HOG HUG

 耳を澄ませると、街が活発に動き出している気配を感じる。
 耳障りではないが、かすかに電車の走る音や、車が往来する音、会社に向かう人々の息吹。
 柔らかい枕に頭を半分沈めた状態で目蓋を閉じたままそれらの空気を充分に堪能してから、茅島はゆっくりと目を覚ました。
 鼻先のすぐ下には、椎葉の柔らかな髪があった。茅島の胸の上に顔を隠してしまうようにして躰を縮めている。
 昨夜、どうしてもシャワーを浴びたいと懇願する椎葉を浴室へ運んで、擽ったがるのを押さえつけ足先まで丁寧に磨いた。
 茅島が椎葉を自分のものにしたくていやというほど汚した躰を、茅島自身の手でまた綺麗な椎葉に戻してやる。その行為は深い幸福感をもたらすもので、茅島は寝間着を着たがる椎葉をまた裸のまま抱き上げてベッドへと連れ戻した。
 椎葉は茅島の腕の中でまだ深い呼吸を繰り返しながらまどろみの中にいる。シャンプーの香りが漂う髪を指先で撫でても、起きようともしない。
 茅島はゆっくりと椎葉の体から離れると、昨夜脱いだきりのシャツとスラックスを着けて椎葉の私室を出た。
 まだ体のあちらこちらに椎葉の体温が残っているようだ。このまま、また夜が訪れるまで消えなければいいと思う。

 椎葉の躰を抱いたまま強張っていた体の筋を伸ばすように両腕を頭上に突き上げながら、二階の事務所へ続く階段に足を忍ばせた。
 椎葉が自然に起きるまで、起こしてしまうような物音は避けたい。茅島が、この大きななりをしてそんなことに怯えてこそこそとしている姿を誰かに見られたりしようものなら指をさして笑われるに違いない。
「あ」
 事務所まであと二段を残すところとなったところで、一階から上がってきた安里と視線があった。
 安里はちょうど事務所の鍵を開けたところで、手にまだ鞄を提げている。
「――おはようございます」
 まだ伸びをした腕を頭上に掲げたままの茅島を一瞥しても、さすがに安里は顔色一つ変えようとしない。高性能のロボットのようだ。
「おはよう、早いな」
 茅島は小さく首を竦めて腕を下ろすと、まだ首元まで締めていなかったボタンに手をかけた。
 事務所を開けるのは9時からのはずだ。安里の手で点けられた蛍光灯に照らされた壁時計は、8時半を回っている。もしかしたら椎葉を起こしてこなかったことを、後で怒られるかもしれない。
「所長がいらっしゃる前に出勤しなければなりませんから」
 茅島がボタンを留めながら応接セットのソファに向かうと、安里はしれとした口調で答えて、自分の机に鞄を預けるなりまっすぐ書架へと足を向けた。その脇にある給湯セットを用意しようというのだろう。茅島はコーヒー、と短く告げてソファに腰を下ろした。
 安里から返事はない。その代わりに、コーヒーのフィルターを探し出す音が聞こえた。
 安里を椎葉よりも早く出勤させるように命じているのは茅島だ。椎葉の行動は出勤から退社時まで、出来得る限り記録しろと命じてある。安里は理由も聞かずに、首肯した。何を言われても首を縦に振ることしか出来ない人形のように。
 淹れたてのコーヒーが香ってくるまで、茅島はソファの上で体を深く沈め、まどろんでいた。
 つい数分前に離れたばかりの椎葉がもう恋しいように感じる。目蓋を閉じれば椎葉のはにかむ顔も、恥らう表情も容易に思い返すことが出来た。
 椎葉は夜を重ねるたびに新しい顔を見せてくれるように思う。恐らく本人も戸惑っているのだろう。茅島にもよく判る。茅島だって、まさかこんな風に誰かを愛するなんて思ってもいなかった。
「お泊りだったんですか」
 陶器の落ちる音がして、茅島が片目を開くと安里が盆を持って立っていた。短く肯いて、カップに手を伸ばす。
 安里にしてみれば、もうこうなった以上自分の任を解けと言いたいのかも知れない。茅島にそのつもりはなかった。かつての茅島ならば、椎葉を自分のものにさえすれば安里などどうなっても構わないと思っていたが。
「モトイに聞いていないのか? 親父が昨日からドックに入ってる」
 60を過ぎた歳から、二年に一度大袈裟な健康検査を行うようになった。お前もどうだなどと誘われるが、まだ大丈夫そうだ。舎弟を何人も引き連れていく癖に、毎年あの老人だって何の問題もないと言われ続けているのだ。喜ばしい限りだが。
「――……」
 茅島が熱いコーヒーを一口啜った後も、安里はまだ傍らに立ち尽くしていた。
 盆を手に提げ、テーブルの天板に視線を伏せている。相変わらず、何を見ているのか判らない表情だ。安里の目にはこの世の何も見えていないのではないかと思うことが多々ある。
 ガラス球のような目が見つめているのは恐らく、彼岸だ。
