MOON SICKNESS

おおかみおとこ は まんげつ の ひかり を あびると
ぜんしん を くろい たいもう で おおわれ くるしみ うめき ながら
おおかみ の すがた に へんしん してしまいます。
こんや も つきあかり の よぞら に おおかみおとこ の かなしい とおぼえ が ひびきます。

 シーツの上で身を起こした安里は、自分の体を確認するように腕を曲げては伸ばし、足をまげては伸ばしている。
 行為を終えた自分の体が、どこも痛まないことを不思議に思っているようだった。
 安里の表情はほとんど変わらないからよく判らないけど。
「おはよ」
 モトイがベッドの下から安里を振り返らずに声をかけると、無表情な安里が、それでも僅かに目を瞠ったような気がした。
 振り返らないから判らないけど、振り返らないからこそ、安里の表情がより判りやすいのかもしれない。
「……まだ夜です」
 モトイがまだこの部屋に留まっているとは思わなかったのだろう、安里は驚きを押し隠すように布団を手繰り寄せながら、小さい声で答えた。
 時計はまだ深夜2時を伝えている。
 仕事を終えた安里を呼び出して、安里が暮らしているこのアパートに無理やり押しかけたのが19時。一緒に夕食を摂って、することもなくて体を重ねた。
 モトイが目を覚ますと、窓の外には満月が浮かんでいた。
 雲一つない夜空はペンキでもぶちまけたかのようにのっぺりとした深い紺色で、それをくり貫いたように丸い月が浮かんでいる。
 モトイはそれを、一人でずっと眺めていた。
 ベッドの下で、膝を抱えて。
「俺さ、」
 部屋の静寂を撫でるように、モトイは口を開いた。
 背後で安里は、何も言わない。もしかしたらまた眠ってしまったのかもしれない。
 それでも良いし、その方が良いとも思った。
 満月から視線を伏せる。
「夜が苦手なんだよね」
 日が沈んだら、休むところを探さなくてはいけない、という気持ちがまだ体の隅々に刻み付けられている。
 家を出てから柳沼に拾われるまで、ずっとそんな生活を続けてきたせいだ。
 それに、夜はひどく腹が空いた。朝食よりも昼食よりも、夕食は誰もが幸せそうに見えた。
 柳沼に拾われてからも、柳沼の家で暮らしている限り、夜はモトイにとって心細いものだった。
 今夜は柳沼は帰ってくるだろうか。帰ってきた時、柳沼はどんな風だろうか。憔悴しているのか、暴力的なのか、それとも今夜こそは穏やかに優しくしてくれるだろうか。
 どんな柳沼であっても、モトイにとっては帰ってきてさえくれれば良いと思っていた。
 モトイが一人で過ごす夜は、柳沼もこの夜空のどこかで苦しんでいる。それを知っていたからだ。
 だからモトイは柳沼が帰ってくるまで、眠らずに過ごした。柳沼が帰って来ない夜は長かった。
 もう柳沼は帰って来ない。モトイの待つ家には。
 茅島から立派なマンションの一室を与えられていても、モトイは毎晩休む場所を探しているのと一緒だ。
「昔、柳沼さんに狼男の映画を見せられたことがあってさ」
 倒産したビデオショップから、売り捌けるものはすべて処分したのに、その古ぼけた洋画だけは手元に残ってしまった。
 それを柳沼はモトイに見せてくれた。新月の晩だった。
 今よりも拙いフィルム繋ぎのその映画はモトイには不気味に映って、モトイが怖がっていることを知ると柳沼は珍しく声を上げて笑った。
 それが、薬の効き目によるものだと判っていても、モトイは柳沼が楽しそうにしていたことと、その映画の不気味さだけを覚えている。
「今夜は満月ですね」
 窓から差し込む月の光で出来た影に視線を落としていたモトイに、安里の腕が伸びてきた。
 恐る恐る触れて、髪先を揺らす。モトイは反射的に身構えそうになるのを堪えて、床の上で指先を握り締めた。
 背後から伸ばされた安里の腕も、モトイの体が一瞬でも強張ったことに気付いているのに違いない。だけど、それはするりとモトイの肩に回りこんできた。
 これは、モトイが傷つけなかったから触れてくることが出来る腕だ。
 モトイが殺さなかったからモトイを生かしてくれている茅島と同じ。
「……だけど、あなたは優しかった」
 躊躇うようにゆっくりと、近付いては止まってモトイの反応を窺いながら、安里はモトイの背中に体温を移してきた。
 満月の晩、夜空に吠える狼男の遠吠えは悲しくて、苦しそうに聞こえた。
 他人に虐げられて、恐れられて、孤立していく狼男をモトイは怖いと思った。それを柳沼は薬に浮かされた体で笑った。
 柳沼の耳に、狼男の遠吠えがどんな風に聞こえたのかは知れない。
「うん……」
 モトイは小さく肯くと、緩く首に回された安里の腕を握り締めた。
 今でも夜は怖い。柳沼はやっぱり、この夜の下で一人で苦しんでいることを知っている。こうしてモトイが退院した今でも、柳沼は白い壁に囲まれたまま、薬の禁断症状に喘いでいるだろう。
 モトイが窓を仰ぐと、満月に狼男の遠吠えが聞こえる気がする。
 それは、夜が白むまで耐えることがない幻聴だろう。
「あ」
 安里の腕を掴んだモトイの指先がぴくりと震えると、安里は驚いたように腕を引こうとした。それを引き止めながら、ベッドを振り返る。
 ベッドまで月の光は差していないようだった。身を引いた安里の顔は夜の闇に紛れて、よく見えない。
「アンタの名前」
 モトイは安里の顔がよく見えるように、腰を上げるとベッドの上によじ登った。距離を詰め、安里の鼻先まで顔を寄せる。気圧されたように身を後退させた安里が、怯えたように表情を曇らせているのが見えた。
「朝が入ってる。……ね、アサト。でしょ」
 腕を掴まれたまま上体を引き倒した安里の上にのしかかったモトイがそう言って笑うと、安里は一瞬視線をさまよわせた後で、納得したように肯いた。
 その首筋に唇を埋めると、モトイはこの夜の同行者を確かめるように深く息を吸い込んだ。
 安里の腕がゆっくりと、モトイの背中に滑る。
 あと二時間もすれば月はなりを潜めて、朝日が昇るだろう。またじきに夜が来たとしても、それはもう今夜の月とは違う。