Sweet lie

 昔、犬を飼っていたことがあった。
 椎葉が小学生に上がる頃父親がどこからか預ってきて、椎葉が高校に進学する年に、交通事故で亡くなった。ほんの九年間しか一緒に暮らすことが出来なかったが、椎葉にとっては大事な弟のつもりだった。
 それ以来、椎葉は動物を飼ったことがない。一人暮らしでは自分の生活だけで精一杯だったし、またいずれ別れが来るのが怖かったからだ。


 年度末を控えた椎葉と茅島は、思うように会えない日が続いていた。寂しくないといえば嘘になるが、役所を相手にすることが多い椎葉のほうが忙しかったのも事実で、毎晩茅島がいないベッドに寂しがるのも束の間、泥のように眠ってしまうことが多かった。
 その日も、椎葉は法務局からの帰りで夕暮れ時を迎えていた。これから帰宅して書類を作成しなければならない。茅島からは昨日の内から既に今日は行けないという連絡があった。
 いくら忙しいと言っても電話をする時間もないというほどじゃない。茅島に会いたいという素直な気持ちを伝える時間くらいはたっぷりとあるし、それに応じた茅島が電話口で椎葉の名前を何度も囁いてくれるのを噛み締めることもできる。
 しかし、その切ないような声を聞けば聞くほど、もっと近くで囁いて欲しいと思ってしまう。唇に耳朶を撫でられ、指先で肌を暴かれ、体の奥底まで求められたい。
 茅島だって同じ気持ちだろう、と思うことは驕りだろうか。茅島に尋ねれば、きっと鼻で笑われてしまうだろう。
「私のほうが先生よりずっと、悶々とした欲求をたくさん抱えていますよ」
 そう言う茅島の顔が眼に浮かぶようだ。
 椎葉は照れくさいような、そんなどうしようもないことを考えるだけで幸せになれてしまう自分に呆れるような気持ちで、人通りの少ない道で口元を隠した。
 その時、伏せた視線の先にくたびれたダンボールが映った。
 普段なら、気にも止めないような路傍のごみだ。しかし、その時ばかりは箱の中を覗き込んでしまった。中から、か細い猫の鳴き声が聞こえたからだ。
「……、」
 箱の中には、両手で掬い上げるには少し小さいような仔猫が一匹、無造作に放り込まれていた。毛布も水も餌もない。椎葉があたりを見回しても、他に通行人はいない。空を仰ぐと、今にも雨が降り出しそうな曇天だ。
 椎葉は困惑して周囲をもう一度見回すと、おそるおそるダンボールの前にしゃがみこんだ。
 みゃあ、と甲高い声で仔猫が鳴く。細い腕、綿毛のようなふわふわの毛で、椎葉をきちんと認識して、ダンボールをよじ登らんと爪をカリカリと鳴らした。
「――お前、うちに来る?」
 椎葉がそっと指先を伸ばすと、仔猫がもう一度、鳴いた。


「安里くんの家って、猫は飼えない?」
 昨晩、帰宅してから仔猫の育て方について調べて当座必要なものを買うために出かけたりと、いつも以上に慌ただしい晩になってしまった。
 疲れ切ってベッドに突っ伏したあと、茅島から電話がかかってきていたことにも気付かなかったほどだ。朝になって折り返したが、繋がらなかった。
「猫、……ですか」
 安里は突然何を聞かれたのかとでも言いたげな、呆然とした様子で復唱した。いや、彼はいつもどこかぼんやりとしたところがあるから、今日が特別というわけではない。
 今日はそれじゃなくても片方の肩を痛めているようで、しきりに肩をさすりながら思案に耽っているように見えた。
「ああ、でも安里くん一人で暮らしているわけじゃないんだっけ」
 それも相手はあのモトイだというから、仔猫が飼えるような環境には思えない。椎葉は気にしないで、と口早に話を切り上げて、昨晩できなかった書類に視線を戻した。
 仔猫の体はとにかく冷やしてはいけないとインターネットには書いてあったから、昨晩は一緒に寝た。
 椎葉にしてみたら、茅島以外のものとあのベッドで一緒に寝たのは初めてのことで、少なからず緊張した。仔猫を潰してしまうのではないかという心配よりも、茅島が猫アレルギーだったりしたら、ベッドに猫を連れ込んだことで茅島に迷惑をかけてしまわないかということを。
 しかし、茅島が次にいつ椎葉の家へ来れるかもわからないのだ。
