DOLL

 時計の長針が12の文字を回った。
 いつも、それを見計らっているわけではないのに視線を上げると丁度17時を指している。
「所長」
 安里は処理を終えた書類を上書き保存するとアプリケーションを閉じて、回転椅子を引いた。この弁護士事務所の長である椎葉は没頭していた紙面から顔を上げると、鼻の上の眼鏡を押し上げた。
 今、初めて安里の存在に気付いたかのような無垢な表情をしている。
 華奢な男だ。
 安里も人のことは言えないかもしれないが、それにしても今までの人生、机の上で奇麗事だけを並べ立てて人に褒められ、愛されてきたのだろうことが容易に窺える。線の細い男だ。椎葉という人は。
「お先に失礼します」
 安里は軽く会釈をしてそう告げると、扉の前に掛けたコートを取った。
「お疲れ様」
 いつものように椎葉は無表情でそう告げて、手元に視線を落とした。
 伏せられた眼鏡に前髪が落ちる。大きく開いた窓の外には夕暮れの気配が立ち込めている。きっと椎葉は、これから何時間でもそうしてそこに座っているのだろう。
 気がついたらビルの階段を一階上にあがるだけでもう自宅なのだから、いつまででも好きな仕事に没頭できる環境にある。
 彼がそうできるように、椎葉にこの贅沢な暮らしを提供したのは茅島の一存だ。椎葉が知っているかどうかまでは知らない。安里には告げることは許されていない。


 安里は椎葉法律事務所を出ると自宅とは別方向へ向かう電車に乗って、二駅先の事務所へと向かった。
 事前に連絡を入れる必要はない。今日が水曜で、安里が報告に向かう日だという事は既に承知して、先方は今頃待ちかねていることだろう。
 椎葉の暮らすビルとは比べ物にならない薄汚れたビルの四階に、事務所はある。二回のノックの後扉を自分で開くと、そこには柳沼しかいなかった。
「こんにちは」
 腰を折って一礼すると、自分のデスクでノートパソコンを開いていた柳沼は椅子からわざわざ腰を上げた。
「やあ、こんにちは。……相変わらず時間通り」
 後ろに括った長い髪を揺らして笑いながら、柳沼は立ち上がった机の前から動かずに、ただ奥の部屋に向かう扉を視線で促した。
 安里は黙ってもう一度だけ礼をすると事務所を横切った。
 途中、視界に入ったディジタル時計は17時32分を指していた。いつもこの時間に到着する。一分の狂いもない。努めてそうしようとしているつもりはない。気付くとそうなっている。いつもと同じように呼吸をしていればそうなるというだけだ。それを狂わせようとするほうが難しい。
「失礼します」
 安里が焦げ茶色の扉をノックする前にそう告げると、向こうから低い声が答えた。
 押し開いた扉の向こうでは、茅島が伸びをしていた。いつものように午睡でもしていたのだろう。いつかは、安里が訪ねてきたことにも気付かずに暫く眠っていたことがある。
 安里の行動を遮るような人間はそう多くない。だから安里はいつも同じペースで時間通りの行動が出来る。
 しかし、茅島はたびたび安里の行動を乱すことがある。安里がこんな仕事に就いているのも茅島が原因だ。
「今週の報告です」
 寝惚けたような表情で椅子に身を沈めている茅島の前に直立して、安里は声を張らず、メモを読み上げるでもなく虚空を見詰めたまま淡々と告げた。
 先週の木曜から、今日までの椎葉の行動の全てを。
 安里があの弁護士事務所に勤めているのは、全てこの報告のためだった。
「――以上、金曜に司法書士事務所に出かけた以外、特に変わった動きはありませんでした」
 安里が知る限りの椎葉の動向を伝え終えてはじめて茅島の顔に焦点を合わせると、茅島は特に興味がなさそうな表情で頬杖をついていた。
 茅島は表情をなくしている時が一番威圧感のある容貌に見える。彼が人懐こそうな表情で笑う時は腹の内で残酷な算段を練っている時だし、獣じみたその眸を光らせる時は心の内がひどく冷めている時だ。しかし、何の感情も読み取れない今のような表情でいる時は、得体が知れない。
 次の瞬間何を言い出すか判らないし、本人もきっと判っていないのだろう。
 鈍い刃を静かに研ぎ澄ませて、獲物を待って身を潜める野獣の沈黙だ。
 安里はそれを黙って見下ろしながら、茅島の命を待った。
 獲物を待って呼吸を整える獣の前で、草木はただそれに身を任せて揺れるしか術がない。茅島の目に安里は映らない。餌にもならない代わりに、邪魔にもならない存在でしかない。ただ、安里は椎葉という――茅島の狙う――草食動物を生かすための大事な檻だ。