「……ました…」
 奈落の底から響いてくるような呟きが、安里の唇を震わせた。
 指先で摘んだカップを落として、茅島が窺うと、安里は茅島を見返していた。
「有難うございました。――……あの人を、生かしてくれて」
 モトイのことか。
 茅島は僅かに目を瞠ると、深く頭を下げた安里の姿を呆然と見た。
 腕を伸ばす。
「お前、……変わったな」
 自分を助けられたことにも礼を言えなかったような男が。
 茅島が伸ばした手を空ろな眼差しで見た安里の顎を掴む。
 相変わらず覇気のない表情をしているくせに、モトイのことはしっかりと見つめているということか。生きていて欲しいと思うほどには。
 茅島は安里の瞳の奥を覗き込むように目を眇めると、掴んだ顎を引き寄せた。
「……、茅島さん」
 安里が呟いた。
 その視線が、脇へ流れる。
 その先には、椎葉が立っていた。
「っ!」
 慌てて安里を離す。離してしまってから、これでは誤解を重ねるだけだと思ったがもう遅い。椎葉は暫く呆然としたように固まらせていた表情を、やがてついと背けると自分のデスクに向かってしまった。
「……っ、先生」
 茅島が弾かれたように腰を上げると、安里は何事もなかったかのように書架の裏へ盆を戻しに向かう。
「安里、席を外せ」
 事務所の扉を指して茅島が告げると、安里が振り向く。
「安里くんはうちの従業員です」
 しかしそれを無効にするように、椎葉が言葉を重ねた。有無を言わさない冷たい声だ。茅島は生まれて初めて自分の身が竦むのを感じた。
「先生、あの――……今はただ、」
 二階から降りてきた椎葉の目からは、安里の顔が茅島のそれに重なっているように見えただろう。盆を手にしたまま身を屈めた安里が茅島に強いられていたようにも見えたかも知れない。
 ついさっきまで椎葉の肌に寄せていた唇を、他人に押し付けることなど有り得る筈がないのに。
「茅島さん、もう事務所に戻られた方が良いのではありませんか」
 音をたてて目の前に判例集を手繰り寄せる椎葉の眼鏡が鋭く煌く。茅島はまるで縋るようにして椎葉の机に向かった。
 背後で安里は、無関心を絵に描いたような顔をして仕事を始めているだろう。あまりみっともないところを見せるのは心外だが、そうも言っていられない。
「いいえ、このままでは帰れません」
 茅島は椎葉の目の前に広げられた書類を覆い隠すように掌をつくと、椎葉の視線を自分に引き上げさせた。
「何かご用でしょうか」
 顔を上げた椎葉が、眼鏡の中央を押し上げる。よく整った、怜悧な表情だ。茅島を突き放すようでもある。
 茅島は、知らず喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「私はあなたに嘘を言ったことはない。信じてもらえますか」
「茅島さん、私的な用件ならばまた別の機会にしてください」
 茅島の掌の下に敷かれた書類を守るように、椎葉が手を払った。茅島を仰いでいた視線を伏せ、眉をぴくりとも動かさない。
 まさか本気で疑っているわけではないだろう。茅島はにべもない椎葉の様子に歯噛みして、机の上を掌で叩きつけた。
「――……!」
 怯えたように、椎葉が顔を仰いだ。
「それでは遅い」
 苛立ったように紡いだ茅島の声は、自分でも呆れるほど震えていた。
 些細な誤解なら、早く解いておくに越したことはない。こんなことで誤解をさせるような関係が問題だ。
「……、」
 椎葉が、深く溜息を吐いた。
 茅島の顔から机上に視線を移し、室内の安里に滑らせる。
「安里くん、印紙を買ってきてもらえる」
 茅島の体を避けるようにして首を伸ばした椎葉に命じられて、安里が短く返事をした。すぐに席を立ち上がった気配がして、事務所の扉が軋み、また閉じた。
 安里が事務所を出て行ってから暫くの間も、椎葉は口を開こうとはしなかった。茅島を見ようともしないし、かと言って仕事の手を進めようともしない。視線を落としたまま、何かを整理するようにずっと口を噤んだままでいる。茅島も言葉が出てこなかった。こんなことで椎葉の誤解を招くことなど考えられない。
「……茅島さんが、」
 やがて、黙ったままの茅島へ業を煮やしたように椎葉が口火を切った。
 ここまま黙っていては、安里も遣いからなかなか帰って来れない。椎葉も今日の業務を始められないからだろう。
「嘘を吐く方だとは思っていません」
 それは違う。茅島は平気で嘘を吐く人間だ。ただ、椎葉には吐かないだけだ。
 しかしそれを言っていては限がないので、茅島は黙って肯いた。
