Sesh!(2)

 組長の器というのは、人それぞれだ。
 その人間のために命を張れるという組員が多ければ、その人は立派に組長であると言える。
 そんなに簡単なことではないかもしれないが、椎葉はそう理解している。
 組長としての魅力が人望なのか腕力なのか権力なのか財力なのかは、組長についていく人間が選ぶことだ。
 人望も腕力も権力も財力も兼ね備えた組長といえば、多くの組を抱える堂上会長などが正にその人だ。通りで多くの組員に慕われているし、椎葉のような暴力団慣れしていない人間でも惹かれるものを感じる。
 茅島にも堂上会長に似たカリスマ性を感じることが多々ある。
 堂上会の次期会長は能城だと言われて久しいが、椎葉から見るとどうしても茅島こそ相応しいように思えて仕方がない。贔屓目なのかもしれないが。
 しかし多くがそう思うからこそ、能城も茅島を放ってはおけないのだろう。
 反対に、同会系の組長衆のほぼ全員がノーマークとしている組長といえば、十文字だ。
 看板を汚されることを嫌って、菱蔵組を堂上から外そうと声を挙げる者もいる。堂上会長は十文字を憎く思っていないようだから恐らくそんな心配はないが、万が一次期会長が能城になれば外されてしまう可能性もある。
 椎葉からすると、十文字にも不思議と組長の素質を満たしていると感じるところがいくつもあった。
 例えば、こんな顔ぶれを一堂に集めてしまうこととか。
「その節は世話になったね」
 細い身体を椅子の背凭れから離して、姿勢良く灰谷に対峙した柳沼の表情は美しく冴えていた。
 対して、灰谷は何かあっただろうかととぼけるように無表情のままだ。


 事務所を閉める直前の午後四時過ぎ、突然十文字から電話があったかと思えば、この後食事に付き合えと言う。知らない仲ではないし、断る口実も見つからずに椎葉が躊躇していると、間を置かずに迎えが訪ねてきた。灰谷だった。
 安里も是非一緒にと言うので、仕方なく椎葉は重い腰を上げた。
 柳沼の件で菱蔵組には世話になったが、それ以来、礼らしい礼もしていない。茅島に相談すれば、礼なんてものは組同士で済ませることで、茅英組が菱蔵組に丁重な礼を済ませたのだから気にするなと言っていたが、こんな機会があるなら直接礼を言っておいても良いはずだ。 
 そもそも、十文字は嫌いな相手じゃない。
 暴力団然としていない気さくさも安心するし、しかしいざという時は茅島を助けるのに動いてくれる――それが菱蔵なりの計算の上にあったことだとしても。
 何より、茅島の態度を見ていれば十文字が気の置けない男だということは判る。
 十文字を間に挟むと、茅島の見たことのない表情が垣間見れることもある。安里が一緒なら、あるいは安里の新しい一面を見ることもできるのかもしれない。
 しかし、十文字が待つ食事の席に着いてみるとそこにはもう一人、先客がいた。
 辻くらいはいるものかと思っていたが、それは辻と見間違えようがないほど華奢な、青白い顔をした柳沼の姿だった。
「これでもだいぶ良くなった方ですよ。退院を許されたくらいですから」
 ソフトドリンクを口にしながら穏やかな表情を見せる柳沼は以前と変わらないようだが、椎葉は表情が強張るのを感じていた。
 柳沼は茅島の大事な側近だった。
 茅島も信頼を寄せていたし、勉強することしか知らなかった椎葉にとって、学歴がものを言わない極道社会の中で柳沼の存在はどこか安心を覚える存在だった。
 今、久しぶりに再会する柳沼の様子は以前と変わらないように見える。
 しかし椎葉が知っている柳沼の姿は、常に茅島を裏切っていたのだ。茅島も椎葉もそれを知らなかっただけで。
 宇佐美を使って椎葉を拉致することを考えたのも、モトイに茅島を殺させるように指示したのも、柳沼だ。
 ここまで椎葉と安里を案内した灰谷の表情は変わらない。柳沼が同席することをあらかじめ知っていたのかどうかは知らない。
 事前に柳沼がいることを知らされていれば椎葉は十文字の誘いには応じなかったかもしれない。安里も。
 安里は椎葉の斜め後ろで視線を伏せている。今から帰ると言い張れば、十文字に失礼になるだろうか。
「まーまー、ま! 座って座って!」
