Acid lie

 その晩、遅くなると言っていた小野塚が早く帰ってきた。
 と言っても零時は回っていたし、接待が早く終わることなど考えられないわけでもない。三時の予定が一時過ぎになったって、特段驚くようなことでもないが、柳沼の注いだ水を一杯飲んだ小野塚は、ソファに身を沈めたまま、どこか上機嫌なようだった。
「どうしたの? 何か良いことでもあった」
 柳沼は玄関の電気を消してリビングに戻ると、小野塚の隣に腰を下ろして、空になったグラスを受け取った。
 小野塚は少し酔っているようにも見えた。鼻の頭が少し赤くなっている以外は、いつもの様ににこにこと笑っているだけだから、他の人にはわからないかも知れない。柳沼は、小野塚の顔を見つめることが多いから、かろうじてわかる程度だ。
「伶、今日が何日だか知ってる?」
 小野塚が膝を揃えて、その上に行儀よく掌を乗せる。
 やはり少し、いやだいぶ、酔っている。まるで子供のような仕草に、柳沼は首を竦めて笑いながらカレンダーを振り返った。
「三月三十一日?……ああ、もう日付が変わったから四月一日だね。年度締め、お疲れ様」
 国会は大詰めだし、役人たちは年度末だからと右往左往しているし、辞令はやまほど出るし、この数日間小野塚が神経をすり減らしていたのは知っていた。それが一段落して、少し酔いが回ってしまったのだろうか。
 柳沼は目の前で屈託ない笑みを浮かべている小野塚を見ていると、頭を撫でて褒めてやりたいような気持ちに駆られた。
 しかし、さすがにそれはないか。
 モトイならそれで喜ぶかも知れないけど。
 柳沼は胸中で苦笑して、小野塚の言葉の続きを待つように小さく首を傾いだ。
「そう、四月一日……いわゆる、俗にいうエイプリルフールだよ」
 テンションがおかしい。柳沼は嫌な予感を感じて、今すぐに携帯電話を取りに行きたくなった。今日は後援会の人と飲んできたはずだ。小野塚は誰と食事してくるかということで嘘をついたことはない。しかし、その途中で誰と会ったのか、講演会には誰がいるのかまでは、詳細に聞いていない。
 小野塚は隠さないだろう。ただ、柳沼が聞いてないだけのことだ。
「奏、十文字組長に会ったんじゃないの」
 偶然か意図的かなんてどうでもいい。
 小野塚が誰と会おうと、柳沼は気にしない。たとえ昔付き合っていた彼女と会っていたとしても、柳沼の過去を知る人間と会っていたとしても、柳沼は小野塚の行動を制限することはしない。
 しかし。
「今日は、伶にたくさん嘘を吐いてもいい日だってことだよ。もちろん、伶も俺に嘘を吐いていいよ」
 時、既に遅しか。
 十文字と会っていないと小野塚が言っても、今日ばかりはそれが嘘だと責めることはできないわけだ。もっとも、嘘を吐かれたからといってなじるような筋合いもないが。
「はあ……、そうだね。奏は、僕に嘘を吐きたいと思ってるの」
 嬉々として嘘を吐いてもいい日なんだと喜ぶなんて、そうだとしか考えられない。
 呆れた柳沼がソファの背凭れに身を沈めると、小野塚も同じように体を預けた。視線が絡む。
 小野塚はいつも、視線をあわせているこちらが恥ずかしくなるほど楽しそうに笑っている。呑気で邪気がなくて、少し、馬鹿みたいだ。昔はこれほどまでではなかったと思うけど、最近特にそう感じる。
「うん、吐きたいって思ってるよ」
「へえ、そうなんだ。別に、普段から吐いたって構わないのに」
 柳沼が嘯くと、小野塚は相変わらずにこにこしたまま、柳沼の髪に指を伸ばしてきた。頬にかかった長い前髪を、耳にかけてくれる。少し、擽ったかった。
「伶、それは嘘でしょう」
 嘘だ。
 小野塚が嘘ばかり吐いていたら、何を信じたらいいかわからなくて柳沼はここまで無防備にはなれなかったかもしれない。
