BASH BASHAW

「それから、茅島に会いました」
 天井から糸にでも吊るされているのではないかと、瀬良が思わず天井を見上げてしまうほど背筋をすっと伸ばした姿勢で、灰谷は直立したままだ。
 しかし、力が入っているよういう風ではない。
 これは十文字の前に立っているからというわけではなく、基本的に灰谷は姿勢がいい。
 いつも猫背だと両親に叱られて育った瀬良とはえらい違いだ。
 お前は大きいからいいんだよとある時――珍しいほど上機嫌の――灰谷に背中を殴られたことがあったが、長身なら猫背でもいいというのであれば、十文字の後ろに控えている辻なんかはどうなるというのだろう。
 ゆったりとしたスラックスのポケットに両手をしまって、灰谷の話に耳を傾けている辻の体長――もはや身長じゃなく体長といってもいいと思う――は185を超えているはずだ。
 思わず何かスポーツでもやってたんですかと聞きたくなるようなガタイの良さだが、まあ普通の神経だったら、そんなことを訊けない。
 辻の顔には左目の目頭から頬に向けて、斜めに大きな裂傷があった。周囲の皮膚は引き攣れたまま固まっている。それさえなければそこそこいい男だろうに、と思わないでもないが、残念なことだ。
「へえ、元気にしてた?」
 灰谷の伏せられた視線の先には十文字の不器用な指先があった。
 ガチャガチャと騒がしい音をたてて十文字はマグカップの中のスプーンを前後左右に揺らしている。もう少し静かにできないのかと、さすがの瀬良でも呆れたくなるような不器用さだ。
 十文字は、組長っぽい、という曖昧な理由で衝動買いした黒い革張りの椅子の上で、片膝を立てている。
 確かに茅島に言われた通り、とても病弱そうには見えない。
 つまり、仮病だ。
「特に変わった様子は見えませんでした」
 灰谷の淡々とした声を聞いて、ふうん、と漏らした十文字がマグカップからスプーンを引き抜いた。砂糖をいやというほど放り込んだコーヒーの雫を舐め取ってから、背後に控えた辻にそれを渡す。
 マグカップと一緒に下げればいいものを、何も今片付けさせることはない。どうせまたすぐに砂糖が底に溜まっただの何だのと文句を言うくせに、瀬良でさえ判るようないつものことだが、辻は文句一つ言わずにそのスプーンを受け取った。
「茅島っておっさんと知り合いなの」
 奥の流し台にスプーンを片付けに、辻がその場を離れるのを見計らったように――結果的にそうなっただけだが――瀬良が口を開くと、灰谷が僅かに首を捻って背後の瀬良を振り返った。
 失礼な物言いをするなとまた叱られるのだろう。
「や、知り合いってほどじゃないけど」
 長身とは言い難い十文字は、猫背気味だ。
 片足を立てたままの姿勢で背中を丸めると、顎先から迎えに行くような形でコーヒーを啜る。
 知り合いというほどではないが、まあ知らない仲でもないということか。
 それはもちろん、堂上一家の一端を勤めている十文字と、堂上に可愛がられている茅島に面識がないというほうがおかしいのかもしれないが、瀬良は釈然としなかった。
 十文字と茅島の間に何があるのかは知らないが、そのために灰谷が不快な思いをさせられたら、面白くない。
 十文字が自分で会長の家に出向けばあんな思いをせずに済んだのだ。
 灰谷にそれを言えば、あんなことくらい何とも思っていないと言うかもしれないが、万が一あんなこと何でもなかったのだとしても、十文字がすべき仕事を灰谷にやらせるというだけでも瀬良には苛立ちの種だ。
「堂上のおっちゃんは? まだ死にそうになかった?」
 辻がタオルを手に戻ってきた。
 足音一つ立てずに歩く辻の姿を瀬良が振り返ると、辻も瀬良を視線の端で捕らえた。興味がなさそうな表情で。路傍の石を見下ろす方がまだ表情があるのではないかと思うほどだ。
