荒野の野良犬(2)

 薄汚れた灰色のデスクの上に、真っ白いA4サイズの紙が一枚、広げられていた。
 そこには柳沼の名前が記されていたが、なぜだか教師はそれを自分の誇りのように乾いた掌で撫で、機械で印字された点数の上をなぞった。
「全国模試でこの点数なら、まあ安泰だろうな」
 東大理Ⅲなんて言い出さない限りは、と笑う教師の声は職員室中に響き渡るほど大きい。その教師の前に立っている柳沼が恥ずかしくなるほどだった。
 つまるところ、自分のクラスからエリートが輩出されるというのを、この担任教師が他の職員に自慢するために柳沼は職員室まで呼び出されたのだろう。それ以外に意味はない。全国模試の結果なんてクラスで渡すだけで済むようなことだ。
「理Ⅲでも充分狙えますよ」
 痩せぎすの担任教師を喜ばせる義理など何もないけれど、柳沼は彼の笑い声を遮るように付け足すと、職員室の壁にかけられたカレンダーを指した。
「あと半年もありますからね」
 自慢たらしい教師の笑い声に顔を顰めていた他の職員が、柳沼の顔を窺い見るのが判った。
 全国的にも有名なこの進学校でも、東京理Ⅲに駒を進めた卒業生は過去に三人ほどしかいない。栄光ある先輩諸氏はその後立派に政治家や官僚への道を辿り、うちの一人は去年汚職事件が発覚して自殺した。
 柳沼は、笑うことを忘れて目を瞠った担任教師の顔を見下ろして双眸を細めると、机上のテスト結果を摘み上げた。
「次回の模試で証明すれば良いですか? 生憎ですが僕は文系なので、文Ⅰ志望なんですが」
 指先にテスト結果を閃かせながら、そう言って柳沼は微笑んだ。
 二の句を忘れたように血色の悪い唇をぱくつかせた担任教師が、はっとしたように目を瞬かせて、曖昧に肯く。
「あ、あぁ……そうだったな。東大は東大でも、柳沼は文系だったか」
 わざとらしく咳をした担任教師に首を竦めて見せながら、柳沼は制服のポケットへテスト結果を無造作に突っ込んだ。
 もう他に用はないか、と尋ねようと柳沼が口を開いた瞬間、空になったデスクに顔を向けた担任教師が鼻の上の眼鏡を押し上げながら視線を伏せて、二の句を繋いだ。
「最近、良からぬ連中と一緒にいる姿を見たっていう噂があったが、心配ないようだな」
 さっきまでの自慢げな姿はどこへやら、声を潜め、視線を柳沼に向けようともしない。どことなくおどおどとして、口篭っているようだった。
「僕が、ですか?」
 良からぬ連中と?
 ポケットから抜き出した手で自分の顎先を指して柳沼が目を瞬かせると、担任教師は回転椅子の足を鳴らして勢いよく振り返りながら、慌てて掌を振った。
「ああ、いや。ただの噂だ。まさか柳沼に限ってな」
 その仕種が可笑しくて、柳沼は思わず口元を掌で押さえながら吹き出した。
 そんなに気を使うくらいなら、言わなければいいのに。本当の用事は自慢じゃなくて、こっちの「噂」のことだったのだろうか。それにしたって、追求にもなってない。
「ええ、まさか」
 声を漏らして笑った柳沼の様子に合わせて、担任教師もぎこちない笑い声を漏らして肩を揺らした。
「僕は天才ではありませんから、寸暇を惜しんでやっとこの成績ですよ。良からぬ連中も何も、遊びにかまけている時間なんて少しもありません」
 吹き出してしまったことを詫びながら柳沼が告げると、目に見えて担任教師の緊張が解けていくのが判った。
 いつしか、職員室全体が柳沼の返答に耳を傾けていたようだ。こちらに視線を向けていない教頭までもが、安堵の息を吐いたようだった。
 誰も、真実なんてどうだって良いと思っているくせに。
 どうせ先日自殺した議員の件があるから、厄介ごとを起こしてくれるなよと思っているに過ぎないのだ。
 些細なことなら、成績さえ良ければ許される。
 おおかた、柳沼の口から大丈夫ですよと言って欲しかっただけなんだろう。大の大人が、雁首揃えて十八の子供に何を期待するんだ。
「では、僕はそろそろ」
「ああ、引き止めて悪かったな。あんまり根を詰めるなよ」
 気をつけて、と手を振った担任教師に一礼すると柳沼は職員室中の視線を背中に感じながら部屋を出た。
 心配しなくても、自分はあんなへまをしないさ。だけどそれはこの学校の看板を守るためではない。ただ純粋に、自分のためだ。その結果として彼らの食い扶持を守ることになるのだとしても。
「宇佐美」
 職員室を出ると、すぐ目の前の廊下には宇佐美が立っていた。
 ジャケットを羽織らず、学校で容認される程度の控えめなデザインのセーターをワイシャツの上に着ている姿は、彼を細身に見せていた。赤く染まりかけた太陽をバックに窓桟へ凭れ、左手の腕時計に視線を伏せている。
 待ちくたびれた、とでも言いた気な仕種だ。
「なんだ、待ってたの」
 約束をしたつもりもない。いささか驚いて声を上げると、ようやく宇佐美は人当たりのいい顔を上げて、教室から持ってきたのだろう柳沼の鞄を掲げて見せた。