 柳沼は小野塚の計算のないところに安心して、今ここにこうしているのだ。無防備になりたいと思ったことは一度もない。でも、今はこの状態が心地いいとも感じる。
 人間は誰だって自己保身のために嘘を吐くし、些細な欲望のために嘘を吐く。そんなの、誰しもやってることだ。だから、それをしない小野塚が特別だった。
「そんなこと言ったら、奏が嘘を吐きたいと思ってたなんていうのも嘘でしょう」
 小野塚だって仕事では嘘まみれの世界なんだろう。柳沼の前でくらい嘘を吐きたくないと思っていたとしても、不思議はない。
 確証はない、しかし、確率は高い。
 小野塚は答えずに、ただ小さく笑った。
「まあ、好きにしたら? でも、明日の出かける予定だけは嘘を吐かないで教えて。朝食の準備があるから」
 柳沼はわざとらしく呆れたようにソファを起き上がると、後ろで括った髪を結び直した。
 小野塚が帰宅してから就寝するまでの数時間――あるいは数分――は、二人で他愛のない話ができる貴重な時間だ。しかし、柳沼はいつも、小野塚を一分でも早く寝させたいと思ってしまう。
 小野塚は疲れている。いつも。
「明日は休み」
「嘘は吐かないでって言ってるでしょう」
 思っていた以上に面倒だ。柳沼が顔を顰めると、小野塚が子供のように声を漏らして笑う。
「……まったく、もう」
 柳沼は腕まくりをするふりをすると、上機嫌になって笑い転げている小野塚のスーツに手を滑り込ませた。手帳を見てしまえば、こっちのものだ。いくら何でも仕事用の手帳にまで嘘を吐いてはいないだろう。柳沼が手帳を探してまさぐると、小野塚が足をばたつかせて擽ったがる。
「ほら奏、じっとしていて」
 思わず柳沼の口元も綻んでしまう。
 こうしているとまるで子供の頃のようだ。兄弟みたいと言われていた頃を思い出す。
 柳沼は、嫌だと身を捩りながら足をばたつかせる小野塚の上に乗りかかるようにして上着を脱がそうとした。そうでなくても、ジャケットが皺になってしまう。ネクタイも解いて、シャツも――。
 バランスを崩してソファの上に横になった小野塚の上にのしかかり、スーツを脱がしている途中で柳沼は我に返った。
 これではまるで、襲っているみたいだ。
 しかし、突然我に返って手を止めるのも意識しているようで可笑しい。
 柳沼はとにかく小野塚のジャケットから手帳を抜き取ると、満足したと主張するように息を吐いて小野塚の上から退こうとした。ハンガーにかけてしまわなければ。そう口に出すくらいには動揺していた。
「伶」
 小野塚の上を降りて手帳を取り出そうとした柳沼の手首を、小野塚が掴む。
 その顔に笑顔はなくなっていた。
「行かないで。キスさせて」
 掠れたような声で囁かれながら、手首を引かれる。まだ、手帳を取り出してもいない。
「それも嘘?」
 柳沼が茶化すように言うと、もう一方の手で頭を抑えられた。再び小野塚の体を跨いだ柳沼の首を引き下げて、小野塚が唇を塞ぐ。
 小野塚のキスは酒臭かったが、それ以上に熱かった。それもアルコールのせいだといえばそれまでだが、もう暫く酒を飲んでいない柳沼を酔わせるには、十分だ。
「奏、……待って。時間だけ、先に」
 柳沼が首を振っていやいやとキスから逃れようとすると、小野塚の掌が滑って、柳沼の腰を撫でる。
「伶、後で時間は教えてあげるから」
 小野塚の熱い掌が柳沼のシャツをたくし上げて素肌に滑りこんでくる。ぞくぞくとした劣情が下肢から這い上がってきて、柳沼は息を詰めて体を震わせた。
「そ、……っ・待って、ベッドに」
 リビングの明かりを煌々とつけたままソファの上で、自分が上に乗っているなんて、恥ずかしくて居た堪れない。柳沼が小野塚の胸の上に手をついて起き上がろうとしても、小野塚が腰を抑えていて、離れられない。
