SUMMER BLLOMER(1)

「あ、そうだ。椎葉先生」
 珍しく定期会合に顔を出した十文字に呼び止められて、椎葉は膝の上に纏めた書類から顔を上げた。
 広い和室にはまだそれぞれの組長たちが大勢残っていて、口々に言葉を交わしている。堂々とした体躯に相応しい大声で親しい相手を酒に誘うものもあれば、低い声を潜め、不穏な会話にほくそ笑んでいるものもいる。
 その中で十文字はやはり、異端に見えた。
 まるで、猛獣ばかりの檻の中に恐怖心も知らず見学にやってきた学生のようだ。
 年齢こそ椎葉と大差ないのかもしれないが、その表情はあどけないといっていいほど無邪気で、後ろ暗いところなど何一つないように見える。
「今度うちで祭りやるんですよ」
 メタボリック症候群の話に花を咲かせながら肥え太った腹を擦っている組長の体を押し退けながら、十文字は上座の椎葉のそばまで歩み寄ってきた。
 名だたる組長を邪険に扱うその細腕は見ている椎葉がひやりとさせられた。
 しかし堂上会長に言わせれば、十文字のその底抜けな明るさは、まず見た目で相手を威圧しようとする強面の人間から見たら恐ろしさを覚えるのだそうだった。
 言われてみれば、椎葉にも少し判るような気がする。腹の底に何も抱えていませんと両腕を広げて無防備でいられると、余計に勘繰ってしまうものだ。自分に後ろ暗いところがある者ほど、十文字の無邪気さは脅威に感じるだろう。
「祭、ですか」
 手にした書類を鞄に詰めてから、椎葉は慌てて腰を上げた。十文字が立っているというのに自分ばかりが座布団の上に腰を下ろしているわけにもいかない。
「そう、夏祭り。花火も何発かあげますよ、……まあ、ほんのちょっとですけどね」
 右目の前で親指と人差し指を近付けて見せた十文字が、指の間から椎葉を少年のような眸で見た。
 本来テキヤ家業を生業にしていた堂上会だから、この時期はどの組でも祭を主催しているのだろう。茅島は「うちは飲み屋しかないから」と言ってやる気がなさそうな素振りをしているが、去年までは柳沼が指揮を執って小規模ながらも和やかな祭を展開していた。
 今年はどうなるか判らない。
「もし良かったら遊びにきませんか。サービスしますよー」
 キャッキャとまるで小猿のような笑い声をわざとらしくあげて、十文字は椎葉に肩を寄せた。――いや、寄せようとした。それは風俗店の客引きがするような仕種を真似たものだったが、十文字の肩が椎葉に触れる前に、その間を遮る手があった。
「先生、鞄を」
 低い声に顔を上げると、茅島の不機嫌そうな表情があった。
 それがわざわざ作られたものだということは知っている。以前椎葉がうっかり、十文字と親しいのかと口にしたら、茅島はやはり今のような不機嫌そうな表情を作って、全然親しくない、と子供のように語気を強めた。
 恐らく十文字に同じ質問をしても、同じような戯れた返事が返ってくるのだろう。
 つまり、そんな風にじゃれあえる仲なのだということだろう。
「いや、お前は呼んでないから」
 椎葉の鞄に腕を伸ばした茅島の太い腕を脇に避けて、十文字は椎葉の肩に手を掛けた。その十文字の腕を、茅島が掴みあげる。
「お前こそお呼びでないよ。先生は忙しい」
「お前との逢引にか?」
 茅島の大きな掌に掴まれた腕に、表情一つ歪めずに十文字は涼しい顔で茅島を見上げた。
 十文字は椎葉よりも少し背が低いようだ。それなのに、茅島とこうして対峙する姿に小ささを感じさせない。人間の器というやつなのだろう。
「――……そうだ」
 椎葉の顔を一瞥してから茅島ははっきりと断定して、改めて十文字の体を押し退けた。椎葉との間に体を割り込ませるようにして。
 まるで玩具を取り合う子供のようなやりとりだが、茅島に回りこまれてしまうと椎葉の視界は茅島でいっぱいになってしまって、まだ室内に残っている組長衆がこのやりとりをどんな風に眺めているのか、あるいは相手にもしていないのか、判らない。