「判った。ご苦労」
 茅島は唸るように低く言って、目蓋を伏せた。
 安里の今週の仕事は終いのようだ。明日からまた、安里は何食わない顔で椎葉の行動を見張って、来週の水曜にもなれば茅島に同じように報告をする。安里の存在意義は今のところ、この仕事が全てだ。
「お先に失礼します」
 安里は茅島の前に頭を垂れると、踵を返した。息が詰まるようなこの部屋を後にしようとした瞬間、
「茅島さーん」
 安里が潜ろうとした扉が、目の前で勝手に開いた。
 顔を覗かせたのは、いやに白い髪の男だった。安里の顔をちらりと見て、すぐに茅島へ視線を戻す。
「お菓子食べる? 柳沼さんに買ってきたのに要らないって言うんだけど」
 安里は、若い男がしがみついた扉をどうすり抜けようかと躊躇して茅島を振り返った。茅島の顔にはは苛ついたような深い皺が刻まれていた。どこか強張っていた安里の心が少し、緩んだ。茅島が人間らしい表情を見せたからだ。
「モトイ、来客中だ。控えろ」
 茅島はそう言うと、安里を出て行けという風に手の甲で追い払った。
 安里は会釈して若い男の隣を通り過ぎ、茅島の部屋を後にした。背後に男の視線を感じる。目に見えない細い針で突き刺されるような、視線だった。


 茅島の事務所を出ると、間もなく安里のコートのポケットが震えた。
 週に二度、鳴るか鳴らないか判らないほどの携帯電話が着信した合図だ。
「もしもし」
 安里は名乗らずに、通話ボタンを押した。相手は決まっている。電話の向こうは静かだ。
『今どこ?』
 電話口の相手は怒っているような口調で吐き捨てた。軽率な行動をしたつもりはないが、相手を怒らせてしまったらしい。無理もない、安里が呼吸をしているということだけでも簡単に激昂するような男だ。
「ビルの前です。駅に向かおうかと思っていますが」
 事務所を出てから5分と経っていない。安里が全力で逃げ出そうとしていればまだしも、普通に考えてまだエレベーターを出て間もないことくらいは判りそうなものだ。
 安里が事務所を出た時間だって判っているのだから。
『じゃあ根本さんのところに行ってて』
 相手の背後には物音一つ聞こえない。今、どこでこの電話をかけているのか計ることもできない。それを知ろうとも思わないが。
「でも、あの店は……」
 咄嗟に安里が拒もうと言葉を繋ぐと、すぐに舌打ちが聞こえて安里の声を遮った。安里は思わず、自分の首を片手で押さえた。目の前に相手がいるわけでもないのに、息苦しい錯覚に捕らわれた。
『いいから待ってろ』
 そう言って、通話が切れた。
 相手が電話を切る瞬間、彼の名前を呼ぶ声が微かに聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。彼を呼ぶ声は柳沼のものだった。
 モトイ。柳沼はそう言って、いつも彼を気安く手招く。
 柳沼に呼ばれた彼はあっけなく安里に背を向けて行ってしまう。
 仕方のないことなのだと理解していながら、安里はその背中をいつもただ眺めている自分を歯痒く思った。充分に酸素を吸うことができる自分の肉体を呪わしく思いながら。


 初めて彼に出会ったのは二年も前のことだ。
 今日と同じように茅島の事務所を訪れた時、事務所に茅島の姿はなく、事情を全て察している柳沼の姿もなかった。ただ、留守番を言いつけられたと自称する長身の男が一人蹲っているだけだった。
 部屋の隅で床に座り込んでいた彼を最初見た時、鎖に繋がれでもした野犬かと思った。
 棒切れのような細い足を折った間に頭を埋めるように深く項垂れ、床に両腕を放り投げていた。その姿は薄汚れていて、まだ人に飼いならされていない凶暴さが滲み出ていた。
 茅島さんは、と尋ねることを安里が躊躇っている間に、自分のテリトリーに立ち入られたことを察した彼は急に顔を上げた。
 汚れた白金の髪は痛み、水分を失ってあちこちに跳ねている。その隙間から覗いた眸は剃刀のように鋭く、安里は息を呑んだ。
 触れてはいけない、反射的にそう思わせるのには充分な、本能的に恐怖心を煽る刃だった。
「アンタ、何。何の用」
 血の気のない唇から響いた声は高く、しかし掠れていた。
 ずるりと床の上を這うように低姿勢のまま、出入り口で立ちすくんだ安里のもとまで近付いてくる。
 蛇に睨まれた蛙とはこのことだろうか、安里はどこか冷静に自分を見下ろす意識を感じながら、喉を鳴らした。