「お元気そうでした」
 微動だにせず答える灰谷の背後で、瀬良は欠伸を漏らした。
 辻が運んできたタオルは濡らしてあったもののようだ。十文字の背後に回ると、そっと十文字の手元に伏せる。甘くしたコーヒーが手にでもかかればまた手がべたつくだのと文句を言い出すに決まっているからだろう。
「あと他に誰かいた?」
 十文字は辻を振り返るでもなく、以前からそこに当然のようにタオルがあったとでもいうような自然な仕草で指先を拭った。
 十文字にとって辻は、自分の影となって仕えることが当然の、空気のような存在なのだろう。
 十文字というその人こそ、本当の意味での長なんだよ、と灰谷はいつか静かに語った。王と言い換えても良い、他人が自分の手足をなることを当然のように思うが、独裁的というわけではなく、妙な人徳に恵まれている。
 十文字のような人物の下で働くことができる自分たちは幸せなんだと、灰谷は言う。
 瀬良には同意しかねた。
 十文字が根っからの王様気質だということは理解できるが、自分はそれに仕えていると思っていないし、それを幸せだと思わない。それどころか、灰谷が早く目を覚ましてくれればいいと思っている。
 瀬良が十文字の治める菱蔵組に従属しているのも、灰谷の傍にい続けるためでしかない。
「椎葉先生と、」
 少し思案した灰谷が呟くように言うと、十文字が首を捻った。誰、と尋ねるように、辻を振り返る。
「弁護士の先生だな」
 辻は大きな体を屈めるように折り、重々しい声で答えた。よく響く低音だ。
 辻の声に、灰谷が肯くように小さく顎を引いた。
「それから、能城さんに」
 他の組長は既に退室した後だった。能城が堂上会長の傍で何事かぺらぺらと捲くし立てている他には。
 瀬良は、あの能城という見るからに小悪党で面白みも何もないけち臭そうな男に見下された態度をとられたことも面白くなかった。
 だからあの屋敷には行きたくなかったし、だからと言って灰谷一人を行かせるのも嫌だった。
 組長が集まるものと決まってるんだから、十文字が行けばそれで丸く収まったものを。十文字ならどんな嫌味を言われてもへらへらと笑って済ませるんだろうし、何を行きたくないなどと文句をいう必要があるのかも判らない。
 大体、瀬良はこの職業についている人間の大半を好きになれなかった。
 十文字も茅島も能城も、同じレベルで苦手だ。堂上会長が大らかで暢気な好々爺だということだけがせめてもの救いで。
「能城さんが、会長と」
 灰谷の抑揚のない報告を受けると、辻が初めて反応を返した。十文字以外には反応しない人形なのかと思ってたよ、と瀬良は心の中で皮肉を漏らしながら、大きく伸びをした。
 眠い。退屈だ。早く家に帰って、灰谷の肌を弄って、嫌だと叱られるまでキスをしていたい。
「はい、会話を全て窺っていたわけではないので詳しくは判りませんが」 
 十文字の頭上を通して灰谷が辻に告げると、辻は鼻の上に皺を寄せるようにして神妙な表情で黙り込んだ。まるで犬のような仕種だった。
 普段、十文字の下僕のように息を殺している辻だが、実のところ血統書付なのは辻の方だっていう話を、瀬良は菱蔵組に昔からいる中年組員に聞いたことがある。
 辻の父親は菱蔵組末端の暴力団組員だったのだそうだ。たいして十文字は堅気上がりなのだとか。
 どうしてそんな辻が十文字なんかの言いなりになっているのかまでは瀬良は知らない。十文字なんてたいして喧嘩もできなさそうだし、弁が立つというわけでもない。
 いざという時には辻が的確な指示を出してくれて兵を動かすだけだし、十文字は菱蔵組にとってお飾りのようなものだという見方もある。
