SOLID KILLER

 投げ出した素足に纏わりつくシーツの湿っぽさに違和感を覚えて、瀬良は眼を覚ました。
 この間洗濯したばかりのシーツはもう皺だらけで、今夜にはまたランドリーに持っていかなければならない。
 そこまで綺麗好きというわけじゃない。むしろ、いっそこのまま洗わずにいても良いかもしれないと思うくらいだ。
 その方が、いつまでの灰谷の香りを楽しめる。
 しかし、前回の情事の痕跡が残ったままのベッドに灰谷を誘うことはできないということを考えれば、すぐにでも清潔にしておかなければならない。今日の内にまた洗っておけば、また今夜も灰谷を誘うことが出来るかもしれない。
 瀬良はまだ隣に灰谷の体がある状態でその幸せな可能性を考えると、心の内でガッツポーズをした。
 俺、天才。俺、最高。
 灰谷はというと、汚れたシーツの上でまだ無防備な顔を晒して眠りの中にいる。
 どこからどう見てもヤクザと言われる職業についているような人間には見えないそのあどけない表情を見つめながら、瀬良は欠伸を一つ漏らした。
 枕もとの目覚まし時計に視線だけ向けると、短針が七の字を指している。ラッキーセブン。確かに今の自分は幸福すぎるほど幸福だ。
 灰谷と出会った頃は、まさかこんな風に一緒の朝を迎えられる日が来ようなんて思っていなかった。望んではいたけど。
 灰谷はこんな朝を望んでいなかったかもしれない。今も望んでこうなっているのかどうか今一つ確信がないが、それでも瀬良の気持ちを知った上で部屋に来てくれて、まるでよく懐く犬を可愛がるようにでも、キスに応じてくれて、更にはいかがわしい行為にだって応じてくれるのだから――……
「……、」
 瀬良は小さく咳払いをして、傍らの灰谷の肩を抱き寄せた。
 思い返すと、自分たちの素晴らしい夜が愛のあったものなのかどうか自信が持てなくなってきた。
 自分には確かに愛がある、これ以上ないというほどにある。多分灰谷にもそれなりにあるだろう。じゃなかったら、男とセックスなんてしないに違いない。多分そうだ。
 瀬良が抱き寄せた灰谷は、小さく唸って身じろいだ。まだ眠りの中にいるようだ。
 その滑らかな肌には瀬良が口付けた跡がいくつも鮮明に残っていて、扇情的に色付いている。
 何度こんな朝を迎えても、まだ灰谷の体は一目見るだけで思い出し勃起も容易なほど艶かしく、美しく、とにかくたまらない。
 灰谷の体にはあまり傷がない。
 数多の修羅場を潜り抜けてきたのだということを窺わせないよく整った顔と同様、灰谷は体にも喧嘩の跡をまったく残していない。
 あるのは、古い傷ばかりだ。
 それは灰谷が最近返り血を浴びていないということの証明ではなく、自分を傷つけることなく相手を確実に仕留めているということでしかない。
 十文字は灰谷を侍だと言って、褒める。
 真剣を持って相手と対峙したら、相手に斬り付けられたらお終いだ。自分の初撃で相手を殺してしまえば、自分が傷つく心配はない。
 灰谷はそういう戦い方をする。
 だから灰谷の体にあるのは古い傷ばかりだ。
 瀬良は、それを十文字のように褒める気にはなれない。
 灰谷が傷つけられるのは嫌だ。だけど、灰谷が他人を傷つけるのも嫌だ。
 灰谷は侍ではない。十文字は将軍ではない。
「――瀬良」
 灰谷のくぐもった声が聞こえて、瀬良はその甘い響きにぞくりと背筋を震わせた。
 胸元で囁かれる灰谷の声が細微な震動となって瀬良の肌を擽り、興奮してしまいそうになる。
「瀬良。三秒で離れろ。さもないと、お前を殺す」
 ばっと勢いよく布団を翻して、瀬良は両腕を挙げた。
 灰谷が殺すと言ったら、それは本気だ。