「偽ることと、黙っていることとは別です。……もちろん、私は茅島さんのすべてを聞くことも出来ませんから」
 椎葉がゆっくりと、自分の椅子から腰を上げた。
 確かに茅島は、椎葉に意図して黙っていることがある。安里を使って椎葉を監視していることや、他にもだ。
 茅島は黙って、椎葉が机の前を離れるのを視線で追った。
「黙秘を責めるつもりはありません」
 事務所の床をゆっくりと進んだ椎葉は、茅島の脇を通り、茅島に背を向けた。茅島が振り返っても、今しがた着けたばかりのスーツを折り目正しく伸ばして、背筋を伸ばしたままでいる。
「では、何をそんなに怒っているんです」
 茅島は椎葉の背中に腕を伸ばして、一度躊躇した。椎葉にこの手を弾かれたら自分がどうなってしまうか知れない。
 しかし宙で一度握り締めた手を改めて椎葉の肩に伸ばすと、強引に引き寄せて、自分の胸の中に抱きしめた。
「安里は私が用意した事務員だ。当然、私と何かしらの因縁はある。しかし、それはあなたが思っているようなものじゃない」
 乱暴に抱き寄せた椎葉は、一度茅島の腕の中で身を捩ってから、すぐに大人しくなった。どうせ茅島の腕に敵うことはないと知っているからなのか、それとも。
「私が愛しているのはあなただけだ。あなたさえいれば、他の人間に触れようとも思わない」
 茅島は椎葉の髪の上に唇を押し付けて誓いを立てるように低く囁いた。
 椎葉さえ自分の気持ちに応えてくれるなら、たとえ会えない晩でも椎葉の顔を思い浮かべて一人で過ごせる。飲み屋界隈の女たちにどんなに揶揄されようとも。
「――……せに…」
 茅島の腕に顎を埋めた椎葉が、くぐもった声で呟いた。
 聞き取れないその声に耳を澄まそうと、茅島が腕を緩めようとすると、椎葉がそれを拒むように手を回した。上着でもかき寄せるように茅島の腕を我が物顔で、きつく握り締める。それが茅島の乱暴な腕を指先まで甘く痺れさせることも知らないで。
「触っていたくせに」
 呟き直した椎葉の顔を覗き込むと、拗ねたように眉根を寄せている。茅島はその声に耳を寄せて頬を重ねた。
「私が怒っているのは、茅島さんがよりによってこの事務所内で、私が上にいることを知っているのに、……他人に触れていたことです」
 ぎゅう、と椎葉の手の力が強くなった。まるで縛り付けられるようだ。
 茅島は唇に笑みが漏れるのを堪えながら、椎葉の力に合わせて自分の腕を引き寄せた。息苦しくなっているだろうに、椎葉は少しも身を捩ろうとしない。茅島の腕力が、椎葉の指先一つにさえ敵わないことを知っているはずなのに。
「すみませんでした。あなたの体温がまだ残っている内から彼に触れたことは軽率だった。……素直に謝罪します。それから、他人に触れようと思わないなどと言ったのも、あまりに無責任でした」
 頬を寄せた椎葉の肌の上に唇を向け、つい数時間前までどちらのものともつかない唾液の滴っていた顎先に吸い付く。本当は眼鏡を取り上げてこちらを向かせて、拗ねた声を漏らす可愛い唇を貪ってやりたいところだが、腕を拘束されていればそれも叶わない。
「私がやましい気持ちで触れるのは、あなただけです」
 肌を吸い上げた音を短くたてて離れた唇で茅島が戯れると、思わずといった風に椎葉が吹き出した。茅島の腕の中でくるりと踵を返して、振り返る。抑えきれない笑いに唇を強張らせるその表情は、また見たこともない新しい、椎葉の一面だった。
「茅島さんは下心があって私に触れているんですか」
 問い詰めるような口調も、笑みが零れてしまって様にならない。椎葉はそれを押し隠すように目の前の茅島の胸に顔を伏せると、自ら腰に腕を回してきた。椎葉の背中をきつく抱きとめる。
「ええ、それはもうよこしまで、猥雑で、とてもあなたに見せられたものではない」
 神妙な声を作って茅島が首を振ると、椎葉は背中を震わせて笑いながら、顔を上げた。その目元から、ようやく眼鏡を取り上げる。眼鏡を外した椎葉の顔はもう見慣れたものだ。
「嘘吐き。――そんな茅島さんなら、昨晩もたっぷり見せていただきました」
 眼鏡の弦が入らないように目蓋を閉じた椎葉の唇を、端から啄ばむ。茅島は堪らなくなって椎葉の頭を押さえるように掌を滑らせながら貪るようにキスを求めた。
「まだまだとても、……そんなのは、氷山の一角ですよ」
 冗談じゃない。椎葉の肌に触れるたびに自分がこれほどまでに貪欲だったことを思い知らされる。初めて他人の肌を知ったような気分を、毎晩感じているというのに。
「怖いな、私の身がもつと良いんですが」
 しかし椎葉はそんな茅島の気も知らず笑って唇を受け止めた。
 椎葉の身がもたないと言われても、止められそうにはない。