AFTER EFFECT

 いつもながら騒がしい店だ。
 ただでさえも狭いのに、壁際にはダーツを置いて堅気の客も愉しませようなどと欲張るからいけない。
 店内は耳がおかしくなるような音量で音楽が流れていて、大きな声を張り上げないと会話もままならない。
 それでも、足を踏み入れると懐かしい匂いを感じるのは店主のせいだ。
 煩い餓鬼を集めているくせにカウンターに掛けると不思議と落ち着くし、喧しい音楽も他人に聞かれたくない会話にはもってこいと言える。
 茅島は昔から、根本のこういう不気味な器用さがたまらなく鬱陶しくて、嫌いになれなかった。
「大袈裟だねぇ」
 根本は久しぶりに顔を見せた茅島の姿を見るなり、そう言って笑った。肩の包帯を指しているのだろう。
 どうしたの、などと野暮なことは言わない。驚いた素振りも見せなかった。組で何があったのか、全てを知っているような顔つきだ。
 根本は茅島の組の人間に、何があったのか詳しくは聞かなかったという。
 何も聞かずに、地下の個室をこの一週間貸し与えてくれた。
 柳沼を、拘束するために。
「お世話になります」
 茅島の後をついてきた椎葉が硬い表情で頭を下げると、さすがの根本もようやく目を瞠った。後ろ暗いところがある人間は、それを持たない人間の空気が判るものだ。
「こんばんは、……どちら様?」
 根本は茅島と椎葉の姿を交互に見遣ると、落ち着きなく目を瞬かせて尋ねた。
「堂上会長の顧問弁護士をしております、椎葉と申します」
 こんな煩いバーにのみに来たことなどないと見えて、椎葉は大きく声を張ると――それでもカウンターにいる人間以外は椎葉が声を発していることにも気付いていないだろう――胸から名刺を取り出し、根本に差し出した。
 根本は面食らったようにその名刺を受け取ってから、ようやく、事態を無理やり腑に押し込んだように曖昧に頷いた。
「……へぇ、」
 ようやくのことで絞り出したような声が、茅島に向く。
「お前も丸くなったってことなのかね」
 そう言って、根本は椎葉に名刺を掲げて見せるとカウンターの下にしまった。その手で、地下室の鍵を取り出して茅島に手渡す。
 手袋を着けたままの右手に、相変わらず小指の感触はなかった。

「お疲れ様です」
 見張りに当たらせた組員が茅島の姿を見て背筋を伸ばした。
「変わりないか」
 扉の鍵を回しながら茅島が尋ねると、背後の椎葉を訝しんでいた組員が慌てて顎を引いた。
「はい。食事は摂っていないようですが、相変わらず受け答えはしっかりして――……、ただ」
 茅島は錠を解いた戸に手を掛けず、組員の曇った表情を見遣った。
 つい先日まで、茅島の右腕として指揮を振っていた柳沼を監視する役目を与えられて、この組員も戸惑っていることだろう。そう気遣うつもりだった茅島が組員の言い淀んだ言葉の先を促すと、組員は言い難そうに視線を伏せた。
「二時過ぎくらいですか、薬が切れたようで、ひどく暴れ始めて……」
 薬。
 茅島の背後で、椎葉が息を詰めたのを感じた。
 椎葉が捉えられたあの小屋の中で、能城の名前が出たことも、やはり覚醒剤を打たれそうになっていたことも茅島は聞いていた。
 柳沼が同じ状況にあったとしても、不思議はない。
「腕っぷしは自分の方があるので、構わないんですが……」
 そこまで言うと、それ以上組員は語りたがらなかった。
 見ていられなかったのだろう。
 柳沼は実際、よく働いてくれた。茅島と同じようにとは言えないまでも、柳沼なりのやり方で組員を掌握し、うまくやっていたように見えた。
 そうでなければ茅島も柳沼に組のほとんどを任せようとは思わなかったし、柳沼が目的のためにそうしてきたというなら、さすがだとしか言いようがない。
 信頼していた。
 組員も、茅島自身もだ。
「判った」
 茅島は短く答えると、分厚い扉のノブを握った。
 小さく息を吐く。
「先生はお帰り下さい」
 柳沼のところへ行くと言った茅島に、椎葉はどうしてもついて行くと言って聞かなかった。
 茅島の傷を心配してのことか、あるいはこんな目に遭うことになった直接の原因である柳沼に一目会っておきたかったのか、茅島には判りかねた。
 ただ法廷で見せるような強い眼差しは茅島を何と言いくるめてでもついていく意思を表していて、茅島は渋々ここまで連れてくる羽目になってしまった。
 しかしそれも、ここまでだ。
「ここから先はあなたとは別の世界だ。……上で一杯やって待っていてください」
 すぐに済みます、と茅島が椎葉を振り返ると、意外なほど冷たい表情がそこにあった。
 恨みも不安げな表情もない。虚勢でもない、強い表情だった。
「私と茅島さんが別の世界に住んでいるとでも?」
 眼鏡の奥の眸は落ち着いていて、茅島を威圧するようですらある。
 椎葉が弁で相手を押さえつけることを職業にしているのだと、改めて思い知るような言い種だ。
 茅島は苦笑した。
「……参ったな、あなたがいるとやり辛いんです」
「それを承知してここにいるんです」
 椎葉はぴしゃりと手を打つように、眼鏡の表面を光らせて言い放った。
 気圧されている茅島の姿を、組員が面白そうに眺めている。
「あなたが罪を犯すと判っていて、行ってらっしゃいと見送ることはできません」
 ドアノブから手を離して頭を掻いた茅島は、椎葉の言葉にその手を止めた。
 椎葉がここまでついてきたのは、茅島の体を心配してのことでも、恨みを晴らすためでもない。ただ、起こるであろう罪を――あるいは茅島が罪人になることを――制するためだというのか。
 一度詰めた息を、茅島は短く吐き出した。
 緩く首を振る。
「殺しませんよ」
 椎葉の視線が、茅島の表情を覗き込むように仰いだ。まるで愛しい者を見るような目つきではない。色気の欠片もない。
 だからこそ、彼には敵わない。
「殺しません。私があなたに嘘を吐くことはない。私はあなたを、死んでも裏切らない。――約束は必ず、守ります」
 茅島は椎葉に頭を下げると、宣誓を述べるように胸に掌を宛てた。
 こんな些細な約束も守れないようなら、椎葉を二度と傷つけさせることはしないと言ったあの約束だって守れないようになる。
 椎葉を守ることは、茅島の命だと言ってもいい。
 それら全てを語らなくても、椎葉なら判ってくれるだろうと思った。
 それは愛や恋などという甘い感情によるものじゃない。茅島が椎葉の、僕だからだと言ってもいい。