 それどころか、上体を起こそうとする柳沼の胸を探り始める。
「……っ! ちょっと、奏」
 わざと乳首の周囲をくるくるとシャツ越しに刺激してから、勃ちあがってきた豆のような乳首を、小野塚の指先がつんと弾く。
「――ぁ、っふ……!」
 ビクビクッと背筋が痙攣して、柳沼は慌てて唇を抑えた。口を塞いだせいで体を支えていられなくて、小野塚の胸に顔を埋めてしまう。小野塚が下から足を絡めてきた。
「も、奏……っ、いいか、げんに」
 小野塚の下肢は既に力を帯びている。上に乗せた柳沼の体を揺らすように突き上げると、それが如実にわかった。柳沼はこんな即物的な行為に翻弄されている自分に眩暈を覚えながらも、顔を上げることができずにいた。恥ずかしい。こんなに明るくては、柳沼が今どんな表情をしているのかも見られてしまう可能性があるということだ。
 耐え難い、恥ずかしいと思うほど、柳沼もまた下肢が充血していくのを感じる。意思に関係なく。
「止めてっていうのも、嘘でしょう」
 小野塚に意地悪く囁かれて、柳沼は唇を噛んだ。こんな状態では、嘘だと言われても反論ができない。柳沼は小野塚の上でぎこちなく腰を揺らめかせて、次第に弾んでくる自分の呼吸を噛み殺すしかなかった。
「時間、……っ教えて、奏。お願い、だから」
 小野塚の起床時間に合わせて小野塚を満足させられるほど、柳沼だって技巧派とは言えない。しかし、知らないまま気をやってしまうような失態は避けたかった。小野塚との行為に集中したい。だからこそ。
「だから、お休みだよ」
 小野塚が、柳沼の双丘を撫でるようにして下肢を密着させながら、一方の手で乳首をくりくりと捏ねてくる。
「ひぁ、っ……ん、ぅ……! 嘘、ばっかり……っ! 奏、嫌い、っ……!」
「それも嘘」
 当たり前だ。
 柳沼は下肢をもじつかせながら、胸を虐める指先に悶えて、小野塚の唇に噛み付くようなキスをした。小野塚は大きく口を開き、唾液に濡れた舌を伸ばしてくる。柳沼がそれを食んで口内に吸い上げると、下から突き上げる小野塚の動きが小刻みに激しくなった。
「ん、ぁ……っンふ、ん、ぅ」
 舌を執拗に擦りあわせて唾液を啜りあうと、体の芯からぞくぞくと戦慄いて、たまらなくなってくる。柳沼は自分の下着の中が濡れ始めていることに気付くと、自分で下肢を開こうと手を伸ばした。
「奏、――あの……もう」
 服を、脱いでしまいたい。
 リビングがどんなにか明るくても、どうせ小野塚しか見ている人がいないなら。柳沼だって小野塚のことしか見えていないのだから、気にならない。
 そう伝えようとした時、小野塚の手が、ポトリと落ちた。
「――……、奏?」
 ソファの下にだらしなく垂れ下がった指先。柳沼の足を絡め取っていた悪戯な足も弛緩して、――柳沼の唇を貪った唇も、半開き。
「奏」
 柳沼がそっと身を起こしても、小野塚は起きる気配もなかった。
 確かに小野塚は酔っていた。だからといって、柳沼を煽るだけ煽って眠ってしまうだなんて考えられない。それでなくても、小野塚は普段から忙しいから、こんな行為をする事自体、久しぶりだったのに。
 柳沼は小野塚の上から降りてソファの下に体育座りをすると、暫く頭を抱えた。
「……はぁ、」
 しかし、小野塚を起こすわけにもいかない。
 柳沼は重い体を奮い立たせて、小野塚のジャケットから改めて手帳を抜き取った。四月のページをめくる。
「――――……、」
 そこには確かに、休みと書かれていた。他に何の文字もない、空白の日。
 柳沼は小野塚の幸せそうな寝顔をちらと窺うと、だらしなく綻びそうになる口元をジャケットで抑えた。