DOUBLE BIND(3)

「――だから僕は、モトイに感謝しているし、こんな終わり方だったけど、今はこれで良かったと思ってるよ」
 柳沼の退院当日。空は高く晴れ上がり、陽気の良い休日になった。
 きっと病院のお荷物だったのだろう柳沼は医師や看護士に世話されることもなく、淡々と退院準備を進めていた。
 とはいえ、身一つで放り込まれた入院だ。大して運び出すものもないだろう――とたかをくくっていたら、どうやらあの小野塚という男がいろいろと柳沼の身の回りの物を揃えていたお陰で大袈裟な退院となった。
「渡世人としては、落とし前の付け方っていうこともおいおい考えていかなきゃいけないんだろうってことは判ってる。あの人は、――茅島さんはそういうことを、望まないかもしれないけどね」
 モトイと膝をつき合わせた柳沼の顔色は、今日も良いようだ。
 薬のせいで乾きがちだった青白い肌も、どこかふっくらとしているように見える。そんな急激によくなることはないのかも知れないけど、モトイにはそう見えた。
「僕一人の問題ではないんだけど、僕だけの話をさせてもらうと――……とにかくもう、やっと、終わったんだっていう気持ちなんだ」
 視線を伏せて語る柳沼の言葉は、まるで独白のようだ。
 長い暗い、終わりの見えないトンネルの出口を見つけた柳沼は泣き出しそうな、微笑んでいるような表情で呟くように独白を続けている。
「一番どん底の時期に、モトイが傍にいてくれたことは救いだったと思う」
 モトイは、柳沼の言葉を聞いているだけで精一杯だった。首輪を外された首はかえって強張ってしまって、首を縦に振って相槌を打つこともままならない。
「――僕は、モトイに甘えていたんだよ」
 そう言って、柳沼は顔を上げると苦笑を洩らした。
 望むことも叶わなかった柳沼の素直な表情を、こんな風に向けられるとは思わなかった。
「モトイが僕を頼っていたんじゃないよ。僕が、モトイを頼っていたんだ」
 荷物をあらかた運び出された病室は今日も明るく、暖かい日差しが差し込んでいる。
 柳沼がずっとあの冷たい狭い場所に閉じ込められているのは耐えられない。ずっと能城に苦しめられているのを、どうにかして助け出したかった。
 柳沼がこうしてこの部屋を出て行って、この先も安全を保証されているならそれがモトイの望んだことだ。
 自分ができないことなんだってことはずっと、知っていた。
「モトイ、そんな顔をするんじゃないよ。これで永遠にさよならだなんて言ってない」
 柳沼が、細い腕を擡げた。
 いつもそうしてくれたようにモトイの髪の上に、掌が落ちる。
 いつも冷え切っていた柳沼の指先は暖かく、優しくモトイの髪を解いてくれた。
「またいつでも、モトイが会いたいって思えば会えるよ。茅島さんが良いって言えばね」
「……きっと良いって、言うよ」
 柳沼の手に撫でられて俯いたモトイが拗ねたように言うと、柳沼は息を吐くように笑った。
 茅島は良いとは言わないだろう。
 それをお互い、知っている。
 茅島だって意地悪で言わないんじゃない。でも柳沼が能城との関係を絶つためにはそうするしかないのだ。モトイが柳沼の新居へ通っていることを能城に嗅ぎ付けられれば、また面倒なことになる。
 もう、モトイと柳沼は住む世界が違ってしまったのだ。
 違わなければいけない。
「伶、荷物これで全部積み込んだけど」
 ワイシャツの袖を捲くった小野塚が、開けっ放しにした病室の扉から顔を覗かせた。
 瞬間、モトイの頭が軽くなって、柳沼が手を浮かせてしまったのが判った。
「うん、じゃあ後は……えーと、ナースステーションに返すものを」
 柳沼が腰を上げる。
 モトイがその顔を仰いでも、もうこちらを見下ろしてはくれない。
「これ? 俺が返してこようか」
 引越しさながらの量の荷物をバンに詰め込んできた小野塚の額には汗が光っている。溌剌とした表情には後ろ暗さの欠片もなくて、モトイはこんな人間が本当に存在するのだということを初めて知った。
 きっと本当に何から何まで恵まれてきた人間だから、妬みも憎しみも、欲も恨みもないんだろう。
 だけどそんな人間だからきっと、どんな甘言にも揺らぐことなく柳沼を守れるのかもしれない。
