宵闇の狼(2)
「それで、一週間以内に今までの売上の10%を入金するようにってことになった」
主に醤油味の夕飯を食べ終えてモトイが両手を合わせると、安里は言葉もなく頷いて立ち上がった。
黙ったまま食器を重ねて、台所へ運んでいく。モトイはいっぱいになった腹を掌でさすりながら、テレビのリモコンを一瞥して、やめておいた。
「でもさ、今までの売上なんて誰も知らないじゃん。結局はリツの言い値じゃない?」
「そうですね」
台所で洗い物を始めた安里が、背を向けたまま答えた。
背を向けているから、今度は声がついたのだろうか。安里の返事をするルールはよく判らない。
安里はあまりたくさん話さない。ヘタをすると、一日中一緒にいても一言もその声を聞かない日もあったりする。
もっとも、下半身を執拗にいじれば思わずというように声が漏れたりもするけど、その程度だ。
かと思えば今のように相槌を声で返してくれることもある。安里の気分次第なのか、それとも決まりがあるのかはモトイの足りない頭では判らない。
ただ判るのは、安里の声は悪くない。
大きな声を出すことは決してなく、チリチリと小振りの鈴が鳴るような声だ。その華奢な身体を抱いている時も、小刻みに震えるだけで、乱れるというよりは、溢れるような声しか出ない。
「何かそれってさ、変だよね」
モトイは腰を上げると、夕飯の後片付けを始めた安里の背中へ歩み寄った。
「決まりなら、ちゃんとしないと後で絶対ズルするじゃん」
安里の背後に辿り着いても、モトイは安里の身体に触れようとは思わなかった。台所の床にしゃがみこんで、安里の仕事が終わるのを待つ。
事務所から安里の家に帰ってきて、夕飯を食べると安里が寝る時間に一緒に布団に潜り込む。そんな毎日が続いていた。一緒に暮らして良いかと尋ねたことはない。安里に誘われたこともない。自然と、そうなった。
「誤魔化すような人に見えたんですか」
モトイが三泊ほどした頃に買い足されたモトイ用の茶碗を伏せた安里が、遅い返事を寄越した。しばらく考えていたのかも知れない。モトイはぼんやりしていた視線を安里の背中に上げると、それからリツの顔を思い浮かべた。よく判らない。
「どうかな。わかんない」
安里が水道を止めた。
この寒いのに、給湯器じゃなく冷たい水に手を浸していたようだった。指先が赤い。
思えば、安里はモトイが帰宅するまで、それが深夜を過ぎていても、空調を入れることがないようだった。体の芯まで冷えて震えていても、安里は表情一つ変えることがない。
人間じゃないみたいだった。
「きっと、監視はされているんじゃないですか。茅島さんはそういうのが得意な方ですから」
タオルで掌を拭った安里が振り返ると、モトイは台所の床から腰を上げた。
安里もまた、茅島の「目」だ。
「あの人、他人を信用しているのかその逆なのか、よくわかんない」
「そうですね」
安里が部屋に戻ろうとするのを、引き止める。
薄い肩を掴むと、はっとしたように安里がモトイを見た。
「――きっと茅島さん自身も、判っていないんじゃないですか」
それでも、何でもないことのように安里は言葉を繋ぐ。
モトイはうん、とおざなりに答えると捉えた安里の身体を小型の冷蔵庫へ押し付けた。胸を押された弾みで、安里が短く息を吐き出す。
生気のない身体。抵抗する意識のない人形。
モトイは安里の洋服をたくし上げると、安里の無表情な顔を隠すように頭にかぶせたままにした。
あばらの浮いた安里の胸には、大きな傷跡がある。
殺されたことがあるかのようだ。心臓を一突き。躊躇った様子もない。
安里はもしかしたら本当に一度死んでいるのかも知れない。あるいは、今も生きているわけではないのか。その通りだと言われたら信じてしまいそうだ。
モトイは引き攣って癒着したその傷跡に鼻先を寄せると、噛み付くように愛撫を始めた。