DOUBLE BIND(2)

 指先が震えている。
 クリーム色をしたリノリウムの床を、足を引きずるようにしてしばらく進んだ後で、モトイはベンチに沈み込んだ。
 胸が詰まって、眩暈がする。
 何も考えられなくて、ただ自分の呼吸の荒さだけが判った。
 生まれて初めて感じる、喪失感だった。
 モトイは最初から何も持っていない子供だった。両親を失ったことはもう覚えてないくらい遠い昔で、物心ついた時には目の前に広がる世界から拒絶されていた。
 何も自分のものではない。
 安心も保証も何もなかった。いつもなかった。
 だけど柳沼に拾われてからは、柳沼がここに居て良いと言った。柳沼の目的のためにモトイが必要だと言った。
 食事に困ることがなくなった。夜が暖かかった。帰る場所があった。守る人がいた。
 初めて手に入れた生活を、初めて失った。
 心臓がバクバクと脈打って、苦しい。
 だけどきっと柳沼の苦しみはこんなものじゃなかったんだろう。
 モトイじゃ柳沼の安心する場所にはなれなかったんだろう。頑張ったけど、駄目だったんだろう。だから、一緒にはいられなくなった。
 判ってるけど、判っているから、苦しい。
 モトイは柳沼を助けられなかった。
 モトイは柳沼に助けてもらったのに。
「――……あの、」
 汗ばんだ指先がどんどん冷えていく。血液がうまく循環していないのかもしれない。ベンチに深く腰掛けたまま、じっと掌を見下ろしていたモトイの視界に、革靴のつま先が飛び込んできた。
 訝し気なその呟き声に視線を上げると、そこには安里がいた。
「……ビックリした」
 手には大きな茶封筒を携えて、いつものようにどこか気後れしたような表情で立っている。
 モトイが強張った唇の隙間から呟くと、安里も小さく肯いた。
「……こっちも、驚きました。……あの、茅島さんから、お使いを頼まれて」
 退院手続きの書類を、と安里がもたついた仕草で茶封筒を掲げた。
 安里が茅島の送り込んだ事務員だということはモトイも知っている。組長を嵌めようとした元組員の退院手続きに茅英組の人間を使うわけにもいかなくて、安里を寄越したのかもしれない。
 でも、それならモトイに持たせれば良かったのに。コーヒー豆のお使いなんかじゃなくて。
「どうか、しましたか」
 呆けたように仰いでいたモトイの様子を窺うように、安里が首を傾けた。
 茅島を聡い男だと思ったことはあまりない。柳沼を傍で見てきたせいだろう。でも、人情に篤い男だということは知っている。
 もしかしたらモトイを今日病院に行かせたのもあの男のことを知らせるつもりで、そのフォローが、安里を使いにすることだったのだろうか。
 だとしたら、茅島の思い通りだ。何もかも。
「――……別に、どうもしないけど」
 モトイは膝の上に肘をついた体勢を起こすと、大きく息を吐いて後ろ手をついた。天井を仰ぐ。安里は目を瞬かせて事情を飲み込めないままでいるようだ。
 さっきまで喉に詰まっていた大きなしこりが、熱くなって溶けて、なんだか鼻の奥がつんとする。モトイはそれを吐き出すように唇を開いた。
「俺さ、柳沼さんの命令を聞かないで逃げてきちゃった」
 安里が驚いたように小さく息を呑んだのが判った。
 柳沼が聞いて欲しいという話を、聞かずに飛び出してきてしまった。
 自分はただ柳沼に飼われているだけの人殺しでしかなくて、わがままを言っていいような立場じゃないのに、まるで駄々を捏ねるように耳を塞いで逃げ出した。
 ますます、役立たずだ。
 でももういい。柳沼は二度とモトイを自分の元に手繰り寄せるようなことはしないだろうから。役立たずだけど、もう迷惑をかけることもないだろう。
「――……、」
 モトイの腰掛けた硬いベンチの足が、僅かに軋んだ。
 細く深く、長く息を吐き出したモトイが隣を窺う間もなく安里の細い腕が回ってきた。柳沼がいつも気紛れに撫でてくれたぼさぼさの白い髪を、安里が自分の肩に押し付けるように抱く。
「あさ、……」
 驚いて顔を上げようとすると、安里の腕は思いがけず強かった。
 それに、安里、と告げようとしたモトイの声はひどく震えて、鼻声だった。
 安里の腕も震えている。モトイの心に共鳴するように。
 モトイは息をしゃくりあげた。安里の着けたシャツを掴んで、しばらくそのままでいた。声をあげることもなく、ただ、傷が癒えるのを待つ獣のように蹲って。