 その時、大きく陽気な声を張り上げて十文字が両手を広げた。
 重苦しい空気を追い払うような景気の良い掛け声。
 我に返った椎葉が一つ瞬きをすると、急に周囲の喧騒が聞こえてきた。
 場所は駅前の大衆チェーン店の居酒屋。隣のテーブルでは大学生が賑やかに杯を重ねている。まさかこんな場所に暴力団の人間がテーブルを連ねているだなんて思っていないだろう。実際、十文字も灰谷も、柳沼もとてもそんな風には見えない。
「先生、生中でいい? あ、ごめんねすっごい腹減ってたから先に始めちゃってた! つくね半分食べる? つくね!」
 メニューを開いてテーブルの上に押し遣りながら、十文字は手馴れた様子で店員に片手を挙げた。
 ワイシャツの袖を捲くってジョッキを持つその姿は、どこかの会社員のようにも見える。カッターシャツにスラックスという出で立ちの柳沼も、そう大差ない。
 多少砕けた格好といえば安里くらいのものだが、それも会社のアルバイトだと充分言い張れる程度だ。
 それぞれの服装を見回した椎葉に、安里の視線がぶつかった。
「――……安里くん、お酒は飲めるの」
 こうなってしまっては仕方がない。小さく首を竦めて見せた後で尋ねると、安里はひとつ肯いた。
 安里と業務外の会話をする機会は――以前よりは増えたとはいえ――あまりないものだ。純粋に嬉しい機会だとも思えるし、何よりこんな面子に囲まれて訳も判らないだろう安里を気遣うのが先決だ。
「失礼します」
 十文字の傍らの椅子を引いて椎葉が腰を下ろすと、十文字はすぐに生ビールを四つ注文した。柳沼はアルコールを飲まないようだ。彼が退院したと茅島に聞いてはいたが、その後どうしているのか知らない。
「……それで、今日はいったいどういうご用件で」
 食べさしのサラダや玉子焼きを十文字が押し遣ると、灰谷が黙ってそれを小皿に取り分ける。黙ったまま、それに安里が手を貸した。二人とも言葉は少ないが、似ているように見える。
「どうもこうもないよ! ……腹が減ったから呼んだだけだよ!」
 どん、と勢いよくテーブルを叩いた十文字の言い草に、椎葉以外の三人は微動だにしない。椎葉はどんな表情をするべきか判らなくなって、鼻の上の眼鏡を押し上げた。
「そしたら、柳沼がいたから一緒にどうって誘ってみた。いろいろ話は聞いてるけど、本人と直接話したことないからね」
 十文字は腰を上げて灰谷の取り分けた皿に腕を伸ばすと、誰より早く食べ始めた。まだビールも届いていない。
「柳沼が何やってようとやってなかろうと、実際話してみなきゃ判らないだろ」
「僕が嘘を吐く可能性もありますよ」
 口いっぱいにサラダを頬張る十文字の言葉に被せるように言って、柳沼は笑った。正面にかけた椎葉を一瞥する視線が暗い。椎葉は喉を詰まらせた。
「それも、会ってみなきゃ判らない」
 十文字はあっという間にサラダをたいらげてしまった。
 ようやく、ジョッキが四つ、テーブルに届いた。安里がそれぞれの前にそれを配分する。
「柳沼が嘘を吐く人間なのかどうか、どんな顔をして嘘を吐くのか、何のために嘘を吐くのか、その嘘でどうしたいのか、俺は何も知らないからね」
 薄く氷の張ったジョッキの持ち手を握り締めて、椎葉はまるで吸い寄せられるように十文字を見つめた。気付くと、柳沼も同じように十文字を見ている。
 十文字は確かに組長の器だ。
 素直でまっすぐで隙がなくて、心が強い。
「嘘なんか誰だって吐くよ。俺は今日、先生に柳沼もいるんだってことを言わずに呼んだ。嘘は吐いていないけど黙ってた。それは裏切りなのか? とりあえず乾杯」
 このタイミングで、と尋ねたくなるような流れでジョッキを掲げた十文字は、きっと喉が渇いたのだろう、景気よくビールを煽った。
 椎葉も仕方なく安里や灰谷とジョッキをぶつけた後、柳沼と顔を見合わせた。
 柳沼ははにかむような、まるで泣き出す寸前のような複雑な表情でウーロン茶のグラスを掲げた。
 帰ったら茅島に聞いてみよう。柳沼は茅島を裏切らないという「嘘」を吐いたのかどうか。あるいは言わなかっただけかもしれない。柳沼は確かに裏切ったが、それは茅島を悲しませはしたけど、怒らせてはいないのかも知れない。
