PARDONER

「千明さん」
 事務所の入り口で驚いた声がして、椎葉は顔を上げた。
 驚いたのはこちらの方だ。
「茅島さん……! もう表に出て、大丈夫なんですか」
 目の前に立った男の身体の脇から覗き込んだ入り口には、茅島がいつも通りの風体で立っていた。スーツの中にはまだ包帯が巻かれているのだろうが、微塵もそんなことを感じさせない立ち姿だ。
 椎葉を尋ねた厳つい顔の男も、茅島の声に身を捻って振り返っていた。
「騒がせてくれるな、茅島」
 ほとんど暴力団関係者と見分けがつかない――灰谷や柳沼などの方がよっぽど堅気に見える――顔つきの男は、茅島の顔を見るなり重苦しい、呆れた声音で答えた。
 暴対課の刑事なんて皆こんなものだ。茅島と並べてみても、千明と呼ばれたこの男の方が腕力がありそうに見える。
「ご迷惑おかけします」
 どこも変わっていないように見えて、茅島が一歩足を踏み出すとその足取りはまだどこか覚束ない。つい二日前まではベッドの上から動けないでいたのだから、無理もない。
「すみません、待たせて貰って構いませんか」
 茅島は片足を引きずるように室内に入ると、手を貸そうとする安里に小さく顎を引いて固辞した。
 千明との会話を聞かれて困るようなことは何もない。全て、柳沼が起こした事件のことについてばかりだ。茅島も充分承知している内容でしかない。
 椎葉が黙って頷くと、茅島は先日まで宇佐美が掛けていたデスクの椅子を引いて、重い腰を下ろした。
「こっちの話はあらかた終わったところだよ。――すみませんね、先生。何度も同じ話を伺うようで」
 千明はにこりともせずに詫びると、掌に広げていた手帳を閉じた。
 結局柳沼の行方は知れず――世界中でそれを知っているのは、茅島と十文字くらいのものだろう。椎葉もそれは知らされていない――能城の関与も、明確にすることは出来なかった。
 椎葉は沈む気持ちを押し隠すように頭を下げると、千明を送り出すべくデスクを立ち上がる。それを制するように遮ったのは、茅島だった。
「千明さんにも聞いていただきたいんですが」
 宇佐美の回転椅子に掛けたまま茅島が声を上げると、千明は体を反転させて椎葉に背中を向けた。千明が脇に避けてくれたおかげで、椎葉が体を傾けることなく、茅島の顔を拝むことが出来る。
 二日前に見た時よりも顔色は良くなっているようだ。
 事務所を再開させなければいけない都合で椎葉は自分の家に戻ってきてしまったが、この調子だと茅島も自分の組に戻っているのかもしれない。無理をしないで欲しいという旨は伝えてあるはずだが、仕方のないことだ。
 実質執務を行っていた柳沼が不在となって、茅島も自宅に控えているとなれば収拾がつかなくなることも有り得る。小さな組など、長の顔一枚で成り立っているといっても過言ではないのだから。
 安里は茅島の前に――宇佐美の机にお茶を出すと、正面の自分のデスクに着いた。
 腕はすっかり良くなったようだ。茅島と千明との会話など、自分には関係ないとでもいうように静かな面持ちをしている。
 茅島が再び口を開く前に、一瞬椎葉に目配せをしたような気がした。
「モトイはうちの組で引き続き預かろうと思っています」
 意図を計りかねた椎葉も、茅島が重い口振りで告げると、思わず息を詰めた。
 無関心に仕事の手を再開した安里が、弾かれたように顔を上げる。微動だにしなかったのは、千明だけだった。
「――柳沼じゃないと扱いきれないんじゃなかったのか、あのガキは」
 絞り出すような渋い声で言って、千明はようやく首を緩く振った。
 回転椅子の背凭れを軋ませた茅島が眉を眇め、肩で息を吐く。
「すみませんね、うちは過保護で」
 含みのある戯れた口調だった。
 柳沼の居場所を黙っていることは、千明をはじめとする警察も承知しているのだろう。少なくとも薬物摂取の疑いで引っ張ることは出来るのに、それを匿っていると捉えられても仕方がない。
 実際、茅島がしていることは破門したはずの柳沼を守る行為だった。
 その結論に、椎葉は口を噤んだ。どれだけ茅島が柳沼を信頼していたか知っている。裏切られた茅島自身がそう決めたのだから、椎葉には何も言えなかった。
 しかし、モトイという青年のこととなると話は別だ。
