Sesh!(1)

「荒れてますね」
 背中から声をかけられて、一瞬、身構えた。
 確かに言う通り、茅島は苛立っていた。しかしそれを他人から不用意に指摘されることほど癇に障ることはない。相手に悪意があろうとなかろうとだ。
 振り返る前に拳が出なかったのは、それでも相手が辻だということがすぐに判ったからだ。
 時刻はまだ宵の口。根本の店は相変わらず賑わっていた。しかしどんなに店内が混んでいてもカウンターに近付こうとするものはいない。お前が来ると売り上げが減るんだという根本の戯言は辻にも言われていることだろう。
「椎葉くんに振られちゃったんだってさ」
 根本が声をあげて笑った。
 その額めがけて茅島がグラスを振り上げる前に、辻が一度隣に下ろしかけた腰を浮かせる。茅島の乱暴な腕を、辻が易々と受け止めた。
 昔はあんなに戯れてやった子供に今は腕一本で制されている。もし本気でやりあえばどうなるものかと、茅島はふと思った。
 辻と殺し合うことなど、考えたくもないが。
「お前、俺に手を上げれば出入り禁止だよ」
 避ける素振りもしなかった根本が笑いに肩を震わせて辻のグラスを用意した。ついでとばかりに、振り上げた茅島のグラスから零れ落ちた分の氷も。
「今夜は付き合いますよ」
 茅島を押さえた手についた水滴をぺろりと舐めながら、辻が傍らに腰を下ろした。まるで大きな犬だ。
「自分も今日はお守りを解任されたんです」
 わざとお守りという言葉を使ったのは茅島の気分を損ねた詫びのつもりだろう。茅島は辻の気遣いに、落ち着きをなくした自分の行動を恥じて大きく息を吐き出した。
「だろうな」
 夕方に連絡を寄越した椎葉は、何を思ったのか「今日は十文字と食事をするので」と茅島の来訪を断った。
 もっとも、今夜特別に約束をしていたというわけではない。ただ、時間があるなら椎葉の顔を一目でも見に行こうとは考えていた。
 あのいろんな表情を見せてくれる愛しい顔を一目見て、茅島の掌を吸い寄せる滑らかな肌を一撫でして、さらに口付けることができるならそれに越したことはない。茅島の無骨な腕に思いきり抱きしめて、あの細い体の隅から隅まで好きなように弄ることが許されているのは茅島だけだ。毎日だってそれを確かめたいと思うのは、もしかしたら茅島の方だけだったのかも知れない。
 何故、よりによってあの十文字なんだ、と噛み付いてやりたかった。
 十文字とどんな約束なのかは知らない。椎葉は堂上会系全ての組とかかわりがあるのだから、ないがしろにできるものじゃないだろう。逆に言えば十文字だから椎葉も安心しているし、茅島も椎葉を一人で行かせることができる。これが能城相手ならばどんなことがあっても椎葉を行かせたりはしない。椎葉自身も決して行くことはないだろう。
 しかし。
「――……すみません」
 茅島の恨みがましい視線に気付いた辻が、大きく首を竦めて謝った。
 茅島から辻という大事な舎弟を奪って行ったのは他でもない、十文字だ。
 もちろん椎葉が十文字に奪われるなんて露ほども考えていない。考えていないが、面白くない。
「辻」
 それならせめて、今夜だけは茅島が辻を取り返しても文句はないだろう。
 茅島は辻が断る術を持っていないことを知った上で、グラスに注いだバーボンを飲み干した。
「久しぶりに打つぞ」


「うわぁ」
 辻に呼び出された瀬良は、室内の面子を見ると大きく仰け反って情けない第一声をあげた。そのまま暫く、戸口で思い悩むように眉を顰めている。
「入れ」
 その様子に苛立って声をかけたのは、辻よりも茅島のほうが先だった。辻は苦虫を噛み潰したような顔のモトイの正面に座って麻雀牌を握っている。