 飾りにしたって質が悪いが。
 だから菱蔵組はもう駄目だなんて笑いものにされるのだ。
 笑いものにされている代紋を背負って会合に出かける灰谷の気持ちにもなってみろ、代紋の質を下げた本人が責任取るのが普通だ。
 瀬良は大きく溜息を吐いた。
「何だ瀬良、退屈か?」
 深く項垂れて首の後ろを掻いていたところに突然声を掛けられて、瀬良は弾かれたように顔を上げた。
 十文字がニヤニヤと笑いながらこちらを窺っていた。それでなくても、十文字は大抵テンションが高くて何でも楽しそうにしている。それがよけい瀬良を苛立たせることに気付いているのか、いないのか。
「はぁ、まあ」
 瀬良が素直に答えると、灰谷がこちらを振り向いた。眉間に皺が寄っている。
 ああ、しまった。後で本気で怒られる。今夜はうちに泊まってくれないかもしれない。
「よっし!」
 ガタ、と急に大きな音をたてて十文字が机に手をつき、立ち上がった。背後に控えていた辻が、それでも眉一つ動かさずに引かれた椅子の背凭れを押さえる。
「メシでも食いにいくか! 腹減っただろう、肉食いに行くぞ、肉」
 焼肉で良いか、と十文字は腕まくりをしながら椅子を離れると、辻を見上げて屈託ない表情を見せた。
 それを見下ろす辻の表情がふと、柔和になったような気がして、瀬良は思わず眼を擦った。
「楽しそうだな」
 辻が十文字の椅子を直しながら答える。よく耳を澄ませていないと聞き取れないような重低音だ。ただでさえも十文字の騒がしさに掻き消される。
「ああ、うん。可愛い弟たちとメシ食いに行けるのは楽しいだろ」
 わはは、と大きな声で笑いながら十文字は灰谷の返事も待たずに部屋の出口へ向かおうとする。その背中を追って、辻が上着を差し出す。
 お前の弟になったつもりはない、と瀬良は苦虫を噛み潰すような思いだったが、灰谷は嬉しく思うものだろうか。
 恐る恐る傍らの灰谷の表情を盗み見ると、意外なことにそこには表情らしい表情はなかった。
 灰谷にとって十文字にはそういう扱いを望んでいるというわけではないのか、あるいは、家族に喩えられたことが鬼門だったのか。
 十文字の下らない物言いに灰谷が浮かれてしまっても面白くないが、十文字の考えなしの一言にも心を深く閉ざしている灰谷を見ているのも辛い。
 瀬良は掻き毟るように頭を掻いて、項垂れた。
 何もかも十文字が悪い。そういうことにしておこう。
「それに――」
 辻に上着を押し付けられた十文字が、子供か亭主関白かというような横柄な仕草で袖を通しながら、思い出したように言葉を繋げた。
 瀬良や灰谷に聞かせるというつもりはなかったのかもしれない。十文字にしては珍しく、静かな声だった。
「能城もようやく動き出しそうだしな」
 上着の前を留めた十文字の表情は、影になっていて瀬良からは見えなかった。
 いつものように笑っていたのか、それとも、瀬良が今まで見たこともないような十文字だったのか。背後の辻は黙っている。
 瀬良は思わず、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。灰谷にも十文字の声は聞こえていただろう。しかし、眉一つ動かしていない。
「それって、……どういう――…」
 能城がどう動くのかは、瀬良には判らない。それを十文字が楽しいと思えるようなことなのだろうか。
 十文字に尋ねるつもりで呟いた瀬良の声は掠れて、十文字には届かなかったようだった。
「オラ、行くぞお前ら!」
 次の瞬間には十文字はいつものように声を張り上げて、瀬良たちを手招いた。
 灰谷は一度、瀬良を振り仰ぐと仕方ないというように苦笑を漏らして――これは瀬良にだけ見せてくれる表情の変化だ――、十文字の後に続いた。