 茅島は柳沼を信頼していた。好きだったと言い換えてもいい。だから柳沼に裏切られた事実よりも、柳沼を破門しなくてはならなかったことのほうが辛かったかもしれない。
 それはもしかしたら、柳沼自身も。
 そう思わせるような表情だった。
 こんな表情も、十文字の言う通り直接会わなければ見ることもできなかったものだ。
「どうぞ」
 安里がお好み焼きを切り分けた皿を、十文字と椎葉、柳沼の前へ置いた。
 後はいいから安里も食事を楽しんでくれと椎葉が声をかけようとした瞬間、柳沼と安里が視線を合わせた。
 お互い、表情はない。
「――モトイは元気にしてるの」
 紙のように白い肌をした柳沼が、双眸を細めて囁くような声で言った。
 モトイ。
 椎葉が思わず目を瞬かせると、その腕を十文字が突付いた。唇の前に人差し指が立っている。黙っていろということか。と思ったら、人差し指に見えたそれはつくねだった。十文字がそれに齧りつく。
「はい」
 消え入るような声で安里が答えた。どうして安里がモトイの状況を把握しているのか、椎葉には判らない。しかし十文字が口を挟まないということは、知らないのは椎葉だけなのだろう。
「僕が何を言っても嫌味にしかならないかも知れないけど、」
 柳沼の指先に、ウーロン茶のグラスについた水滴が滴った。それを見下ろした柳沼の睫が揺れる。
 隣のテーブルで大学生の歓声が大きくなった。ともすれば、柳沼の言葉など掻き消えてしまいそうだ。しかし柳沼の呟くような声は不思議とぶれずに聞こえた。
「――モトイをよろしくお願いします」
 そう言って、柳沼は頭を下げた。
 安里が息を呑む音が隣で聞こえる。椎葉も思わず目を瞠って、十文字を振り返った。十文字は僅かに苦笑して首を竦めて見せたきり、ビールのジョッキで顔を隠してしまった。
 安里はこの食事の席で一人、輪から外れた立ち位置かとばかり思っていたが、案外椎葉の方が外れているのかもしれないという気がしてきた。
 居た堪れない気持ちで手元の皿に視線を伏せると、不意に視界に箸が伸びてきた。ぽい、と紅生姜を放り込んで去っていく。
 顔を上げると、十文字がお好み焼きの上の紅生姜をより分けて椎葉の皿に放り込んでいた。
「先生、すみません。よろしければ私のものとお取替えしましょう。箸はつけていませんので」
 灰谷がすぐに気付いて、皿を寄越した。十文字のこういったことに慣れているようだった。
「いえ、大丈夫です。紅生姜は嫌いではないので」
 灰谷の気遣いを固辞しながら、椎葉は思わず笑いがこみ上げてきた。十文字が子供染みたことをする人だとは知っていたが、こうして菱蔵の人間を交えて接するのも新鮮だ。
 椎葉はもっと他の組の人間と、人と人との繋がりを知るべきなのかもしれない。
 あまり危険に晒されるような目に遭うことは避けたいが、柳沼や安里や、モトイのことのように、一方からしか事情を知らなければ真実はなかなか見えないものだ。
 弁護士は真実を明らかにする職業ではない。一方からの主張を正しいのだということさえ証明できれば良い仕事だ。でも、人としてはそれではいけない。
 人として正しくありたい。
 十文字は好き嫌いも多いし突拍子もないし、無邪気な子供そのものだが、人の正しさを知っている気がする。
 椎葉は組長になる気はない。でも、茅島という組長の傍にいるのなら、その人に恥じない相手でありたい。彼の大きな掌に撫でられるのに相応しい人間でいたい。
「で、実際のところどうなの? あ、おねーさん。焼きおにぎりと枝豆、串焼きの盛り合わせをもう一皿と、お代わり」
 空のジョッキを店員に押し付けながら、十文字は傍らの柳沼の肩を小突いた。食事を摂っているのかと疑いたくなるほど薄い体をした柳沼が、突然の十文字の攻撃に上体をふらつかせた。
「何つったっけ、あのー……アレ。誰だっけね?」
 まるで酔っ払いの年寄りのように赤い顔をした十文字が灰谷を見遣ると、柳沼の肩を支えた灰谷は僅かに表情を歪めた。隣の柳沼を一瞥する。
「小野塚です」
「ああ、そうそう。小野塚。幼馴染だって?」
 柳沼の表情が変わった。
 十文字を見てから、灰谷を振り返る。灰谷は、詫びるように短く視線を伏せた。
 前言撤回、と椎葉は苦笑を押し隠すようにビールを口にした。十文字はちょっと、人の内証事を知りすぎている感がある。