「これが頭。あとは、三つで一セット、これを四つ」
 ルールを説明し始めるまでに一悶着あって、ようやく大人しく話を聞かせられるようになったのはつい十分前のことだ。
 場所は駅前のホテルの一室。辻と麻雀卓を囲むのは数年ぶりになる。
 遠い昔には、柳沼を交えて夜を徹したこともあった。柳沼は頭の出来が違うだけあって負けて見せるのも上手いものだったが、今夜の面子じゃなかなかそうもいかないだろう。
 第一、モトイに関してはルールすら把握できるか定かじゃない。
「連番で三つ集めるのが順子(ジュンツ)、同じ牌を三つ集めるのが刻子(コウツ)。後は組み合わせで役が決まる」
「俺が勝ったらアンタ殺していいの」
 麻雀卓の前に膝を抱えて蹲ったモトイが、辻の顔面の疵を睨み付けながら唸るように言った。
 モトイにしてみれば、辻は因縁の相手だ。だからこそこの場に呼んだというつもりもあった。
 もちろん、茅島と辻を前にして恐縮しない組員を選んだらモトイしかいなかったというのも正解だが。
「出来るものならな」
 辻が牌を放って、一つ作ってみろとモトイに命じた。
 モトイと辻とでは、どうしたってモトイに勝ち目はない。信念が違う。辻は十文字を守る理由以外で死ぬことはないだろう。口惜しいことだが、茅島にならそれが判る。茅島もまた、同じだからだ。
「えーと、事情がまったく飲み込めないんだけど」 
 辻のレクチャーが終わるまでウイスキーを転がしている茅島の肩を、瀬良の声が突付いた。振り返ると、まだ困惑した表情のままだ。辻が何と言って呼んだのか知らないが、菱蔵では瀬良が、この面子に動じない組員だということなのだろう。
「事情も何もない。ただ麻雀を打つだけだ」
 遊びだよ、そう茅島が言った時、辻がこちらを振り返った。とりあえず一局、打ってみる事になったらしい。
 茅島は麻雀卓から離れた場所の椅子をゆっくり立ち上がりながら、首を捻った瀬良を顎先で招いた。
「まあ、お前も面白くはないかもしれないが、付き合え」
 初対面の様子からして、瀬良が茅島を快く思っていないことは判る。茅島がそう誘うと、瀬良は屈託ない様子で「あ、自覚はあるんだ」と漏らしたきり大人しく麻雀卓についた。


 勝負にならない、以前の問題だった。
 少なくとも茅島は瀬良が悪い男じゃないということは判ったが、菱蔵の内情が心配になりもした。もっとも、他の組の人間がモトイを見れば同じように思うのかもしれない。
「これ面白いの?」
 役を知らないモトイの世話を焼く辻と、練習と称して局を重ねること数回。瀬良が溜息交じりに尋ねた時、時刻は深夜を回ろうとしていた。
 ゲームとして成立しない麻雀は、酒の肴にもならない。瀬良じゃなくても退屈を持て余した。
「茅島さん、他に呼べる人間いなかったの」
「瀬良」
 辻の低い声が、瀬良の無礼を嗜める。しかし辻だって同感だろうし、何より茅島がこういう遠慮のない人間が嫌いじゃないことも知っているだろう。
「お前が一緒にいたあの男はどうだ、……何て言ったか、あの死神の」
 辻に役の説明をされながら暴れだしそうになるモトイを尻目に、瀬良のグラスへウイスキーを注ぐ。茅島に酒を注がせるなんてと辻が気を使ったのは最初の一時間だけだった。今夜だけは無礼講だ。
「灰谷さんは今日は組長のお付き」
 また十文字か。
 茅島は忘れかけていた憎たらしい顔を思い出して、ウイスキーのボトルをテーブルの上に叩きつけるように置いた。
 瀬良も相棒を取られて面白くないのか、それきり唇を噤んでしまう。茅島といい辻といい、どうも今夜は十文字の気紛れからあぶれた人間ばかりがここに集っている。