 茅島もそれは充分に理解してくれているのだろう。だから椎葉に、目配せをした。事前に、詫びるように。
「手元に置いておけば、またいつ寝首を掻かれるかも判らんぞ」
 千明の視線の先で、茅島が口端を上げて不敵に笑った。
「寝首? 冗談でしょう、ただじゃれあってただけですよ」
 椎葉の先の二人の間に言い様のない緊迫感が満ちているのが判る。
 モトイに殺意があって茅島を襲い掛かったのだとあっては、それは立派な殺人未遂になる。しかし同じ組内での出来事だ。茅島が何でもないと言い張れば、暴対課はそれでも切り込んでいくわけにもいかない。もともと灰色な部分の多い部署だ。
「……、――」
 千明が無言で、椎葉を振り返る。椎葉は押し黙って、膝の上の拳を握り締めた。
 茅島とモトイの間にあった出来事は組内での揉め事に過ぎない。しかしそこに部外者である椎葉が巻き込まれたこともまた事実だ。
 椎葉が監禁と傷害の被害を訴えれば、モトイはそれを足がかりにさまざまな罪に問われることになる。
 千明も茅島も、椎葉に結論を促そうとはしない。無言の圧力が、椎葉の肩にのしかかってきた。
 あの時、椎葉は確かにモトイを憎んだ。
 初めて、目の前の人間を殺してやりたいと望んだ。できる限り彼の苦しむ方法で、彼の人権の全てを奪い去って苦しめてやりたいと思った。それほど、苦しかった。
 でもそれは椎葉を陥れたからじゃない。
 茅島を傷つける存在だったからだ。
 肉体的にも精神的にも、茅島は傷ついていた。それを目の当たりにさせられて、椎葉はどす黒い感情に苛まれた。
 許せないと、今でも思う。
 茅島に苦しみを与えた彼のことを、椎葉はいまだに憎み続けている。
「――……構いません」 
 知らず、椎葉は視線を伏せていた。
 茅島を助けたいと思ったのも個人的な感情に過ぎなければ、モトイを憎く思い続けているのもまた、個人的なものだ。茅島を愛すればこそ、彼を傷つけたものを許し難いと思う。
 しかし、堂上会の顧問弁護士としてはそれを無罪放免にすることが務めだ。
 たとえ自分が、より酷い目に遭っていたとしても。
「判りました」
 千明は一つ溜息を吐くと、短く刈った頭の天辺を掌でざらりと撫でて深く頷いた。
「先生がそう仰るならうちは手を出せません。まあ居場所が判りやすくなるだけ楽ですが」
 まるで負け惜しみのように一言付け加えて、千明はそれじゃ、と椎葉の机を離れた。
 事の成り行きを眺めていた安里が席を立って、事務所の扉を開く。
 千明が扉を出て行く直前、安里が僅かに表情を変えた。その背中を見送った椎葉の目には、それは泣き出すかのような顔に見えた。
「……もう怪我は」
 千明の低い声が、くぐもって聞こえた。唇をほとんど動かさない独特な喋り方だ。
 安里は黙って首を振った。
 知らないことの多い安里という青年が、過去に千明と何らかの面識があったのだろうことは容易に推測できる。椎葉はそれを見なかったことにするように視線を逸らすと、茅島に移した。
 茅島も席を立ち上がり、帰ろうとしていた。
「先生、……すみませんでした。気分を悪くされたでしょう」
 机に縋るように手をついて立ち上がった茅島のもとに、椎葉は自然と駆け寄っていた。
「いいえ、――茅島さんがお決めになることです」
 それでも、椎葉は茅島の視線を見返すことが出来ずに顔を伏せながら肩を貸した。
 許す他ないと判っていても、モトイを恨めしく思う気持ちが澱みのように燻っている。その醜さを、茅島に悟られたくなかった。
「これも一つの落とし前でね、――あれを教育しなおさなければいけないのは、私の責任ですから」
 椎葉の肩に腕を回した茅島の声は、沈んでいた。
「承知しています」
 そう答えるしかない。
 茅島が今無事で、こうして椎葉の傍で息衝いているのだ。それだけで良しと思わなければならない。
 茅島の怪我が完全に治るまでには、椎葉も気持ちの切り替えが出来ているだろう。そうでなければならない。
「あの宇宙人を手懐けるのは骨が折れそうですが――まあ、本当に骨を折られないように、祈っていてください」
 冗談で言ったつもりなのだろう、茅島は椎葉の肩の上で胸を震わせて笑ったが、椎葉が俯いたままでいるとすぐにそれを止めた。
 千明の言った通り、モトイがいつまた機会を狙って茅島の命を獲りに来るかなんて判らない。