 布団を清潔にしておくに越したことはないが、まだあと二、三日は茅島も忙しいだろう。
 茅島に会えない毎日に気持ちが沈むようでもあるし、その間に猫の貰い手を探して置かなければと焦る気持ちもある。
 椎葉が小さい頃に犬を飼っていたという話は、いつか茅島が実家を訪ねてくれた時に話したことがあるが、茅島がなにか動物を飼っていたという話は聞いたことがない。小さい頃から堂上会長に育ててもらっていたというのだから、番犬以外は飼ったことがないのかも知れない。
 茅島は優しい人だから、猫がいたって邪険にするようなことはないかも知れない。でも、茅島に会ったらきっと椎葉は茅島のことしか考えられなくなる。もし久しぶりにゆっくり逢える日が来たら、茅島が訪ねてくるなりその唇に触れて、椎葉からキスをねだってしまうかも知れない。それくらい、茅島に焦がれているのだ。
 そんなところに、子猫を置いておける気がしない。
 仔猫の暖かいベッドを奪ってしまう気になるし、餌の時間を気にしてあげることもできないし、何より、椎葉が大きな嬌声でもあげたら仔猫が驚いてしまうかも知れない。
 しかし、もし茅島と椎葉と、二人で仔猫を可愛がることができたら。
 それはまるで自分たちの子供のように感じることができるのかも知れない。もし茅島が嫌がらなければ、の話だが。
「っ、もうこんな時間か……。安里くん、ちょっと席を外すね。すぐに戻るから」
 椎葉はぼんやりと妄想に耽っている間に仔猫の餌の時間が近づいてきていることに気付いて、慌てて席を立ち上がった。
 自室に続く階段を駆け登っていく椎葉に、安里は特に返事もない。
「ごめんね、遅くなって」
 自室に上がると、猫はベッドの上で眠っていた。お腹を空かせているのか、退屈を持て余していたのかはわからない。椎葉が声をかけると、にゃあと大きな声で鳴き始めた。
 昨晩手当たり次第買ってきた子猫用の餌を皿に開けて、ベッドに運ぶ。
 がっつき始めた猫の頭を指の背でちょっと撫でながら、椎葉はベッドに腰を下ろした。
 しかし、この猫を飼うわけにはいかない。椎葉は仕事に没頭すれば時間を忘れるほうだし、今は仕事と茅島のことで生活がいっぱいだ。
 それに、ペットとはいずれ別れの時が来る。
 椎葉は自分がそれに耐えられる人間じゃないことがわかっている。この仔猫を幸せに育ててくれる人がいるなら、それが一番いい。
 情が移る前に、早く里親を探すべきだ。
 一心不乱に餌を食べている猫から椎葉が視線を外した時、ポケットで携帯が振動した。
「!」
 茅島だ。
 椎葉は通話ボタンを押して電話を耳に押し当てた。胸が叩きつけるように強く打っている。たった一晩、茅島の声を聞けなかっただけで、携帯を握る手が震える。
『譲さん』
 電話の声に耳を済ませると、やけに静かな場所にいるようだった。茅島の低く甘い声がよく聞こえる。
「茅島さん、すみません、昨夜、あの」
『気になさらないでください。お疲れだったんでしょう。私の方こそ、朝、電話を取れなくて申し訳ありませんでした』
 茅島は今、どこにいるんだろう。開口一番椎葉のことを先生と呼ばず名前で呼んだところを見ると、周りには誰もいなくて、会話を聞かれる心配もない場所ということか。
 椎葉も同じだ。安里にはすぐに戻ると言ってしまったが、少しくらいなら構わないだろう。
『今、どちらですか?』
 まるで椎葉の胸の内を見透かしたように茅島が言う。
「自室にいます。あの、――……ちょっと、物を取りに上がってきたら、ちょうど」
 椎葉は餌を食べ終わって腹を膨らませた仔猫を横目で見て、言葉を濁した。
 嘘を吐いてしまった。
 些細な罪悪感で、胸がチクリと痛む。それがどんな取るに足らないものでも。
『そうでしたか、丁度良かった』
「え?」
 茅島が電話の向こうで、悪戯っぽく笑ったようだった。椎葉が今まで何度もとなく見つめた、子供っぽさの中に獣じみたオスの香を感じさせる笑顔が瞬時に脳裏に浮かんできて、椎葉の胸が弾んだ。
 茅島に会いたい。会っていないといっても一週間くらいのことだ。声は毎日のように聞いているのに、こんなにも会いたくなるなんて思わなかった。
