向かう。
「さーいーまーるー」
「うるせぇ」
 俺はもともとそういう鬱陶しいのは嫌いだ。
 ミズノだってそれくらいわかってそうなもんなのに、あいつは俺が思ったほど賢くもねぇのかもしれない。
「――……」
 風呂場のすりガラスの扉の向こうで、ミズノが俯いて黙った。
 ……計算か?
 俺はとりあえず服を脱ぎ散らかすとシャワーを浴びた。
 俺があいつに惚れたからと言って、俺はかわらねぇ。
 うぜぇもんはうぜぇし、優しさなんてもんはあいつの勘違い以外には存在しない。
「……斉丸、ごめん」
 ぽつり、とミズノの声が届いた。
 俺は返事をする気にならなくて押し黙ったまま、湯船に身を沈めた。俺好みの熱い風呂だ。
「あの、……俺今日はもう、寝るね」
 無理に笑ったような気配を帯びた声。
「……今度、俺の話聞いてね」
 最後に付け加えられた声はひどく小さいものだった。風呂場の水音にかき消されて聞き逃していても無理がないような声。
「何だよ」
 俺は湯から上がると、ズポンジを手に取った。
「え?」
 ボディソープをスポンジの上に垂らしながら、俺は視線も向けずにすりガラスの向こうのミズノに言った。
「今言えよ」
 俺が促した後、しばらくの間が続いた。
 言う気がないなら今度でいい、と俺が言葉を繋げようとした瞬間、
「斉丸最近、あんまり……し、」
「あ?」
 俺がシャワーを浴びる音でミズノの声が途切れて聞こえた。
 シャワーを止めて、聞き返す。
「……斉丸、俺のこと好きだって言ってくれてから全然……してくれないし」
 言い難そうに言葉がさまようのは乙女の恥じらいのようなものではなくて、セックスに対する拭い去りきれない嫌悪感からだろうか。
 それがいけないことであるかのような罪悪感。
 俺が何とも思ってないのとは違って、こいつはいろいろ考えちまったのかもしれない。
 俺が仕事でそれなりに楽しくやってるおかげでがっつくようなことがなかっただけのことを、こいつは深読みしちまったんだろう。
 だからってべたべた纏わりついてくるのは逆効果以外のなにものでもないが。
「……だから、あのね」
 自身を奮い立たせるようにして言葉を続けたミズノの語尾を奪って
「水野サン」
 俺は再び湯に浸かった。
「あんた今日、風呂に入ったのか?」
 俺と入ろうと思って入ってなかったんじゃねぇのか、と言ってやるとミズノは俺の言わんとしていることくらいすぐに判って、慌てて風呂場に入ってきた。
 別に慌てるこたないんだが。
「そういや、俺もあんたのハダカ久し振りに見るな」
 わざとらしい優しさを掛けてやると、それでもミズノは擽ったそうに笑った。
 大の男二人が湯船に浸かると、大量の湯が溢れた。
「斉丸もっと小さくなんなさい」
「無理言うな」
 でけぇ浴槽のあるところに引っ越すしかねぇな、と思いながら俺が首を振ると、それを押し留めるようにミズノの唇が寄ってきた。
 小さく啄ばんだ後ですぐに離れて、俺の唇にはミズノの指先が這った。
「……斉丸前に、人を好きになったことがない、って言ってたよね?」
 指の腹で俺の唇の表面をなぞりながら、時々口付けて……忙しい奴だな。
 人の唇をおもちゃにすんじゃねぇよ、と言ってやりたいところだが、うっとりしたように睫を伏せているミズノの顔がキレイで、何も言えない。
「あれ、本当?」
 ウソ言ってどーすんだ、と俺が口端を下げると、ミズノの指先が俺の口を無理やり笑ませるように引き上げてくる。顔が歪む。
「あのね、斉丸」
 ミズノの体が、狭い浴槽の中で更に擦り寄ってくる。
 おいおい、風呂場でヤんのか?
「人は一生の内で一人の人しか愛せないんだって」
 ホントかよ、どこの暇人が調べたんだそんなこと。
「斉丸のその一人が、俺?」
 戸惑いがちに覗き込んでくる視線。
 さっきの甘ったれてる目つきなんかよりずっと、そそる。
「さぁな」
 俺は適当に言いながら、ミズノの体を背後から抱きしめるように反転させて抱き寄せた。
「俺は、斉丸だと思う」
 そんなこと判らねぇじゃねぇか。
 だけど、そんなことは口に出して言わない。
 いいんだよ、あんたが幸せなら。
 俺はそう口走りそうになって、それも止めた。
「さ、……丸……っ!」
 俺の膝の上に爪を立てながら熱っぽい息を吐くミズノの横顔。
 俺はミズノのうなじに唇を押し付けながらぼんやりと考えていた。
 そろそろ俺の厄日も終わりかな、と。