「幼馴染とするって、どうなの? 小さい頃の顔とか過ぎっちゃって萎えたりしないの?」
 思わず、むせた。
 唇からビールが出てこないように掌で抑えて咳き込んだ椎葉に、安里がハンカチを差し出してくれた。安里は動揺しているように見えない。安里のハンカチを有難く借りながら、椎葉は自分の情報量の少なさに改めて肩を落とした。
「それを言ったら、十文字さんだって長いお付き合いでしょう」
 組長、とはあえて呼ばないのが柳沼の気遣いの細やかさを感じる。それとももう渡世人ではないからなのか。
 何だか驚くようなことばかりで一気に疲れてしまった椎葉が椅子の背凭れに身体を預けていると、灰谷が気遣って水を頼んでくれた。
「長いって言っても俺は高校の時からだから。可愛いもんだよ」
 ビールのお代わりを運んできた店員からジョッキを受け取った十文字は、一口ビールを煽ると、空いた手で人差し指を立てて左目の上に重ねた。
「いくら思い出すって言ったって、疵があるかないかの違いだ」
「!」
 椎葉は思わず、灰谷を振り返った。
 左目に疵のある人間といえば、椎葉は一人しか知らない。灰谷は黙って顔を逸らした。相変わらず無表情ながら、そこにはある種の諦観を感じる。
「灰谷のところは最近で、別に糞面白くもないしな」
「私のことは気にしないでください」
 顔を逸らしたままの灰谷が毅然とした声で応じる。もう灰谷の相手が誰であろうと、椎葉は驚く気もない。
「先生は?」
 矛先がこちらに向いてきた。
 返ってこの方が気が楽だ。安里だってもう気付いているだろうし、灰谷も、揃いの浴衣を着ているのを目撃された時に気付いていそうなものだ。
 ……それはそれでテーブルの下に隠れたくなってしまうが。
「茅島も驚くほど丸くなったよな。なぁ?」
 ジョッキを早いペースで半分ほど飲み干した十文字が、柳沼に同意を求めた。茅島の話を柳沼に振るなんて、椎葉だって冷やりとしたが柳沼だって相当だっただろう。一度大きく目を瞠った後でゆっくり椎葉を振り返ったかと思うと、柳沼は穏やかに笑った。
 柳沼は以前よりもずっと柔らかくなったような気がする。今の柳沼がもしかしたら本当の柳沼の姿なのかも知れない。何故だか、そんな気がした。
「昔は一晩に五人も六人も女はべらせて、それでも満足しないだとか何とかぼやいてたけどな」
 しょうがねぇ奴だよ、と十文字が大きな声をあげて笑う。灰谷が十文字を振り返って、テーブルに身を乗り出した。
「へぇ、……そうなんですか?」
 どこか遠くで声がした。それが自分の声だと気付くまで、椎葉は少しばかりの時間を要した。
「あいつ、下手したらシマん中に十人くらいは隠し子いるんじゃないか」
「組長」
 灰谷が席を立つのと、柳沼が十文字のビールを取り上げるのはほとんど同時だった。一瞬の後、十文字の背後に立った灰谷が失礼しますと詫びた後で口を塞ぐ。
「安里くん、電話。辻さんを呼んでください。繋がらなければ、茅島さんを」
 柳沼が言うと、安里が携帯電話を取り出した。
 安里の私物である携帯電話に辻の連絡先や茅島の連絡先が入っているなど意外なことだが、そんなことはもはやどうでもいい。
「先生、申し訳ありません。十文字はちょっと飲みすぎたようで多少の失言が――」
 灰谷が淡々と説明をする手元で、十文字がもがいている。椎葉は、灰谷の手にそっと掌を重ねた。
 十文字の口から、灰谷の手を引き剥がす。灰谷は引き攣ったような表情で、十文字から手を引いた。
「構いませんよ」
 椎葉は、微笑んでいた。
 しかし目の前の眼鏡が曇るほど、体温が上がっている。
「安里くんも。連絡は必要ありません」
 普段通りのつもりだったが、安里の携帯電話を取り上げようとする手が必要以上に強くなって、安里の手から外れた電話機が床の上を滑った。
 柳沼が喉を鳴らした音が聞こえる。 
「十文字さん、――その話、もっと詳しく聞かせていただけますか?」
 恐る恐る両手を掲げた灰谷に解放された十文字に、椎葉はにじるように詰め寄った。どうしてだか、十文字自身も酔いの醒めたような顔で椅子の足を鳴らし、後じさった。
 時計はまだ零時も回っていない。
 夜はまだまだこれからだ。