TWICE-LAID

 個人医院と呼ぶにはあまりにも粗末な病院だった。
 自宅を改築しただけのようなその病院で、モトイは目を覚ました。
 息苦しい。胸に手をあてると、脇の下から腰の上まで、硬いギブスで固められていた。
 柳沼は言った。モトイは自分の凶器なのだと。
 だから、他人を傷つけるのにも人を殺すのにも躊躇いを持たないようにしてきた。
 銃弾は潰れてはいけない。剣は折れてはいけない。柳沼に認められるために、モトイは体を鍛えてきたつもりだ。
 生まれ持った長い手足を、柳沼は褒めてくれた。
 リーチの差は他人が努力しても手に入れられない天性のものだ。モトイは柳沼の役に立つために生まれてきたのかもしれないと、モトイは錯覚した。
 だけど負けた。
 どうして負けたのかは判っている。
 躊躇したからだ。
 何が負けなのかは判っている。
 柳沼の目的を果たせなかったことだ。
 そしてここに、生き永らえていることだ。
「――……ッ、」
 モトイはおおよそ病院のものとは思えないベッドの上で身を起こすと、自由にならない上体に表情を歪めた。
 ベッドから足を下ろすと、右足にも包帯が巻かれていた。左手の肘の下にも、両方の掌にも。
 モトイが喧嘩から帰ってきた日、柳沼の機嫌が良ければ傷の手当てをしてくれることもあった。大抵、それは薬が切れる間際ではなく、薬を服用した直後でもない。間の二、三日間の間くらいのものだった。
 どんなに機嫌が良くて優しくしてくれる日でも、柳沼は何度も繰り返し茅島を殺せ茅島を殺せと言い続けた。
 何年間もそう言われ続ける内に、モトイはその言葉を何とも思わなくなっていた。
 耳元を通り過ぎる風のようなものだった。
 茅島を殺さなくてはいけない、それは判っていた。柳沼の邪魔になる人間は殺さなくてはいけない。
 だけど本当に、茅島を殺すことが柳沼の望みだったのか今となっては判らない。
 本当に柳沼が茅島を殺したいと思っていたなら、いくらでも機会はあったはずだ。モトイを使わなくても、椎葉という餌をぶら下げなくても。
 茅島は柳沼を信頼していた。どうとだって出来たはずだ。
 だけど柳沼は動かなかった。能城が動き出すまで。
「あ!」
 ベッドにぼんやりと腰掛けていたモトイの姿を見咎めた看護士――白衣も着けていないが、恐らくそうだろう――が、大きな声をあげて部屋を覗き込んできた。
「駄目ですよ、まだ起きちゃ」
 長い髪を結いもしないで背中に垂らしている。
 その毛先が揺れる様を見ていたくなくて、モトイは看護士を睨みつけた。
 モトイをベッドに押し戻そうと部屋に入ってくる看護士の肩を押しのけ、廊下に出た。
 モトイは誰の指図も受けない。ただ、柳沼のためだけに動くものだ。
 背後で不服を垂れる看護士に見向きもせずに、モトイは病院を出た。外から見ると殆どただの民家でしかない。
 モトイをこの病院につれてきたのが誰なのかも、モトイは知らない。
 菱蔵組の若頭である辻に肋骨を折られたと思った次の瞬間、モトイは意識を混濁させていた。
 有無を言わせない圧迫感のある巨体の影でもがきながら、モトイは悔やんでいた。
 茅島を殺せなかったことも、柳沼を守れなかったことも、自分がこのまま死んでいくだろうことも。
 
 数メートル歩くと、小さな公園があった。
 周囲を木々に囲まれて、園内にはブランコと滑り台だけが設けられている。
 子供の姿もなく、まるで人々に見捨てられたかのように殺風景な公園だった。
 モトイは足を引きずるようにしてその公園に入ると、滑り台の階段に腰を下ろした。
 風でブランコが揺れている。
 生きたいと思ったことはなかった。
 積極的に死にたいと思ったこともなかった。だけど、柳沼に拾われてからは自分の人生を柳沼に捧げることが自分の目的になっていた。