 文字通り、胸が焦がれるようだ。
『今、譲さんの家の前にいます。お時間は取らせませんから、少しお邪魔しようと思っていて』
 ときめいていた心音が、急にどっと強く動き出した。携帯電話を握った掌にじっとりと汗がにじむ。
「え? あの……」
『事務所で一目会えればと思っていましたが、自室にいらっしゃるなら丁度いい。どうか、あなたの頬をひと撫でするくらいの不躾をお許し下さい』
 茅島に会いたい。それがたとえ、ひと目でも。しかしこのビルの所有主は堂上会で、ペット禁止とも言われていないが、許可を得たわけでもない。
 たった今、些細な嘘を吐いてしまった気まずさもある。
 椎葉は言葉に詰まって、ベッドの上で不器用に毛繕いをしている仔猫に視線を転じた。
『譲さん? 構いませんか』
 窓の外で、ブレーキの音がした。椎葉の耳に押し当てた電話からも。茅島がここへ上がってくるまで、数分も必要としないだろう。
「あ、あの……いえ、事務所まで、降りますから」
 言ってから、しまった、と思った。
 事務所ではいくら事情をわかってくれているとは言え安里の目がある。茅島は椎葉が自室にいるなら、と言っているのに、わざわざ事務所まで降りて、安里を使いに出すのも不自然だ。
「あ、あ……あの、……茅島、さ」
 急に舌が縺れて、何も考えられなくなった。気持ちばかり焦って、心音ばかり頭に響く。ワイシャツの中で汗が背筋を伝った。
『お宅に伺ってはいけないような事情でもあるんですか?』
 訝しむように、茅島が声を潜めた。バタン、と低い音が響く。茅島が車を降りた音だ。
「ありません! 何も、……あの」
 椎葉は無意味に家の中を一巡してから、椎葉の気持ちも知らず寛いでいる猫の視線を感じて、とにかく階段を降りることにした。
『私が訪ねていくことは迷惑ですか? 私に会いたいとは思ってくださらない?』
「そんなこと……」
 椎葉は言葉に詰まりながら、泣き出しそうになった。こんなにも会いたいと思っているのに。しかし、自室をわざわざ出て行って事務所で会いたいなんて言われたら椎葉だってきっとそう思ってしまう。自室から事務所に続く扉に手をかけたまま、椎葉は座り込んだ。
 どうしたらいいのかわからない。
 茅島に会ったらきっとその胸に顔を埋めてしまいたくなるのに、でも、今この部屋に入れる訳にはいかない。
「あの、茅島さん、待ってください……、あの、実は」
『まさかあなたに限って浮気なんてしているなんてことはないと思いますが』
「っ!」
 あるはずがない。電話で話しているだけなのにその場で黙って首を振った椎葉の前の、扉が開く。
「――……っ、茅島さ、……」
 扉の前でしゃがみこんだ椎葉の姿を見て、茅島も驚いたようだった。携帯電話を耳にあてがったまま、一瞬、言葉を失った。
『――譲さん』
 電話と、生の声が同時に聞こえる。
 茅島の声だ。電話越しではなく、椎葉の耳を擽る、茅島の。
 椎葉は通話中の電話を放ると、茅島の足元に縋りつくようにそっと腕を伸ばした。
「茅島さん、――……会いたかったです」
 心が千切れそうなほど恋しく思っていたし、浮気なんてしているはずがない。嘘じゃない。そう言いたいのに、一つも言葉にならない。ただ黙って茅島を見上げた椎葉に、茅島が片膝をついて背中を抱き寄せてくれる。
「私だって、いつもあなたのことばかり考えていましたよ。あなたが寂しい思いをしていないか、私があなたを不安にさせていないか、あなたが危険な目に遭っていないか」
 茅島の吐息を頬に感じながら、椎葉は目蓋を落とした。久しぶりに茅島の香りを感じて、目眩がするほど愛しくなってくる。
「今日の折衝が終われば、すぐにゆっくり出来るようになりますから。なんなら、親父に言って朝の散歩を一度断っても良い。あなたと、ゆっくり朝を過ごしたい。ベッドの中で、微睡みながら」
「!」
 茅島の唇が椎葉に触れる瞬間、椎葉は弾かれたように背を伸ばした。自然、茅島の唇が遠ざかる。
 ベッド。入り口からだとリビングの向こうにあるベッドルームまでは見えないだろうが、猫の匂いは漂ってくるかも知れない。猫用の簡易トイレだって、部屋の中にある。