「――……、」
 ふと、茅島はモトイの横顔を盗み見た。
 片割れをなくした人間という意味では、モトイだって同じだ。柳沼がいれば、モトイだってここにはいない。
「辻」
 茅島は携帯電話を握って立ち上がると、モトイを指した。辻が顔を上げる。十文字さえいなければ、辻は茅島に従順だ。
「モトイを抑えていろ。俺が良いと言うまで絶対に離すな」
 はい、と小気味良い素早さで辻の返答が返ってきた。モトイが逃げ出すより早く、辻の鍛え上げられた腕がモトイを掴む。瀬良が訝しむように茅島を見上げた。
 あの男なら、麻雀くらい簡単だろう。
 茅島は窓際に寄って携帯電話を開くと、ついこの間聞いたばかりの番号へ発信した。


「今日は伶も出かけてるんですよ」
 仕事から直接駆けつけたという小野塚の出で立ちは、茅島が思っていた以上にこの面子から浮いて見えた。
 どうせ今夜はめちゃくちゃなのだ。後で思い出して笑えるようならそれで良い。椎葉に話したらどんな顔をするだろうか。
「柳沼さん一人にして平気なの」
 小野塚を呼びつけたりしたらモトイはもっと暴れだすかと危惧したが、意外にもモトイは大人しいものだった。辻と対峙させているよりよっぽど安全そうだ。
 無理にでも柳沼の見舞いにやったのが功を奏したのか。
「うん、大丈夫だよ。今日は十文字さんが一緒だそうだから」
 小野塚の言葉に、これでようやく始められると思われた麻雀牌の山を思わず崩して、茅島は奥歯を噛み締めた。
「あいつは何をやってるんだ、辻」
 十文字の奇行は今に始まったことじゃないが、辻ならまだしも茅島にはそこまで免疫がない。できれば巻き込まれたくない。
「すみません、……ただ、酒を飲みに行くとしか伺ってません」
「安里も行くって言ってた」
 お役御免になってベッドへ寝転んだモトイが口を挟むと、一斉に視線がそちらへ向いた。
 十文字、椎葉、灰谷、柳沼、安里。どこで集まっているのか知らないが、そんな顔合わせで酒を飲んで楽しいものだろうか。椎葉は今頃、気疲れしているかもしれない。
「安里くんは元気?」
 茅島が崩した山を戻して賽を振った小野塚が、にこやかに尋ねる。ようやくまともな局が始められそうな卓上に視線を落としながら、茅島は胸中首を竦めた。
 小野塚の第一印象は、喰えない男だった。
 柳沼の怜悧な様子とも、宇佐美とかいう男の好青年然とした態度とも違う。政治家特有の胡散臭い笑顔が茅島を警戒させた。
 奴等は、悪を善と捻じ曲げて権力を振るうことが得意だ。だからこそ柳沼を守るにはちょうど良いのかも知れないが。
 少なくとも、茅島に対する表情と柳沼に向けた笑顔とでは大分違うようだったからまだ安心できた。
 柳沼と話す小野塚の表情は、まるで子供のようだった。柳沼を宝物のように思っているのだろうということを、隠そうともしない。
 おそらくモトイも、それを見ているから納得せざるを得ないのだろう。
「うん」 
 ベッドの上に仰臥したモトイが、天井に足を突き上げながらぼんやりと答える。
 モトイが安里について答えるなんて、珍しいことだと感じた。あるいは茅島には言わなくても、小野塚には話せることなのか。
 以前、茅島はモトイにどちらが本命なのか、と尋ねたことがあった。その時、モトイははぐらかしたが。
「お前と安里はなんだか変な関係だな」
 牌を切る音と、ぽつりぽつりと零される会話が室内に響く。今ここにこうして集まっている面子も変な関係ではあるが。
「安里は――俺が、生かしてるんだよ」
 どす、と音がした方向を振り返ると、モトイがベッドに勢いよく足を下ろしただけだった。