 柳沼が満足しないだろう自分の死に様は晒したくなかった。
 じゃあ、どうするのか。
 今モトイはここにこうして生きている。
 怪我が癒えるのをじっと待って、もう一度茅島を殺しに行くのか。
 それが本当に、柳沼の望みなんだろうか。
 柳沼の望みは一体何なのか。
 モトイは知らない。知らされていない。いつも柳沼は茅島を殺すことしか命じてはくれなかった。
 柳沼が本当に殺したいほど憎いんでいるのは能城のはずなのに、それは見ていれば判るのに、能城を殺せとは一度も言わなかった。
 能城を消せと言われたら、モトイは喜んでその命令を果たせただろう。
 相手が茅島でさえなかったら。
 頭上で小鳥の啼き声がして、モトイは空を仰いだ。まだ明るくて、薄青に塗りつぶされた天上に雲が流れている。
 モトイは、ポケットの携帯電話を取り出した。
 アドレス帳には十数件の電話番号しか登録されていない。どれも、茅島の組の人間の名前ばかりだった。中にはモトイが気紛れに暴力を振るったせいで何度も昏倒させた組員や、柳沼に命じられて何度も一緒に買い物に行った若衆の名前もある。
 いつか茅島を殺すのだから、あの事務所が自分の居場所だと思ったことはなかった。なかったつもりだった。
 だけどあんな風に大勢で会話をしたこともなかったし、誰も、モトイが不気味だと怯えたりはしなかった。
 モトイが虫を殺していても、モトイがどんなに理不尽な暴力を振るっても、誰もモトイを遠巻きに見たりはしなかった。
 モトイに入院するほどの大怪我を負わされた組員ですら、今となってはその傷跡をモトイに見せて笑い種にしている。
 数少ないアドレス帳の一件一件を眺めながら、モトイはそれぞれの顔が脳裏に浮かんでくることに驚いた。
 だけど誰にも、もう連絡をすることはできない。
 携帯電話のボタンを押し下げていくと、柳沼の番号が表示された。
 今、柳沼がどこでどうしているのかさえ、モトイは知らない。知ることも出来ない。
 体内で自分の骨が折れる鈍い音を聞きながら、モトイは柳沼が灰谷に捕らえられたという十文字の声を聞いていた。
 柳沼の携帯電話に発信して、柳沼以外の声が出てくることが怖い。
 柳沼がもし逃げ延びていたとしたって、モトイの連絡を待ち望んでいるとも思えない。
 モトイは柳沼の凶器だった。
 折れて使い物にならなくなった剣は、ただのゴミだ。
「……っ!」
 モトイは下唇を噛んで、携帯電話を握り締めた。
 力いっぱい握り締めたはずの携帯電話が、やけに空虚に感じる。
 誰にも連絡が出来ないこんなものは、ただのガラクタだ。モトイもまた、同じように。
「――!」
 モトイは目の前のブランコの柵をめがけて、携帯電話を振りかぶった。
 その瞬間、掌の中で携帯電話が震えた。
 目を瞠って、恐る恐る携帯電話を降ろす。
 携帯電話はまだ震えている。
 指を一本ずつ、ゆっくりと広げてその液晶画面を覗き込むと、そこにはクエスチョンマークが表示されていた。
 アドレス帳の一番最後、柳沼よりも下に登録した、名も無い相手。
 モトイは携帯電話を開いて、通話ボタンを押した。
『繋がった』
 開口一番、男は言った。
 焦れていたような口調だった。
『――……あの、』
 返す言葉もないモトイに、男は探るように掠れた声を漏らすと再び口を噤んだ。
 通話の向こう側は静かだ。男が今どこにいるのか知らない。
 今まで興味を持ったこともなかった。
『今、……どちらに』
 男は暫く沈黙を続けた後で、窺うように声を潜めた。
 いつも、モトイが男に言う科白だ。
「……わかんない」
 視線を伏せたまま答えると、久しぶりに声を出したせいだろう、ひどく喉に絡んで、ガラガラと震えた。
『判らない?』
