HOMING INSTINCT

「茅島さん、茅島さーん」
 ドアを蹴破るような音とともに――いや実際、蹴破ろうとしていたとしか思えない勢いで茅島の部屋の戸を足蹴にして、モトイが飛び込んできた。
 それを抑える組員が後からついてくる。
 しばらく自宅のベッドに縛り付けられていた期間の間に溜まった仕事と、周囲の組にかけた迷惑をどうにか穏便に処理しなければならないと頭を抱えていた茅島の部屋が、一気に騒がしくなった。
「すみません、すぐに摘み出しますんで」
 屈強な男三人に取り押さえられながら、モトイはそれを気にする様子もなく茅島の机に突進してくる。
 思えば、以前はこうして茅島がモトイと直接対峙したことはなかった。
 いつも間に柳沼を介し、喧嘩慣れした組員が手を焼くモトイの気まぐれな暴走を柳沼は一瞬にして止めた。
 茅島は今まで、モトイという自分の部下についてほとんど何も知らなかったといっていい。
 柳沼がそうなるように手を回していたのだから当たり前だ。
 その茅島が、モトイと初めてしっかりと向き合ったのがあの倉庫での夜だった。
 今まで相手のことを知っているようで知らなかったのはモトイにしてみても同じだっただろう。
 初めて対峙した茅島のことを、モトイがどう思ったのかは知らない。茅島がモトイに対して感じたものとそう違いはないように思える。それは茅島の願望に過ぎないのかもしれないけど。
「いいよ」
 茅島は手の甲を向けて他の組員を押し遣ると、モトイの無作法を許した。
 力づくでどうこうできる相手じゃない。それがモトイと他の組員たちとのコミュニケーションだとしても、正直なところ、この部屋を戯れ合いの血で汚すのは面倒だ。
「ねえねえ茅島さん、今日安里が来る日でしょ」
 茅島の大きな杢製デスクの前にしゃがみこんだモトイは、天板に顎を乗せてぶら下がるように茅島を見上げた。
 きっとモトイにしてみたら一つの癖のようなものなのだろう、そのまるで犬のような格好を、茅島は以前も柳沼の机の前で見たことがある。
「ああ、……そうか。今日は水曜か」
 茅島はモトイの視線を避けるようにして腕に嵌めた時計を見下ろすと、曜日を示す小さな文字に眸を細めた。
 安里を椎葉の観察者としてあの事務所に放り込んだのはもう何年も前だ。
 安里はただの一度も時間と曜日を違えたことがない。たんたんと、精巧な機械のようにこの事務所へ足を運んでこの一週間の椎葉の様子を伝える。
 今となってはそんなことに大した意味がないように思えるが、それを特に止める理由もない。
 おそらく安里自身も、自分の任務に空虚さを感じているかもしれない。安里の持ってくる報告もだいぶ短くなった。それくらい、茅島自身が椎葉と過ごす時間が多くなっている。
 それでも安里はこんな仕事に意味はないからといってこの任を解こうとは思わないだろう。
 いつ萎んでしまうかも判らないくせにどこかに飛んでいこうとする風船のような安里を、ここに繋ぎ止めたのは茅島だ。
 あるいは、今となってはモトイがその紐を握っているのかもしれないが。
「何時に来るの?」
 安里とモトイがそんな関係にあったなどということを知ったのはつい最近だった。正確には、そんな関係がどんな関係なのかを知ることはないが、彼らには彼らなりの繋がりがあるようだ。
 安里という風船を掴んでいるモトイ自身、安里という錘に繋ぎ止められてここにいる風にも見える。
「いつもと同じ。17時半過ぎだろう」
 茅島の視線の先では短針が二の字を指していた。
 今頃安里は、椎葉の治めるあの小さな城で必要以上に口を開かず黙々と仕事をしているに違いない。
 今日の椎葉がどんな風だったか、安里は主観的な感想までは口にしない。以前はそれに焦れたこともあったが、今なら椎葉の様子に関して茅島の方が想像に難くない。
 昨晩椎葉がいやと言うまでベッドで抱きしめて放さなかったせいで、椎葉は珍しく眠気を噛み殺しているのに違いない。
 あるいは職務に心酔している彼のことだから、集中してしまったら眠気も、茅島の甘い囁きさえも忘れ去ってしまっているかもしれないが。
「そっかー。……」
 不意に、モトイが腰を上げた。
 天を刺す針金のような細長い肢体が伸びて、茅島は思わずその顔を仰いだ。
「じゃあ俺、柳沼さんのお見舞いに行ってくる」
 見上げたモトイの表情は気負いがなかった。
 いつも通りのあどけなさが残る表情で、左右の口端を吊り上げては、いいでしょ、と茅島に一応の了解を取った。
 今は自分のボスが茅島だということを理解しているのか――理解したように演じているのか。
 モトイの幼い行動も言動も仕草も、全てが本心からのものでないことは茅島にも判る。
 本当に愚かな人間は自分の主人を持たないし、もしモトイが本当に幼いゆえの凶暴さで茅島を殺しにきたなら、躊躇などするはずがなかった。
 それでもモトイならやってくれると信じていたのだろう。柳沼は。
「お前、どっちが本命なんだ」
 近隣の組の長へと礼状を記した半紙が乾いたのを見計らって、茅島は仕事の手を再開させた。
「何が?」
 薄い尻のポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認したモトイが、大きく首を傾げたのが茅島の視界の端に映った。
 それはしらばっくれているのか、または本当に判らないのか、判らない。
 もし本当に判らないのだとしたら、茅島の質問が判らないのではなく、モトイ自身の答えが判らないということだろう。
 どっちにしろ、答えを聞きだすことは出来なさそうだ。
 茅島は前言を撤回するように「いや、何でもない」と告げるとモトイを追い払うように手の甲を振った。
「行ってきます!」 
 大きな声を響かせて茅島の部屋を出て行くモトイの足取りは軽快だった。
 それでもモトイがこの事務所を自分の巣だと思ってくれていたら、三時間後には帰ってきてくれるだろう。