 しかし、まるで茅島はその音に胸を打たれたような錯覚に陥った。
 モトイが安里のことを知っているのかどうか、判らない。知っていてもおかしくはない。しかし、安里がモトイに話すだろうか。想像し難い。
「伶もそんなことを言ってたよ」
 小野塚の声に引き戻されて麻雀卓に視線を移すと、リーチ棒が伏せられていた。
「柳沼さんが?」
 モトイが身を起こす。辻と瀬良は黙ったままだ。
「そう」
 茅島は小野塚が一瞬見せた暗い表情を盗み見ながら、山から拾った牌を切った。
 小野塚がどんな男であろうと、柳沼を大切に思う限り重苦しい気持ちも一緒に背負い込むことにはなっているのだろう。それでも、数年の間柳沼と一緒にいた茅島からしてみたら柳沼が小野塚に再会できたことは純粋に喜ばしい。
 きっと小野塚自身もそう思っているだろうし、モトイだって同じだ。
「自分はずっとモトイに生かされていたって、――伶が、そう言ってたよ。茅島さん、それロンです」
 モトイが息を呑んだ。
 茅島も息を呑んだ。
「リーチ一発三暗刻ドラドラですね」
「うわぁ」
 瀬良が、感嘆ともつかない声をあげて小野塚の和了りを覗き込んだ。茅島に声はない。柳沼を世話してもらっている礼だと思えば安いものか。
「それって凄いの」
 いつの間にかモトイも茅島の背中まで寄ってきていた。小野塚の言葉に気分を良くしたのだろうか。
「はは、すみません」
 茅島から点棒を受け取る小野塚は朗らかに笑っている。
 彼もまた、いつも麻雀卓を囲む相手は政界のお偉方ばかりで負け上手な方なのだろう。反対に言えば、この場でばかりは彼は勝っても問題ないわけだ。気を使われても癪だ。
 茅島は黙って落とし穴に牌を流し込んだ。
「……うちとは逆かな」
 再びせり上がってきた山を眺めながら、ぽつりと瀬良が漏らした。辻が視線を投げる。
「俺は灰谷さんに、殺さないで欲しい一心で傍にいるから」
 山から牌を手にした瀬良が、その字面も眺めずに辻をちらりと窺った。こちらも今日限りは無礼講だろう。
 灰谷が死神と呼ばれて人を殺すことに特化しているのは、十文字が命じているからだ。瀬良がそれに反意を示すのは組長に背いているということになる。
「俺はあいつに、いつでも殺せる人間でいて欲しいと思ってるよ」
 辻が重い口を開いた。
 あいつと言うのが、灰谷のことなのか十文字のことなのか判らない。茅島にはそれを確かめる気はなかった。瀬良もただ押し黙って、牌を並べた。
「茅島さんは?」
 背後で茅島の手を覗き込もうとするモトイを追い払おうとすると、細い体躯を前のめりにさせたモトイが射抜くような目で茅島を見た。
 気付くと、辻もこちらを見ている。思わず茅島は、言い淀んだ。
 彼を守るためならば自分の命を賭してもいいと思っていたし、彼を脅かすものの命など容易に排除していいと思ってる。しかしそれを口にすれば、椎葉は嫌がる。
 だとすれば、茅島はいつまでも椎葉の傍で幸福を与えられるように生き続けるしかないし、彼を抱きしめるこの腕を必要以上に汚すことはできない。
「――……、」
 茅島がモトイの問いかけに唇を開きかけた時、牌を揃えた小野塚が、あ、と短く声をあげた。
「天和(テンホー)です」
 瞬間、室内の空気が静止した。
 さすがの辻も眉を顰めて小野塚の手元を覗き込んで目を瞬かせた。瀬良に至っては麻雀卓に乗り上げて向かい側の小野塚へ掴みかからんばかりの勢いだ。
 東の空が白み始めている。
 茅島はホテルの窓の外、永田町方面を眺めながら深く項垂れた。




テンホー…親の場合のみ 配られた時点でいきなりあがる。天和の確率は33万回に1回だといわれている。