SUMMER BLLOMER(2)

「嬉しそうですね」
 ベッドの上で煙草を咥えた茅島に指摘されて、椎葉は思わず肩を震わせた。
 咄嗟に掌で口元を覆う。鼻歌でも口遊んでいただろうか、それとも口元をだらしなくさせていただろうか。
 恐る恐る茅島を振り返ると、ベッドに横臥した茅島は肘を立てて枕にし、椎葉を面白そうに眺めていた。双眸を細め、見ようによっては意地の悪い笑みにも見える。
 もしかして揶揄われたのだろうか。
「そんなに花火が楽しみですか」
 気まずさに口端を下げた椎葉がふいとそっぽを向いて見せると、茅島の笑い声が追ってきた。
 首に掛けたタオルで頭を覆うようにして顔を隠し、椎葉は台所に逃げ込んだ。ただの祭をこれほど楽しみにするだなんて――それも、傍から目に見えるほど――子供のようだと思われているのかもしれない。
 世間の学生は夏休みだなどと浮かれているのだろうけど、椎葉には学生の頃から夏休みなんてものは存在しなかった。長期の休みと言えば学習塾の短期集中講座を詰め込んで、暇を潰すように勉強に明け暮れた。
 親に手を引かれて見に行った花火が心を浮き立たせたのなんて、小学校に上がる前まで遡らないと記憶にない。
「……茅島さんは、」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して扉を閉めると、椎葉は冷蔵庫を向いたままぽつりと呟いた。ベッドの茅島には聞こえていないかもしれない。堂上会に用意されたこの部屋は、広すぎる。椎葉一人で過ごすのにも、茅島との時間を過ごすのにも。
「茅島さんは毎年見飽きてらっしゃるでしょうけど」
 自分は少々浮かれていたのかもしれない。
 何となく茅島の体温に慣れてしまって、初めて身を委ねた恋心というものに少し、――いやだいぶ目を眩ませているのだろう。
 年相応に人と繋がってきたのだろう茅島にとって自分は、最初の内こそ物珍しくてもいつか呆れられてしまうかもしれない。
 椎葉は帰宅してからバスルームに入るまで、茅島に受けた愛撫に対してまた自分が充分に応じることが出来たのかどうか不安を覚え始めていた。
 何もかもが足りないという気がする。茅島にとって、自分は。
 椎葉が今までの人生で得てきたものは机上の計算と六法全書の中に書いてあることばかりで、恋愛も、焦がれる相手と仰ぐ花火も、キスも、セックスも何も知らない。
「どうして見飽きることが出来るんです」
 冷蔵庫に向かって項垂れた椎葉の耳に、すぐ近くで茅島の低い声が響いて思わず椎葉は声をあげそうになった。
 驚いて竦みあがった椎葉の肩を、茅島の大きな掌が包み込む。
 振り返ると、いつの間にか茅島は椎葉の背後に立っていた。
「あなたと夏祭りに行くことが出来るのは今年が初めてなのに」
 椎葉の着けた寝間着の上を撫で上げるように茅島は掌を滑らせて、椎葉の頭の上のタオルを揺らした。椎葉の細い髪についた水滴を優しく拭うように。
「でも、その――花火は、毎年あがるものだし」
 堂上会から程近い場所に事務所を構える菱蔵組の祭で花火を上げれば、祭には参加しない茅島でも花火くらいは見るだろう。それでなくても、夏には花火が多い。椎葉のように無関心でもなければ空に咲くそれをみる機会など何度だってあったはずだ。
「去年も一昨年も、あなたは私の隣にいなかったでしょう」
 椎葉の濡れた髪からタオルを滑り下ろして、茅島は背後から椎葉の顔を覗きこんだ。吐息が近い。椎葉は自分の心音が茅島に漏れ聞こえないように、唇を結びなおした。
「――あなたと一緒に見る花火に意味があるんだと、私は思ったんですが。違いますか?」