 ごめんなさいと謝る準備をして瀬良が灰谷の顔を窺い見ると、いつの間にか灰谷も目を覚ましていた。
 瀬良が捲り上げてしまった布団を引き寄せて、寒い、などと呟きながらもう一度布団に包まる。
 どうやら、瀬良が思い切り強く抱きしめすぎていたようだ。
 それなら、苦しいよと優しく言い聞かせてくれたらいいのに。
 瀬良が口先を尖らせながら、灰谷のかぶり直した布団の中に一緒に潜り込んでも、灰谷はもう文句を言わなかった。
 深く息を吐いて二度寝に入ろうとする灰谷の綺麗な顔が目前にある。
 小さな顔に、長い睫。真っ直ぐ通った小高い鼻に、形のいい唇。灰谷が一人で街中を歩いていたら、モデルのスカウトや尻の軽い女のナンパなどに遭うのだろう。いつも瀬良が後ろをついて歩いているからそれを排除していられるが。
 いや、もしかしたら男のナンパにも遭うかも知れない。
 瀬良があの日灰谷に一目惚れをしたように、男だって灰谷の美しさには見惚れるに違いない。きっとそうだ、異論は認めない。
「……何だよ」
 布団を掴んだ灰谷の指先を無意識に掴んでいた瀬良に、灰谷が片目を開けて不機嫌そうな声を漏らした。
 寝起きだから不機嫌そうなだけだ。きっと、本当に不快なわけではない。
「キレイな指」
 瀬良は綺麗に切り揃えられた爪の先に唇を付けながら、気だるい朝の甘い会話に酔いしれていた。
 しかし灰谷は大きく溜息を吐くと、瀬良が手に取った指先をぎゅっと握り込んだ。
「そんなことを言うもんじゃない」
 その拳で殴られないだけマシか。瀬良は隠されてしまった指先を惜しむように灰谷の、目を瞑った顔を盗み見た。
「……こんなの、人殺しの手だ」
 少女漫画に出てくる王子様のように甘い顔をした灰谷が、眉間を緊張させて、吐き捨てる。瀬良は思わず、その拳をぎゅっと握り締めた。
「でも、俺のものだよ」
 この手も、物騒な言葉を吐くその唇も、細い体も、よく風に靡くその髪も、全て。瀬良のものだ。
「お前のものである以前に人殺しだ」
 灰谷が腕を引いた。振り払われないように、瀬良も力をこめて灰谷の拳を引き寄せる。
「それも含めて俺のもんなの」
 組み合ったら瀬良の方が力は弱い。灰谷は一つ舌打ちをすると、大きく溜息を吐いて観念したように力を抜いた。
 それ以上、灰谷は何も言わなかった。


「この世界、評価されるのは何人殺ったか、ってことですよ」
 茅島が灰谷を見下すようにして嘲笑った瞬間、瀬良は思わずその憎たらしい顔に殴りかかろうとした。
 瀬良の前に立っていた灰谷にはその気配が伝わっただろう。だけど、灰谷は指先一つ動かさなかった。動かさずに、瀬良を制した。
 灰谷は傍目に見ればその辺にいくらでもいる若いお坊ちゃんに見えるだろう。
 だけど、時折見せるその気色は十文字ですら息を呑むほど鬼気迫るものがある。灰谷は動かない。瀬良に視線一つくれもせずに、瀬良を抑えることが出来る。
 だからお前は灰谷の飼い犬なんだよと十文字は笑うだろうが、こういう時の灰谷に逆らえば、どんな目に遭うか判ったものじゃない。瀬良との甘い時間などなかったかのようにあっさりと、灰谷は瀬良を殺すだろう。
 だから逆らえないというのではない。灰谷はいつも正しい。
 今、瀬良が茅島に殴りかかれば――しかも、堂上会長の邸宅で――大事になる。菱蔵組などひとたまりもない。
「――それで、茅島さんは何人殺したんです?」
 灰谷が囁くような声音で尋ねた。
 灰谷がどんな表情をしているのか、背後にいる瀬良には見えなかった。微笑んでいるのじゃないかと思うほど優しい声だった。
 死神が人の魂を抜く時にはこんな風に微笑みかけるのじゃないかと思った。
 瀬良は灰谷のことが好きで仕方がない。愛してやまない。だけど、彼に死神を連想してしまうのも止められない。