 守って欲しい。
「いいよ、挨拶もあるから。僕が行ってくる」
 寝具を抱えた柳沼が慌しく病室を出て行くと、しばらくその後姿を見送っていた小野塚が、前髪をかきあげるように額の汗を拭った。
 慣れた足取りで室内に入ってきて、電源を落とした冷蔵庫を開くと中に何も残っていないか確認する。
 モトイはパイプ椅子にじっと座ったままだった。
「――……この間病院に来てた子」
 疲れたように大きく息を吐いて袖を直しながら、不意に小野塚が口火を切った。
 モトイが顔を上げると、小野塚は胸のポケットに詰めたネクタイの先端を取り出して、その手でモトイを指した。
「あの子、モトイくんの大事な子?」
 小野塚の声音はどこか戯れているようで、気楽なものだ。それがわざとじゃないんだろうと感じさせるくらい暢気な表情をしている。
 だけど、今のモトイには牽制にしか聞こえなかった。
 モトイには安里がいるのだから、柳沼のことは綺麗さっぱり諦めろと、そう言われているようだ。
「――別に、アンタには関係ないよ。それより、人のこと盗み見るなんてシュミ悪いんじゃないの。柳沼さん、そーゆーの嫌いだよ」
 柳沼と安里は違う。モトイがそう思ってるだけで傍から見れば同じかもしれない。茅島だって同じようなことを言っていた。だけどモトイにとっては違うし、柳沼も安里も、違うと感じているに違いない。
「はは、確かに。じゃあ伶には黙っといて」
 間延びした様子で笑った小野塚はさっきまで柳沼が座っていたパイプ椅子を手繰り寄せて腰を下ろした。ギッ、と椅子の足が軋んだ。
 息が詰まるような気分だ。
「あなたは、今湖の真ん中にいます」
 下唇を噛んで俯いたモトイの耳に、突然大きな声が飛び込んできて、顔を上げた。
 小野塚が顔の横で人差し指を立て、大きく口を開けていた。
「……は?」
 モトイが顔を顰めて見返すと、小野塚はにっこり笑った。
「ボートで、広い湖の真ん中まで漕ぎ出たの。そこへ突風が吹いてきて、あえなく転覆。同乗していた伶と、この間来てた子」
「安里」
「安里くんが、溺れてしまいました。……モトイくん、どっちを助ける?」
 人差し指を立てていた手を広げて、小野塚がモトイに回答を求めるように掌を差し出した。朗らかに笑っている。
「……何それ、心理テストのつもり?」
 心理テストなら、一時期組員の一人がハマって事務所で流行ったことがある。だけど、こんなのはシンソーシンリとかいうのを探ることにもならない。安里か柳沼か、どっちを選ぶのかと聞きたいだけだ。
 モトイは眉を顰めて、そっぽを向いた。
「残念ながら俺は、心理学は専門外だよ」
 駆け引きも苦手なほうでね、と笑う小野塚を一瞥すると、袖を捲くったワイシャツから覗いた腕はあまり逞しそうには見えなかった。
「――……安里」
 観念したようにモトイが呟くと、小野塚の笑みが薄れた。
「柳沼さんは、アンタが助けるから」
 きっと、そういうことだ。
 小野塚がそういう答えを望んでいるからじゃない。柳沼がきっとそれを望んでいて、柳沼が望むことは、今でもモトイが望むことだ。
 それに、安里はモトイのものだ。
「アンタが柳沼さんを助けないようなことがあったら、俺がアンタを突き落とすよ。湖の底に」
 モトイが小野塚を見返すと、小野塚は慌てたように笑顔を取り繕った。
「もし、俺がその場にいなかったら?」
 モトイは人の笑顔になんて惑わされない。小野塚の双眸の奥深くを覗き込むように強く目を凝らすと、小野塚も笑うのを止めた。
 柳沼が小野塚と一緒にいる時モトイの知らない表情を見せるのと同じように、小野塚も柳沼がいなくなった瞬間人が変わったようだった。柳沼と一緒にいる時こそ本当に楽しくて笑っているようだったけど、今は笑いたくて笑ってるようには見えない。
 ヤクザの世界でへらへらと媚びるように笑う奴はたいてい碌な人間じゃない。
 小野塚がそんな人間じゃ困る。柳沼を任せられるような人間じゃないと困る。柳沼が選んだ相手なんだから。
「アンタはいるよ」
 唸るように、モトイは言った。
 小野塚が笑う。今度は社交辞令的なそれじゃない。
「何でだよ。君だって、俺がいないほうが良いんじゃないの」