 椎葉がそろりと視線を上げると、茅島の深い眼差しが椎葉を見つめていた。椎葉の背中を覆うように身を屈めた茅島の唇が、頬に落ちる。表面の産毛を掠めるようにそっと押し付けられたかと思うと、すぐに離れてしまった。
 つまらないことを言ってしまった。
 椎葉が小さく首を振って答えると、茅島は吐息を漏らすように笑って、椎葉の胸に腕を回した。椎葉が口も開けずに持ったままのペットボトルに手をかけ、そっと取り上げる。
 椎葉は知らず、唇を緩めていた。茅島に促されたようだと思った。それは責任転嫁なのかもしれないが、茅島が口付けようとしたのが先なのか、椎葉が唇を開いたのが先なのか、恐らく茅島にも判らない。
 気がつけばさっきまで何度も重ねたはずの唇を飽かずにまた求め合って、椎葉は喉を鳴らしていた。
 茅島の咥内にはまだ煙草の香りが色濃く残っている。そのざらついた舌に舐られると、椎葉は胸の奥が疼くような息苦しさを覚えた。
 茅島の腕の中で身を反転させ、背中に腕を回す。首を反らして茅島の顔を仰ぎ、絡めた舌の間に糸を引く唾液を吸い上げた。まるでそれがなくては生きていけない赤ん坊のように、音をたてて。
「……本当に楽しみにしてるんですよ」
 上気した椎葉の頬を撫でるように一度唇を解いた茅島が、椎葉の腰に強く腕を回したまま、掠れた声で囁いた。
 まだ頭のどこかがぼうっとしている。椎葉は茅島に撫でられるまま首を揺らして、茅島の言葉をうつつに聞いていた。
「先生にはどんな浴衣が似合うかな、とか。……あなたがシャワーを浴びている間、ずっとそんなことをばかり考えてしまうほどには」
 椎葉の前髪を横に撫で付けるように指を通した茅島が耳元で笑うと、椎葉は背筋を震わせて茅島の背中に爪を立てた。身体の芯がまだ、燻っている。
 椎葉のそれを見透かしたように茅島は耳朶に唇を押し付けると、これじゃシャワーを浴びてきた意味がない、と低く囁く。
 そんな声で惑わせるから、ますます意味がなくなるというのに。
「茅島さんには、きっと濃紺の浴衣が似合うと思います」
 耳元から与えられる甘美な擽りに首を竦めた椎葉が、茅島の剥き出しの胸に鼻先を埋めると、茅島は一瞬言葉を失ったように静止した。
「私も着るんですか」
 心底驚いているようだった。椎葉が上目で仰いだ茅島は、僅かに目を瞠って椎葉を見下ろしている。
 思わず、笑がこみ上げてきた。
「私だけ着せるつもるですか?」
 椎葉が微かに肩を震わせて笑っていると、茅島は瞬かせた目を眩しげに細め、わざとらしく一度天を仰いで見せてから椎葉の髪に唇を落とした。
「十文字に見つかったら三年くらい笑いものにされる」
 頭上でくぐもった茅島の声に、椎葉はまた笑い声を忍ばせた。十文字に揶揄われる茅島の姿が目に浮かぶようだ。
「――でもまあそれも、来年再来年と続けば次第にあいつも見飽きて来るでしょうからね」
 笑を収めない椎葉を諌めるようにひときわ強く背中を抱いた茅島の言葉に、椎葉は弾かれたように顔を上げた。
 茅島は椎葉の反応を意外そうに見返している。
 茅島はまるで、当然のことでも言ったかのように思っているのだろう。椎葉の胸の内にじわじわと沸き起こってくる愛しさも、嬉しさも知らないで。
 椎葉は苛立ちにも似た感情まで昂ぶった気持ちを押し隠すようにして再び茅島の胸に額を押し付けると、背中をきつく抱き返した。指の先から痺れてくるような幸福感に眩暈がして、言葉も出ない。
「先生」
 茅島の優しい声が耳を撫でる。
 椎葉は顔を上げなかった。上げられるはずもない。今自分がどんな表情をしているのか、見当もつかない。
「来年も再来年も、付き合っていただけますね?」
 茅島の腕の中で椎葉は、小さく肯くので精一杯だった。