荒野の野良犬(1)

 白い。
 目の前が霞がかっているかのように感じる。
 病院が白いイメージだなんて、昔は思わなかった。友人に大学病院の学長の息子がいて、病院は遊び場の一つでもあった。
 どうして今はこんなに白く感じるのか、判らない。
 人の話し声が遠い。
 ここがどこの病院なのか判らないが、窓の外を見る限りきっと都心からそう遠く離れてはいないのだろう。
 窓を開ければ、きっと往来を過ぎていく車の音も聞こえるはずだ。薄いカーテンの向こうにある扉を開けば、廊下に流れる院内アナウンスも。
 テレビでは数日前から政治家の汚職事件だの、渦中の代議士が緊急入院だのと繰り返し報道している。
 しかし柳沼の耳には、そのどれもが遠く感じた。
 ベッドサイドの冷蔵庫の上にカレンダーがある。
 三日間眠れない日が続いたかと思えば、一度眠り始めると目を覚まさなくなる柳沼が、時間の経過を知りたくて看護婦に頼んだものだ。
 最初のうちは丁寧に日付の上へ印をつけていたものだが、ある朝両手が拘束されてペンが持てなくなった時からそれも諦めた。
 拘束される理由も判っている。
 目が覚めたら自分が血まみれだったこともあるし、どうしようもない恐怖に駆られて病室を飛び出したこともある。いくら正気でも、だからこそ自分の首を絞めたことだってあるし、嵌め込み式の窓ガラスを割ってその下に身を投げようと考えたことも。
 そのたびに柳沼は安定剤を処方されて、意識を混濁させたまま冷蔵庫の上のカレンダーを眺めていた。
 あれからいったい、どれくらいの時間が経ったのだろう。
 そう考えた瞬間、「あれ」がいったいいつのことを指しているのか判らなくなる。いつからの経過を知りたがっているのか、自分は何をどう間違って今ここにこうしているのか、どうしていれば正解だったのか、どこまで遡れば自分が幸せだった頃の思い出に浸ることができるのか。生まれた頃か。名門と冠のついた金持ちの馬鹿ばかり押し込まれた小学校で退屈を持て余していた時か。高校か、大学か、それとも――
 茅島の事務所で過ごしていた頃なのか。
 モトイを初めて見つけた日の夜か。モトイが初めて人を殺した日か。茅島が自分に油断をした日か。茅島が椎葉に腑抜けにされていると確証を得た日か。あるいは、灰谷が自分を殺しにきてくれた日か。
 あの時、柳沼は確かに死んだ。
 それまでの柳沼はもういない。
 あれきりモトイがこの病室に来ないのも、それを理解したからかもしれない。
 いや、モトイが見えない首輪を自慢するようにここへやって来たのは、今日のことだったか。それとも一ヶ月ほども前のことだっただろうか。
 何かを思い出そうとしても、何もかも手応えのない渦の中に溶け込んで、眩暈ばかりする。
 そのくせ眠っていれば昔の夢ばかり見た。
 埃臭い茅島の事務所を、今年こそは大掃除してやろうと思っていた。前にしたのは三年前のことだった。モトイが賞味期限が五年も前に切れたキムチを見つけ出してきて、それを誰が味見するかで一時間半もゲームに費やした。
 どうでもいいようなことばかり仔細に覚えているのも、薬の副作用なのか。
 柳沼は吐き気を覚えて横臥した。
 内臓という内臓がゆっくりと裏返しにされていくようだ。ぬめるように光る、赤い毛細血管を露にしながら誰かの手で押し上げられていく。
「――……っ!」
 不意に、胃液が込み上げてきて柳沼はベッドの下へ首を伸ばした。
 食道が焼け付く。どんなに背中を波打たせても、出てくるのは半分以上消化された夕食の一部だけだ。
 この容態がいつまで続くのかわからない。
 それでも、搬送されてきた当時に比べたらずっと良くはなってきているのだろう。
 食事も摂らず、薬が切れた状態で何日も地下室に閉じ込められていた柳沼は錯乱して、病院に運ばれてきた時、自分の名前も判らなかった。誰が柳沼をここまで運んできたのかも覚えていない。部下の誰かだったのか、茅島だったのか。
 ただ一つだけ覚えているのは、意識レベルを確認する看護婦の声に柳沼は他人の名前を答えていた。
 目の前を趣味の悪い走馬灯のように歪んで流れていく、たくさんの蔑みの表情、卑しめる視線、嘲笑、暴力。頭が破裂しそうなほど大量に流れ込んでくる他人の悪意の中に、その名前だけが浮かんできて、柳沼は看護婦に名乗っていた。
 縋るように。