 椎葉の代わりに組員を二人つれて地下室に入ると、柳沼は椅子に深く腰を掛け、項垂れていた。
 両手は後ろに回され、縛られている。暴れた際にそうしたものだろう。できるだけ柳沼に不自由をさせないようにと、茅島は言い伝えてある。
 組員が上司に刃向かうことは重罪だ。
 しかし――おそらく柳沼自身が読んだ通り、茅島は柳沼に罰を与えることを躊躇った。
 柳沼にしてみれば、あの灰谷に殺されずに生きているだけでも儲けものだと思うかもしれない。茅島もそう思う。
 灰谷がもし柳沼を殺していたら、茅島は十文字を叩いたかもしれない。
「今は落ち着いてるのか」
 誰にともなく尋ねた茅島の問いに、傍らの組員が一つ、肯いた。
 柳沼は首を折ったまま、ピクリともしない。茅島が訪ねてきたことも理解していないかも知れない。
「柳沼」
 柳沼の長い髪が胸の前に垂れ、乱れている。
 生彩を欠いたその髪や、見た事もないほど乱雑に着けられた服装を見ても、目の前の柳沼が茅島の知っているそれとは違うことを物語っていた。
「お前を破門する。もう二度と、俺の前に顔を見せるな」
 まるで知らない人形に話しかけているような気分だった。
 いつも茅島が口を開くまでもなく雑用を片付けておいてくれた柳沼の姿も、茅島の下らない雑談に黙って付き合ってくれた柳沼の表情も、ここにはない。
 茅島の言葉を聞いているのかいないのか、柳沼は微動だにしなかった。
「モトイは俺が引き続き預かる」
 しかし、茅島がそう言った瞬間、柳沼が顎先を震わせた。
「……は、」
 掠れた声が、狭い地下室の空気を震わせて、やがて掻き消えた。
 柳沼がゆっくりと、顔を上げる。
 乾いた白い肌に、目だけが爛々と光って見えた。
「モトイは、……僕のものだ」
「そうだな」
 ようやく顔を上げた柳沼に、茅島は双眸を細めた。
 モトイを預かると決めたはいいものの、モトイがそれを受け入れるとも思えない。
「モトイは、僕の言うことしか聞かない」
「知ってるよ」
 柳沼の唇は血の気がなく、乾いていた。さっきまで呼吸をしているかどうかも判然としなかったのに、今は荒い息を往復させている。
 椅子を立ち上がって茅島に体当たりをしてくるのではないかと思うほど、柳沼は急に闘志を露にした。茅島に付き従った組員も、いつでも前に飛び出せるように身構えたのが判った。
「だから、モトイは俺の手元に置くことにした。お前は薬が抜けるまで入院できるように手配した。……能城とも離れた方が良いだろう」
 柳沼が、顔を引き攣らせた。
 そんな風に感情を剥き出しにする柳沼の姿を、茅島は初めて見た。
 安心するのと同時に、寂しい気もあった。今まで柳沼は茅島に、本心を明かしたこともなかったのだと思うと。
 柳沼が頼るなら、能城に傷をつけることくらいは出来たかもしれないのに。
「入院? ふざけるな!」
 柳沼の割れた声が響いた。その声も、厚い扉の向こうには聞こえずに消えていく。柳沼がどれだけ力いっぱい、喉が嗄れるまで叫んでも。
「僕が失敗したと思ってるんだろう! これは僕の失敗じゃない、モトイが下手をうったせいだ!」
 体を捩るようにして声を振り絞った柳沼が、椅子を立ち上がった。
 茅島の隣に控えた組員が、前に出ようとするのを押し止める。柳沼は覚束ない足取りで茅島に向かってくると、噛み付くような表情で声を張り上げた。
「お前さえ死ねば、お前さえ死ねば――……!」
「お前は幸せになれたか?」
 茅島の元に辿り着いた柳沼の細い肩を、茅島は掌で抑えた。
 突進してきたような重みもない。紙のような勢いだった。
 背の高い柳沼が、深く俯いて床を見下ろす。
「僕を憐れんでいるつもりか……!」
 泣いているのかと思うような、か細い声だった。
 茅島は黙って首を振ると、柳沼の体を隣の組員に預けた。
「近い内に見舞いに行くよ。病院を抜け出さないでくれよ、頼むから」
 そう言って踵を返した茅島の姿に、柳沼は顔を上げなかった。
 やはりただ人形のように、その場に腰を下ろしただけだった。