 茅島に凄まれたってこんな風には感じなかったかもしれない。茅島はこんな狩の仕方はしない。
「ここには誰も入れるなって柳沼さんにメイレイされてんだよ。勝手に入るな」
 虚ろな声で彼は言った。
 後から知った話だが、その時茅島が事務所を留守にしていたのはそれなりの理由があった。安里にその旨連絡を入れていなかったことを茅島は気軽に詫びたが、遅かった。安里は、彼に出会ってしまった。
「お前、――殺すよ」
 彼は言った。
 伸びてきた腕から逃れる術を、安里は持っていなかった。


 根本の経営するバーは、ごく普通の繁華街にある。
 唯一の店員であり、店主であり、優秀なバーテンダーである根本の右手には指が一本欠けているが、いつも白い手袋を着けているおかげでそれを知る客は少ない。
 うちはそういう店じゃないんだけど、と困った顔をしながらも、安里が店を訪ねると根本は店の奥の間へと通してくれる。根本が拒めば、安里が困ることを知っているからだ。
 ビルの地下にあるバーの奥にこんな個室が設けられていること自体がいかがわしいのだと、いつか茅島が笑っていた。
 ということは、茅島もこの部屋を使用したことがあるのかもしれない。もちろん、相手は椎葉ではないだろう。
 店には終始大音量の音楽が流れていて、部屋の中でどんなに大きな声を上げても外に漏れることはない。女の犯すのも、気にいらない相手を私刑にするのも簡単に出来る。
 根本はこの部屋で起こることを詮索しない。自己責任でどうぞ、と笑うだけだ。
「――ィ……ッ・は、ぁ……っ!」
 パイプ椅子の背凭れに腕を括りつけられた安里は、顔を顰めて首を振った。
 腰を下ろすべきシートの上にはモトイが掛けていて、安里は背凭れの外側に背を付けるようにして中腰を強いられている。床に腰を落とそうとすれば肩があらぬ方向に回ってしまうことになるし、立ち上がろうとするには肘の辺りまで腕を捕らえられていて、窮屈な姿勢になる。
「お前さ、何こっち見てんの」
 モトイは静かな口調で安里を咎めた。
 背凭れに腹を押し付けるようにして安里の背中を眺めながら、パイプ椅子を揺らす。気まぐれに安里の手を取ったかと思うと、肘の関節方向にかかわらず好きなように折り曲げようとして戯れるばかりだ。
 全裸に剥かれた安里の肌は汗ばんでいた。いやに冷えた汗が、背中を伝い落ちる。
「事務所では俺とお前は関係ないってことにしてんだって言ってんじゃん?」
 安里はモトイを知らず、モトイは安里を知らないということになっている。
 どうしてなのか、を尋ねることはしたことがない。柳沼に知られたくないのだろうことは、容易に想像できる。
「すみません……」
 もう一時間近くも中途半端な姿勢を強いられて、安里は膝を震わせながら項垂れた。膝で立とうとすれば、背後からも問いが容赦なく安里の尻を蹴り付けた。鋼を仕込んだブーツの先で。充分凶器になりうる代物だ。安里の腰には既にそのブーツで蹴りつけられた後がいくつも出来ていた。
「すみませんじゃなくて。お前俺のことチラッと見ただろ? 見たよな。誰がそんなことして良いっつった?」
 なあ、と気だるい調子で問い詰めながら、モトイは指先の冷たくなった安里の腕を捻り上げた。腕を縛ったビニール紐の拘束がきつすぎる。安里は自分の体を振り返ることが出来なかったが、恐らく肘から下は鬱血のために変色しているだろう。
「すみません、もうしません、……から…っ」
 腕だけではない、全身が冷たくなっているのを感じる。安里はモトイを宥める術を持たないまま、血の気が引いていく自分の体を持て余していた。
 頭がぼうっとして、意識を保てない。すみません、と壊れた機械のように繰り返す唇から涎が伝った。
「誰がお前のこと生かしてやってると思ってんの。俺だろ? 俺がお前を今も五体満足で生活させてやってんだろ?」
 呆れたような口調で言うと、モトイが苛立たしげに床を踏み鳴らした。安里は朦朧とする意識を繋ぎ止めるその物音に竦み上がると、背後で骨が軋む音が響いた。顔を歪ませる。モトイはまるで血の通わない玩具を弄ぶように安里の腕を取って、手首をぐらぐらを揺らしている。
「――…ッはい・すみま……せん…っ」
 骨を折ろうと、五指の爪を剥ごうと、安里はモトイの人形でしかないのだから、自由だ。
 そういう脅迫の元に、安里は今日も出向いてしまった。どうしてなのかは、安里自身には判らない。他に、行くべきところもない。