 今夜かもしれないし、数時間後かも、半年後かもしれない。椎葉の知らないところで茅島が傷つけられるようなことがあれば、椎葉は今日の決断を悔やんでも悔やみきれないに違いない。
「……大丈夫ですよ」
 茅島の掌が、ぐっと椎葉の肩を引き寄せた。
 頭上が不意に暖かくなった気がして椎葉が顔を上げようとすると、茅島が椎葉の髪に唇を落としていた。
「私は生きてここにいる。あいつがその気になれば、私はあの時、確実に殺されていたでしょう。だけどそうはならなかった」
 茅島が口付けたと思ったのは一瞬だった。すぐに離れてしまった茅島の唇を仰いだ椎葉の視線に、茅島の静かで強い眼差しが絡みついた。
「それはつまり、あいつに私を殺すことは出来ないってことです」
 椎葉の背中がぞくりと震え上がるような、落ち着いた表情だった。
 信頼に足るという言葉で表現しきれるものではない威圧感と、豪傑さ。椎葉の不安も恐怖感も飲み込んでしまうような力強さに圧倒されて、椎葉は言葉を失った。
 茅島は柳沼の処分を決めるあの地下室に入る前に、椎葉を世界の違いという理由で突っぱねようとした。
 椎葉と茅島は違う世界に住む異人同士ではない。
 咄嗟に屁理屈を捏ねて返したが、こうして目の当たりにすると、茅島の覚悟めいた決断も、生死の境目を見極める裁断も、椎葉の持っているそれとは全く違う。
 自分の肩をしっかりと抱いている茅島の存在がひどく遠く感じて、椎葉は唇を噛んだ。
 自分が茅島の世界に口を出すことなど、愚かなことだ。何も知らない青二才がいくら喚いたって、茅島を呆れさせるだけだ。
「あなたをあの場に巻き込んだことは、どんなに詫びようと思ってもしきれるものではありません」
 椎葉を拉致し、傷つけようとした雑員たちはそれぞれ警察に引き渡したが、彼らは地方から呼ばれたごろつきの集まりに過ぎず、能城の雇った正式な組員ではなかった。
 警察に提出した構成員の中に名前がなく、彼らがどんなに能城の名前を口にしても能城が知らないとしらを切れば、それ以上の追求はされなかった。
 柳沼を放免し、モトイを手元に残した茅島にとって、能城に対する思惑はそれなりにあるのだろう。それを椎葉に語ることはないとしても。
「――しかしあなたがあの場にいてくれたから、私は今ここにこうしていられるように思います」
 気持ちを塞がせた椎葉の耳元で、茅島は低く、掠れた声でありがとうございますと付け足した。
 驚いた椎葉が顔を上げると、茅島が双眸を細めた。
「昨日モトイと話をしました。あの場に私が一人だったら、モトイも躊躇しなかったかもしれない。あなたが助けてくれたから、私は死なずに済んだ。――またこうして、あなたの傍にいられるんだと、そう、思います」
「そんな筈は――……! だって、あの時」
 椎葉は首を振って、強く否定した。
 茅島を助けることなど出来なかった。それどころか、茅島を危険な目に遭わせるための足を引っ張ったのは椎葉自身の軽率な行動だったというのに。
 茅島は目を伏せて小さく笑うと、一方の手で椎葉の髪の上をさらりと撫でた。椎葉の否定を黙らせるように、茅島の指先は椎葉の頬を伝って、落ちていく。
「私を救ってくれただけじゃない、モトイに私を殺させずに済ませてくれたことにも、感謝しています」
 そう言って、茅島は椎葉の肩から身を僅かに引くと、頭を下げた。まだ痛むだろう腰を折り、深々と何秒間も。
「茅島さん、……そんなことは……!」
 椎葉は慌てて、その肩に手を添えて身を起こさせた。自分が何をしたというのだ。しかし茅島は、それ以上何を語ろうともしなかった。
 頭が混乱している。椎葉は鼻の上の眼鏡を支え直す振りをして顔を掌で覆うと、もう一度首を振った。
「――私は茅島さんがいてくれさえすればいいと、申し上げたはずです」
 それ以上、感謝が欲しいのでも、謝罪が欲しいのでもない。
 そんなことは茅島だって判っているはずだ。モトイを許すも許さないもない。茅島が無事でいてくれるなら、椎葉はそれ以上何も望まない。
 しかし。
「……茅島さんは、狡いです」
 ただ一言だけ、恨みごとを漏らした。
 頭を上げた茅島は椎葉の拗ねたようなその呟きを聞き止めると一瞬目を瞬かせた後、相好を崩して破顔した。