 安心した。
 小野塚の眸の奥にはギラリと光る獣が潜んでいるように感じた。きっと茅島もそれを見抜いていて、柳沼の退院の手筈を整えたんだろう。
 気が進まなかったけど、柳沼が退院する前にモトイもそれが確認できてよかった。
「アンタがいないと柳沼さんが寂しがる」
 それが全てだ。そう言うようにモトイが吐き棄てて腰を上げると、眼下で小野塚は首を竦めた。
「――……だといいけど」
 自嘲的な苦笑だった。
 自信がないのか。モトイは一瞬かっとした後、それを吐き出す前に天井を仰いだ。
「柳沼さんは」
 唇を結びなおして、引き絞るような声で呟いたモトイに小野塚が顔を上げた。その顔を見下ろす。
「針の野原を歩いていて、足の裏が血だらけになってもきっと眉一つ動かさない人だ」
 以前、柳沼に聞かされた地獄の景色の内の一つ。悪いことをした人間は地獄に落ちて、ずっとその責を負い続けるんだと柳沼はモトイに語って聞かせた。
 それはモトイをいたずらに怖がらせるためじゃなく、柳沼自身の覚悟だったんだろう。
 小野塚が眉を顰めて、小さく肯いたようだった。
 彼が見た柳沼も同じような人間だったのか。モトイはますます安心して、肩で息を吐いた。
「だけどアンタなら、そんな柳沼さんを負ぶって歩けるんだろ。……俺はダメな犬だから、柳沼さんの血の匂いに気付いても周りをうろうろするだけだった」
 柳沼と針の山を同行できたことは嬉しかった。
 だけど、そこから柳沼を連れ出すのはモトイじゃダメだ。モトイの足も柳沼と同じように傷ついているから。同じ罪を背負ってる人間がずっと一緒にいたら、その重さを軽減することはできない。
 言葉を失った小野塚から視線を外して、モトイは柳沼が戻ってくる前に病室を出た。
 針の山を出て行くなら、それぞれ別々だ。これは脱獄なのだから、散り散りになったほうが目立たない。


「……お待たせ」
 病室の外に出ると、安里が待っていた。
 もうずっと、安里がここにいることにモトイは気付いていた。安里も気付かれていることを知っていたのだろう、肯いただけだった。
 どちらが促すともなく、踵を返して病室を後にする。
 またモトイが泣くことを心配してきてくれたのかどうかは判らない。今日はこの間よりは心が穏やかなつもりだ。
 柳沼は少なくとも、モトイを過ごした時間を必要なことだったと思ってくれていたのだ。それだけでも安心を得ることはできる。
 二人は無言のまま病院の廊下を歩き、暮れ始めた空の下へ出た。
 そこにはまだ柳沼の荷物を積み込んだバンが停まっていた。柳沼に二度と会うことはないだろう。きっと会えないほうが幸せなのだ。
 モトイは柳沼と一緒にいたかったわけじゃない。柳沼に幸せになってもらいたかった。だから、これでいい。
「……私は」
 隣で、安里が呟いた。
「あなたの足が血に塗れていたら、この両足をもぎ取ってあなたに差し上げる」
 驚いて安里を振り返ると、安里は視線を伏せて自分のつま先を見下ろしていた。
 両手を腿に伏せ、冗談を言っているような素振りもない。モトイは一瞬、言葉に詰まった。
「や、……でも俺、安里を負ぶって歩けない、かも」
 非力だから。思わずモトイがその場で屈伸をして見せても、安里はぴくりとも微笑まなかった。空虚な眸をついとモトイに向けて、首を振る。
「その場に捨て置いて構いません」
 安里は本気だろう。
 それが安里の、モトイを救う方法なのか。
 そう思うと、モトイは思わず笑いが零れてきた。安里がモトイを救おうとしているのか、ただその場で朽ちる方法を探しているだけなのかは判らないけど。
「じゃあさ、こうしようよ」
 言うと、モトイは傍らの安里の細い肩を抱き寄せた。
 ビクッと竦みあがった安里が、目を丸くしてモトイを仰ぐ。モトイはそのまま、二人三脚の要領で歩き出した。
「足を片っぽずつに分けあって、こうやって肩組んで歩いたらいいんだよ」
 いっちに、いっちに、とモトイが掛け声をかけると、安里はそれにつられたように足を縺れさせながら歩調をあわせてきた。
 空が暮れていく。
 モトイは安里の肩を抱いたまま、一度も病院を振り返らずにその場を後にした。