 実際のところ、灰谷が微笑んで見せているはずもない。灰谷は対外的に笑って見せるようなことがあるにしても――例えばさっき、椎葉とかいう弁護士に微笑んで見せたように――本当に心から微笑むことなんて、出来ないのだ。
 少なくともそういうことになっている。
 彼自身がそう信じている限りはそうなのだ。
「さあ、私みたいに学のない男は五十より先が数えられなくてね」
 茅島は大きく肩を竦めて笑った。その無骨な体躯に相応しい、大仰な仕草で。
 黙ってその仕種を灰谷の後ろから見ていることしか出来ない瀬良としてはそのふざけた顔に飛び蹴りでも食らわせてやりたい気持ちでいっぱいだったが、灰谷が許さない以上それは出来ない。
 許可してくれたらいいのに。するはずがないけど。
 瀬良ははるか眼下の灰谷の顔を窺い見た。
 灰谷は、笑っていた。
 表情としては変化こそないが、僅かに目を細めて肩を揺らして笑っていた。
 茅島の武勇伝を嘲笑っているようだった。
 灰谷にしてみたら茅島なんておっさんの自慢話はちゃんちゃらおかしいってことなのだろう、それならもっと大きく口を開けて笑ってくれたらいいのに。
 瀬良は、灰谷の無意識に漏れたような嘲笑に背筋が冷たくなった。
 灰谷の笑みはまるで、自虐的にも見えたからだ。


 灰谷は他人の血に汚れた自分の掌を自慢話にする気などない。できない。手が汚れるたびに、灰谷は自分の背中に重い荷物を背負ってしまう。
 多分それは当たり前のことだ。
 他人の命を奪う。その原因が何であっても、許されるようなことじゃない。相手の人生も、その人がこの世に遺していく友人や家族や恋人の人生も、自分の手がぶち壊しにしてしまう。
 灰谷はそれを覚悟して、いつも返り血を浴びている。
 自慢するような気になれるはずがない。
「瀬良、起きろ馬鹿」
 瀬良に、灰谷の背中の荷物は背負えない。
 瀬良は灰谷の手を洗い流してやることは出来ない。
 たまに夜を一緒にして、嫌なことも辛かったことも全部忘れさせてしまうようにめちゃくちゃ淫らにして、愛して、瀬良には灰谷が必要なんだと、思い知らせてやるのがせいぜいだ。
 こんな方法を灰谷が良しと思っているかどうかは別として。
「瀬良」
 ごっ、と鈍い音が響いた。
 同時に眩暈を覚えるような衝撃を受けて目を覚ました瀬良の目の前には顔を顰めた灰谷の姿があった。
 俺のもの俺のものと言いながら朝勃ちまぎれに発情した瀬良が灰谷を抱いてしまって、その後、どうも二度寝をしてしまったらしい。
 瀬良の大きな図体を上に乗せた灰谷は目を覚ましても身動きがとれずに、拳を構えている。
「三秒で退け。さもないと、お前を殺す」
 ごめんなさい、と反射的に喚いて瀬良はベッドの上を飛び起きた。
 その機敏な動きに、灰谷が思わず、といったように笑みを漏らした。
 窓の外の日はすっかり高くなっている。時計の針はもう正午に届こうかとしていた。
 部屋に差し込む陽の光を受けた灰谷が、可笑しそうに肩を揺らして笑っている。
 彼が「笑う」という表情を自然に出来るのは瀬良と二人きりの時だけなのだらしい。
 灰谷がそう信じ込んでいるから、実際にもそうなってしまう。
 自分自身に課したその呪縛を解いてやることが出来たら、灰谷はもっと楽になれるのだろう。そう思いながら、瀬良はそれを突き崩すことを躊躇っている。
 救えない、独占欲だ。
 もしいつか瀬良が命を落とすようなことがあって、灰谷をこの世に一人残すようなことになったら、灰谷は今度こそ笑えないようになってしまうというのに。
 だけど、この笑顔も俺のもんだから。
 他の誰にも――今のところは――渡せない。