 椎葉は仕方なく茅島の顔を見上げると、目の前の厚い胸板の上を諌めるように小突いた。椎葉の表情にもいつしか笑みが浮かんでいた。子供染みたやりとりを繰り広げる二人に対する、苦笑かもしれないが。
「茅島さん、菱蔵組のお祭に顔を出したら面倒なことになりますか?」
 十文字が茅島の体を避けて回り込もうとすると、茅島は畳の上で足音もなく移動して、あくまでも十文字と椎葉を隔離したいようだった。椎葉を独り占めにするというよりは、十文字に意地悪をしたいのだろう。右に左にと揺れる茅島の意外な軽快さがおかしくて、椎葉は思わず肩を震わせた。
「面倒はないでしょう、先生は堂上会直系の組を全て担当しているんですから」
 椎葉の言葉を訝しむように茅島が首を捻った。
「いえ、私がではなくて。……茅島さんが、です」
 落ち着きのない茅島を止めるように、椎葉はそのスーツの袖に手を掛けた。軽やかなステップを踏む茅島も物珍しくて面白いけど、あまりゆっくり顔を見つめていられないのも困る。
 どうせこの後何時間だって、好きなだけ眺めていられるのだとしても。
「私が?」
 椎葉に押し止められて素直に足を止めた茅島が、思わずといったように目を瞬かせた。
 その背後から十文字が顔を出す。まるで覗き見でもするように体を半分出して、にやにやと下卑た笑いを作って見せていた。
「茅島が顔を見せたくらいで浮き足立つような血気盛んなのはうちにはいません」
 もちろん、ただ祭を愉しむだけならだけど、と十文字は付け加えて、茅島の顔と十文字を交互に見遣った。どこかそわそわした様子で。いや、それもわざわざそうして見せているだけのようだが。
「先生、祭に行かれたいんですか」
 相変わらず落ち着きのない十文字の顔を後ろ手で押し遣って、茅島が声を潜めた。
 声のトーンを抑えたことで、少し茅島が背を屈めたような気がした。気のせいかもしれないと思うほど些細な距離だけ、茅島の顔が近くなる。
「ええ、……少し」
 茅島の組で執り行う祭でも構わないが、それだと茅島と一緒に露天を回ることは難しいだろう。出来たとしても、屋台の店番に気を使わせてしまうだけだ。それに、
「――茅島さんと花火を見る機会なんて、なかなかないと思いますから」
 茅島と一緒に花火を見たいからだなんて、口に出したらひどく恥ずかしいことのように思えて、椎葉は少し首を竦めた。言われた方の茅島も、瞬間僅かに目を瞠って、その後で照れくさそうに視線を逸らした。
 十文字他、他の人間から椎葉を切り離す壁になった茅島の体がやけに熱く感じる。茅島の体温を、意識してしまう。椎葉はやはりこんな場で言わない方が良かったかと後悔するように顔を伏せた。恥ずかしくて、居た堪れない。
「それじゃ、月末、お待ちしてますよ。ご両人」
 言葉をなくしてそれぞれに畳の上へ視線を伏せてしまった二人の間を取り持つように、十文字が口を挟んだ。
 茅島の肩を気安くぽんと叩いて、座敷を出て行く。上機嫌そうな鼻歌が廊下へと消えていった。
「あっ、……ええと、私もそろそろ」
 ぎこちなく顔を上げた椎葉がこの場を取り繕うように廊下へ続く障子を指すと、茅島も我に返って短く肯く。
「門の前に車を待たせてあります」
 椎葉の鞄を取って廊下へと促す茅島の身体の陰に隠れて、椎葉は努めて室内の他の面子の様子を窺わないようにした。もしかしたらこちらのやりとりなど誰も気に止めてはいないかもしれないし、十文字と茅島が戯れているのは見ていても、まさか椎葉の声まで聞こえているとは思えないが。
「先生」
 それでも心なしか足早に廊下を渡りながら、椎葉は傍らの茅島をいやに意識してしまって、視線を伏せがちになっていた。茅島に呼びかけられて、顔を上げる。茅島の表情はいつもと変わらないように見えた。
「――楽しみにしています」 
 先よりも声を潜めた茅島が、今度こそ大きく身を屈めて椎葉の耳元で囁いた。
 ともすればそのまま、唇を重ねることも容易な距離で。