BONE EATER

 表には裏がある。
 目に見えているものがあるならば、それは「なにものか」の表面に過ぎないのだから、その裏には別の表情がある。
 それを知らない人間はいない。ただ、多くの人間はそのことを意識しないでいる。裏に回りこむことは危険だと知っている。
 表が綺麗なら、裏に回りこんでまで見たくもないものを見ようとはしないだろうし、興味もないと言う者もいるかもしれない。
 柳沼は、どうしてだか昔から「裏」を見ずにはいられなかった。
 幼い頃から、探究心という類のものではなく、「裏」を見たがる子供だった。
 行き着いた先が、暴力団の構成員。
 裏の社会、だなどとよく言ったものだ。裏から見ればこの世界だって表面に過ぎない。茅島のもとに集っている面子だって、自分が見ている世界を「表」だと思っている。
 裏の裏は表だ。
 本当はどこにも裏なんてものはないのだろう。柳沼の人生なんて、所詮は人の世界を周りをぐるぐると周回しているのに過ぎないのかもしれない。
「あ、……っ」
 酒場を宛もなく歩いている柳沼の姿を見つけた風俗店の従業員が、息を詰めて姿勢を正した。
 気安く挨拶されることを、柳沼は嫌った。茅島が揶揄する通り、柳沼は黙ってさえいればそっちの世界の人間だと気付かれることもないのだ。そう見えるように努めているつもりはない。ただ、どちらの世界にも肩まで浸かりたいとも思っていないだけだ。
「こんばんは、お客さんたくさん入ってますか」
 柳沼は緊張した面持ちの店員に笑いかけると、小首を傾げて見せた。後ろで結んだ髪が肩を滑って、垂れてくる。柳沼がそれを払うよりも早く、額に汗を浮かべた店員が引き攣った笑みを浮かべた。
「はっ、はい……! お陰様で、繁盛させていただいてます!」
「そんなに緊張しなくても」
 柳沼は、カチカチになっている店員の肩を掌で叩いた。
 茅島が相手なら、この店員ももっと砕けていられただろう。それがこの彼の側面だ。茅島を侮っているわけではないだろうが、茅島は人好きのする男だ。 
 だから柳沼は茅島の下につくことを決めたのかもしれない。
 茅島は人の表裏を判っている男だ。柳沼のように観察したがるばかりではなく、人の心理を巧みに操る。彼にしてみたら無意識なのかもしれないが、それは茅島の腕力以上の能力だ。
「頑張って下さい」
 いつまでたっても緊張を解こうとしない店員に言い残すと、柳沼は店の前を離れた。
 柳沼が歓楽街を歩くのは見回り点検以上の理由があった。
 昼間は会社で真面目にネクタイを締めているサラリーマンたちの、羽目を外す表情が見たいからだ。それも一つの、裏の表情。同様に、柳沼は昼間もオフィス街を散策した。
 茅島に初めて会った時、まるで真っ当な会社の面接官のように趣味を問われて、柳沼は迷わず散歩、と答えた。
 茅島はそりゃあ良いと手を叩いて喜び、親父の散歩相手をお前に任せたいと言った。しかしそれはまだ一度も実現したことがなかった。会長が茅島の解任を許さないのだそうだった。
「うわ、」
 色取り取りに輝くネオンの下を柳沼が歩いていると、急に路地裏から出てきた会社員が柳沼にぶつかった。柳沼を見上げると、すまん、と詫びて頭を下げる。
 どうかしたのかと聞く間もなく会社員は顔を顰めて、自分が今飛び出てきた路地を見遣りながらそそくさとその場を後にした。
「……?」
 柳沼はその会社員の後姿を見送って、首を捻った。
 特に何かに怯えている様子でもない。ただ、幾分か酔いの醒めたような表情ではあった。
 柳沼は会社員に衝突された肩を軽く掌で払いながら、彼の飛び出てきた路地裏を覗き込んだ。風俗店と飲み屋が混在しているビルの立ち並ぶ、ごく普通の路地裏だ。細く、人が二人もすれ違うことが出来ないだろう程薄暗いもので、ビルの従業員が出入りするためだけに辛うじて空けられている程度の隙間に、人影があった。
 暗い影は小さく蹲って、身動きしていないように見える。
 死体だろうか。
 それならば、さっきの会社員の様子も理解できる。
 そして、あれが死体だとするならば柳沼は放っておくわけにいかない。ここは茅島のシマだ。殺人事件があったなら無視をしていられない。
 柳沼は通りの左右を確認して、他に走り去っていく人影がないことを確認した。
 犯人が既にこの場を後にしたのであれば、殺害時刻を知ることが先決だ。その前後の聞き込みは、この辺りでなら容易い。軒を連ねている店の従業員は警察に報告するよりも柳沼の方に喜んで口を開くだろう。