「……譲さん?」
「あっ、……な、何でもないんです。あの、ええと、……下、……下、に」
 降りましょう、と椎葉が促しながら立ち上がると、茅島の表情が険しくなった。
「譲さん、正直に仰ってください。……私に何か、嘘を吐いていますか?」
 椎葉は竦み上がった。双眸を細めた茅島は有無を言わさない迫力を滲ませている。椎葉に対してのそれなんてやくざ者としての気迫にしては優しい事この上ないものなのだろうが、それでも罪悪感を募らせるのは十分だった。
「嘘、……なんて、ついていません」
「本当ですか?」
 茅島がゆっくりと腰を上げて、肩を硬直させた椎葉越しに室内を見渡す。
「ほ、本当です! 嘘なんて……か、隠し事をしているだけです!」
 椎葉は堪らなくなって、喘ぐように白状した。
「――……隠し事?」
 目を瞬かせた茅島の顔をおそるおそる見上げると、茅島は肩で息を吐いて、優しく微笑んだ。少し、呆れているようでもある。唇を噛んだ椎葉の肩に掌を滑らせて、安堵させるように撫でてくれる。
「何を隠してらっしゃるんですか? 例え嘘を吐いていたって、私はあなたを嫌ったりしない。ちゃんと本当のことをお聞かせいただけるなら、なおさらです」
 茅島の唇が、椎葉の額に落ちてきた。椎葉は観念したように長く息を吐くと、茅島の手を引いて、ベッドルームの仔猫の元へと案内した。


 茅英組の若い構成員で、猫を飼えるものがいるというので、まもなく椎葉の家の猫は引き取られていった。
 椎葉の事務所に猫を迎えに来た青年は見た目こそ強面だが、白の中に汚れのような斑がある、あまり綺麗とは言えない仔猫の姿を見るなり目尻を下げて赤ちゃん言葉になって、仔猫をあやし始めた。既に一匹猫を飼っていて、猫の面倒をみることには慣れているし、同棲している恋人がいて、いつもどちらかは必ず家にいるという。
 仔猫も、猫の扱いに慣れない椎葉よりも青年のじゃれさせ方に夢中になっていたし、そのまま引き取ってもらった。
「本当に良かったんですか?」
 たった三晩程度だったが、一緒に暮らした猫がいなくなってしまうと、急に部屋が静かになったように感じる。
 椎葉は青年の車を見送った後で、少し口数が少なくなって自室のソファに体を埋めていた。
「もしあなたが飼いたいというなら、このビルで動物を飼うことを禁止はしませんが」
 傍らの茅島に身を凭れさせながら、椎葉は緩く首を振った。
 どうせ、椎葉はペットを買うことには慣れていないのだ。
「……少し、寂しかっただけです。茅島さんと、会えない日が続いていたから」
 茅島の胸に掌を這わせると、茅島が椎葉の髪に鼻先を潜りこませる。ちゅっと短いリップノイズが、頭上で響いた。
「もう、大丈夫です。あなたが嫌だといっても、私はあなたに逢いたくて毎晩訪ねてしまうかも知れませんよ」
 椎葉は小さく笑って、茅島の膝に乗り上げるように体を密着させた。茅島が椎葉の腰を抱いて、それを助けてくれる。
「茅島さんは、私が飼うには少し大きすぎる野良猫のようです」
 向かい合った格好で鼻先を合わせて瞳を覗き込むと、茅島が短く笑って、椎葉の眼鏡を取り上げた。
「……どちらかと言うと、譲さんが私の可愛い子猫ちゃんというべきではありませんか? 膝の上が大好きな、甘えん坊の」
 茅島が椎葉を乗せた膝を、僅かに揺らす。その腿の付け根が互いに擦れるように刺激されると、椎葉は顔を伏せて眦を赤く染めた。
「っ、もう……茅島さん」
 自分から言い出したこととはいえ、気恥ずかしい。
 椎葉が顔を伏せようとすると、その顎先を指先で掬いあげられた。
「可愛い子猫ちゃんを寂しくさせないように、寒くないように、大事にしなくてはね。では、そろそろ遊んであげましょうか、それともミルクにしましょうか?」
 茅島の無骨な指先が椎葉の顎の下を擽るように撫でると、椎葉は自分が耳の裏まで真っ赤になっていることを自覚して、茅島の手から逃れるようにして、茅島の肩口にぎゅっとしがみついた。
「――……ミルクに、してください」
 茅島に聞こえるかどうかわからない程のか細い声で鳴いて、椎葉は身を竦めた。