 男が声に感情を滲ませた。その表情も、脳裏でおぼろげな映像にしかならない。
「知らない公園。病院に押し込まれてて、さっき、抜け出してきたから」
 再び吹き抜けた風で、ブランコがキィと音をたてた。電話の向こう側にも聞こえているだろうか。
『病院の名前は判りますか?』
 問いかけを重ねる男の声に、モトイは眉根を寄せた。
 こんな男ではなかったように記憶している。
 いつも何かに怯えるように不安げで、どこか厭世的で、風が吹いたら倒れ込んでしまいそうな、そんなイメージのある男だった。
 それが、声こそ静かなものの、まるで身を乗り出すような声でモトイに問いかけてくる。
 モトイは思わず押し黙った。
 すると、男もそれ以上問いを重ねることなく、静かになった。
 沈黙した通話の間に耳を澄ますとノイズだけが聞こえてくる。
 やがてそれに、男の鼻を啜る音が聞こえた。
「……泣いてるの」
 どこか痛むのだろうか。
 あるいは、モトイが傷つけたあの腕が。
『……すみません』
 震える声で、男が詫びた。
 謝る必要はない。男の折れた腕を執拗に痛めつけたのはモトイの方だ。
『あなたが生きていてくれて、本当に良かった……!』
 男はそう言うと、静かにしゃくり上げる声を抑えるように口を塞いだのだろう、雑音が通話を遮って、それきり遠くに嗚咽が聞こえるだけだった。
 モトイは人が泣くことをよく知らない。
 人を死に追いやる時、痛みや恐怖の際で啜り泣く姿しか目にしたことがない。
「腕は痛くないの」
 モトイが尋ねても、男は答えなかった。泣いているばかりで、返事がない。
 俺なんてゴミだよ。
 モトイはそう口に出しかけて、飲み込んだ。
 モトイは柳沼の役に立てず、打ち捨てられたゴミだ。
 だけど男は――茅島に使われているくせに、モトイに気をつけてと送り出して、今、モトイの生存を確認している。
 そして、泣いている。
「あのさ、」
 モトイは耳元の携帯電話を握り直すと、しゃがれた喉を直すように一度唾を飲み込んだ。
「アンタ、名前何ていうの」
 携帯電話に登録しなおさなくてはいけない。
 クエスチョンマークのままでは検索しづらいし、呼びかけることも出来ない。
『――……、安里です』
 男は答えた。
 か細く震えて、鼻にかかっている。だけどしっかりと聞き止めて、モトイは頷いた。
「あ、いたいた」
 その時、公園を覗き込んだ白衣姿の男がモトイを指差すと、さっきの看護士と連れ立って滑り台のモトイに近付いてきた。
「まだ安静にしてなきゃ駄目って言ったでしょー、……あ、言ってないか。安静にしてなさい。今言った」
 モトイが電話中だというのに、髪を茶色に脱色した医者はホラホラとモトイの腕を掴んで引き上げようとする。
 モトイはその腕を振り払おうとして、思い止まった。
 耳元でまだ鼻を啜っている安里の声が、モトイの腰を上げさせた。
「じゃあ、また電話するね」
 モトイはそう告げて、通話を切った。
 医者はふざけた口調でモトイを嗜めると、滑り台から引き摺り下ろして病院へと連れ戻そうとした。
「ねー、この病院何ていうの」
 看護士に背中を押され、腕を医者に引かれながらモトイは民家にしか見えない病院へと素直に従った。
 モトイは誰の指図も受けない。
 でも、もし次に安里から電話がきたら、病院名を教えてあげなくてはいけないだろう。
 居場所を教えてあげるからには、モトイはそこに留まらなくてはいけない。
 きっと安里ならば迎えに来てくれるだろうから。
「金子医院」
 若い医者はモトイを振り返らずに短く答えた。
 どうせまっとうな医者ではないんだろうけど、怪我が治るまでは言うことを聞いてやってもいい。
 この先どうなるかなんて判らないけど、モトイの身に何かあったら、安里が泣くのであれば。