 柳沼は、路地に足を踏み入れた。
 ピクリ、と人影が身じろいだような気がした。
「……なんだ、生きているの」
 早合点だった。柳沼は自分の勘違いに苦笑を漏らしながら、暗い路地に目を凝らした。近くに寄ると、その人影は不思議と白く光っているように見えた。
「生きてちゃ悪い?」
 返ってきた声は、弱っていた。「まだ」死体ではないというだけなのだろうか。
 蹲った人影は、細い手足を持て余すように縮めて路地に転がる石にでもなりたがっているように見えた。服は排気ガスや土埃にまみれてほとんど地の色が判らないほど黒く煤けている。しかし、髪は異常なほど白く輝きを放っているようだ。とは言え、これも脱色しているのだということがよく判る。生え際は黒くなっていた。みすぼらしい、少年だった。
「悪いとは言ってないよ。……こんなところで、どうしたの」
 怪我は、と尋ねると、少年の眼が暗がりで光った。
 柳沼が思わず息を呑むような、強い視線だった。いわゆるその辺りで管を巻いているチンピラたちとは違う。
「別に」
 少年はそう言うと、地面に落とした掌で小石を掴んだ。柳沼が意識するより早く、それを投げつけてくる。柳沼は軽く身を傾けて、それを避けた。
 少年が舌打ちする。
 彼が再び力なく落とした手の先を視線で追うと、そこには塵が散らかっていた。身を屈めて、目を凝らす。
 そこに落ちているのは、蛾の羽だった。
 蛾だけじゃない、小さな蟻や、ゴキブリや、ワラジムシなど、虫の死骸がいくつも散らばっていた。どんなに小さな虫も、丁寧に胴体を引き千切られている。
「……ここで、何しているの?」
 柳沼は、頬に笑みが浮かぶのを止められなかった。
 自分が今どんな表情をしているのか判る。
 いつも対外的に浮かべている表面的な笑みなんかじゃない。腹の底から、ふつふつと喜びが沸き上がってくるのを感じる。胸が高鳴る。
「何もしてないよ。……なんなのアンタ、……俺のこと、気持ち悪くないの」
 少年は柳沼の顔を怪訝な表情で見上げると、眉を潜めた。
 気持ち悪いものか。
 柳沼は知らず、胸を抑えていた。意識していないと、大きな声で笑い出してしまいそうだった。
「君、名前は何ていうの」 
 少年に自分の表情は見えているだろうか。見えていても構わない。いや、しかし見えていないだろう。
 柳沼は努めて平静を装った声で尋ねた。
「何で。……いいじゃん、別に。俺のナマエなんて」
 少年は小さく息を吐いて、膝を引き寄せた。背を丸め、顔を伏せてしまう。
 柳沼はその小さな体に、手を差し出した。その指先が震えている。柳沼は、興奮していた。
 きっとこの少年は、自分のものになる。
「ねえ、君。僕と一緒においで」
 膝を抱えた少年の背中が、ピクリと震えた。
 背後の大きな通りで絶え間なく聞こえている人々の歓楽の声が遠ざかっていく。ネオンの明かりが届かない路地で、柳沼は少年の肩にそっと触れた。冷たい体だった。
「こんなところに一人でいたら寂しいだろう? 僕と一緒においで」
 少年が拒んでも、連れて帰るつもりだった。いくらでも教育してやる。
「君は、僕を待っていたんだろう」
 柳沼の言葉に、少年が顔を上げた。ぽかんとするような、無防備な表情で。
 柳沼は少年に笑いかけた。
「……アンタについてったら、メシ食わせてくれる?」
 針金のような細い体を折り曲げるようにして蹲っていた少年が、柳沼を仰いでごくりと喉を鳴らした。柳沼は、大きく肯く。
「何でも食べさせてあげるよ」
 少年が、立てていた膝を解いた。柳沼の触れていた肩を揺らした後、ゆらりと立ち上がる。身長は大きい。少年のように見えていたが、年齢はいかほどのものだろう。そんなことはどうでもいい。この無垢な残酷性を持った彼は、柳沼のものになる。
「……モトイ」
 細い体を屈めるようにして柳沼の顔を見下ろした少年は、ぽつりとそう名乗って、邪気のない笑みを浮かべた。
「そう」
 柳沼も少年に笑いかけると、改めて掌を差し出した。
「よろしくね、モトイ。僕は柳沼だ」
 握手を求められたことがないのか、彼は暫く柳沼の開いた掌を眺めていた。強引にモトイの手を掴んで、握手をする。
「モトイ、この手を離してはいけないよ」
 再びきょとんとしたモトイが、少しの間の後で、慌てて肯く。柳沼は、モトイの汚れた掌を握る手に力を篭めた。
 彼が決して、逃れられないように。