「お前って本当に、変態だな」
 肘が逆の方向へ折れ曲げられる寸前に、モトイが手を離した。ぶらんと垂れ下がった自身の腕が、まるで自分のものではないただの肉塊のように感じる。感覚はないが、腱は伸びきってしまっただろう。安里は、じわじわと自分の体を蝕まれむ暴力に、日々肉体が機能しなくなってきているのを自覚していた。
 それでも、安里はモトイに呼びつけられればこの店まで出向かう。
「なあ、なんで勃ってんの? バッカみてえ」
 額に浮いた脂汗が、安里の鼻先を伝って落ちる。深く項垂れた安里の眼下には、確かに自身が屹立している。
 興奮しているのではない。欲情もしていない。ただ、死の恐怖に晒されているだけだ。だけどモトイはそれを、安里が肉体を痛めつけられて発情する変態だと思っている。そう言って、嘲笑する。
 本当は、安里をこんな目に遭わせて興奮している変態はモトイのほうだ。
「なんか言えよ、クズ」
 背後から、モトイの手が回ってきた。笑い声を含んだモトイの声は低い。茅島の事務所ではこんな低い声を聞いた事がない。きっと、モトイはこんな時にしか本当の自分の声を吐き出せないのだろう。
 柳沼はモトイのこんな声を聞いた事があるのだろうか。
「お前なんかゴミクズだよ、蛾にも蛆にも蟻にも劣る。お前なんて、ゲロ以下だって言ってんの。聞いてんのかよ」
 モトイの指先が、安里の首に絡みついた。的確に安里の喉仏を捉えて容赦なく握り潰そうとしてくる。安里は呻いた。その自身の声ですら、どこか遠くに聞こえる。まるで獣の声だ、と思った。
 モトイの笑い声が耳元でやけに深く響いた。頭の芯が凍ったように冷たくなる。
 背を仰け反らせ、モトイが座ったパイプ椅子の足をガタガタと鳴らしながら白目を剥いた安里が痙攣し始めると、モトイが一瞬息を詰めて、吐精したのを感じた。
 しかしその熱い迸りを背中に感じるのより早く、安里は意識を途絶えさせた。勢いのない精液を床に垂れ流しながら。


「お疲れ様」
 やはり、左腕が持っていかれたようだ。
 いくら擦っても感覚が戻らない左腕を見下ろしながら安里が奥の部屋を出てくると、カウンターの中で根本が苦笑していた。
「部屋は、片付けておきました」
 安里の意識が戻った時にモトイがいないのは、当然のことだ。無料で借りている部屋を綺麗に整えておくことは、いつも安里の仕事だった。肋骨が折れていても、腿が深く斬られていても、安里はそうしてきた。病院に行くのはその後でいい。
「別に良いのに。……ああ、マフラーしてく? 首に、痕ついてるよ」
 根本は眉尻を大きく引き下げながら首を竦めて、カウンターの奥からマフラーを取ってこようかと親指を立てて見せた。
 右手を持ち上げて、首筋に触れる。まだ肌は冷えきったままで、指先に触れた肌は自分のものだという感覚がまだ、ない。
 いや、この体はモトイが言う通り自分のものではないのだから、この感覚が当然なのかもしれない。
 モトイの精液を注ぎ込まれることで動いている、ただの人形であるなら。
「いえ、……お心遣い、感謝します」
 安里は視線を伏せて、根本に礼をした。根本がますます眉を下げてしまう。彼なりに安里を気にかけてくれているのだろう。何も、そうされる筋合いはないのだが。あるとすれば、安里が茅島にとって利用価値のある人間であり、根本が茅島の友人である、それだけのことだ。
「いつか本当に殺されるよ」
 今日もバーは賑わっていたが、騒がしい店内で、安里と根元の会話に注意する客はいない。安里は店内の派手な照明に視線を滑らせると、暫く根本の言葉の意味を思案した。
「――いえ、」
 肩からぶら下がった左腕を、服の上から強く握る。感覚は戻らない。指先を動かそうとしても、思うようにいかない。安里は短く、息を吐いた。
「あの人はいつか、自分から死にに行くような気がする」
 独白のつもりだった。
 しかし根本は短く、声を上げて笑った。根本にカクテルを注文する声が響く。根本は片腕を挙げて、了解、と答えた。
「それは、君がモトイに殺される前に?」
「ええ」
 根本がシェイカーに塊の氷を入れながら、安里を窺うように見遣った。安里は、左手を右手で摘み上げるようにして持ち上げると血の気のない左手を見下ろした。この左手の感触を、モトイは覚えているだろうか。今まで何度となく聞いた安里の断末魔の声を、モトイは覚えているだろうか。
「彼は、いつか死んでしまう気がする」
 ――それは、自分が死ぬことよりも恐ろしい。