The North Wind and The Sun

 拳銃は持ってなさそうだ。
 灰谷は、大学帰りの自分の行く手を遮る、どう見ても生粋の日本人とは思えない面々の手元を素早く確認すると、肩にかけていたカバンを下ろした。
 彼らの話す片言の日本語を要約すると、組事務所まで来て欲しい、ということのようだった。しかし灰谷は再三に渡って断り続けていて、彼らは「力づくでも、とにかく連れていかねければならない」らしい。
 つまり交渉は決裂した。
 決裂することを見越して彼らを寄越したのだろう。どれも、腕っぷしが強そうだ。
 灰谷がどうなってでも連行しなければいけないが、殺す気はないらしい。だから拳銃はない。幸いなことだ。
 大きく溜息を吐きながら肩を回した灰谷に、肌の浅黒い男の剛腕が伸びてきた。殴られたらひとたまりもなさそうな大きな拳だ。しかし、大振りすぎる。灰谷は小さく屈んで拳を避けると、男の足を掬うように掴んだ。土埃が舞う。
 灰谷には喧嘩の経験も、格闘技の経験もない。
 ただ、自分が置かれている境遇を理解しているから勉強はした。せめてもの護身術だ。自分より大きななりをした屈強な男が灰谷を殺しに来ても、抵抗できるように。
 日本古来の武術には、体の小さい自分でも相手の力を利用して反撃できるヒントが多くあり、灰谷は――不幸にも――それを試してみる機会に多く恵まれた。
 今のところ傷を負わされたことはないし、相手が武器を持っているのにこっちが素手であれば罪に問われる心配もない。執行猶予中の身だから厳重に注意はされるが、大概は過剰防衛で済む。
「大人しく引いてくれませんか」
 灰谷がひっくり返した男は、一瞬脳震盪でも起こしたのだろう、何が起こったのか判らない様子で四つん這いになって一時灰谷から離れた。
 灰谷を囲む他の三人も、力まない灰谷の様子を見て表情を険しくしている。
「あぁ……」
 灰谷は土埃のついた掌を払いながら、男たちの顔ぶれを見て首を竦めた。
「そうか、日本語じゃ判らないのか」
 無表情な灰谷が彼らを馬鹿にしたことは伝わったのだろうか。転ばされた男が立ち上がったのを見て、それぞれが拳を固めた。一人、ボクサー崩れの構えをしている中国系の顔立ちの男がいる。あれが頭かも知れない。
 灰谷は呼吸を整えてから、腰を落とした。
「――Go get f***,boys」
 言った瞬間、男たちが殴りかかってきた。上体を振って躱し、自分の拳の勢いで前のめりになった男の背中を蹴りつける。背後から灰谷を押さえ込みにかかる男には、顔面に肘を差し向けた。相手が勢いよく襲いかかるほど、鼻を強打する。
 どれもたいした傷にはならないだろう。武器を持って来なかったのが幸いだ。彼らがナイフでも持っていたら、もっと痛い目を見ていたかも知れない。
 中国系の男のジャブが飛んできた。
 灰谷は上体を引いて避けようとしたが、そこにはさっきまで四つん這いになっていた男の土に汚れた手が迫っていた。背後を抑えられる前に、灰谷はその場に屈んだ。
 その肩を掴まれそうになって地面を転がる。
 線路脇の資材置き場だ、砂利が背中に痛いが、そうも言っていられない。他の男に捕まえられる前に立ち上がって、灰谷は拳を握り直した。すぐ目前に中国系の男がすぐに拳を繰り出してきていた。さすがに、足取りが軽い。
「あれ? ボクシングって一対一じゃなかったっけ」
 男が細長い腕を湾曲させてフックを打ってきた瞬間、灰谷は背後に聞き覚えのある呑気な声を聞きながら男の顔正面へ掌を打ち付けていた。鼻先から払い落とすように押し返すと、面白いように相手は膝を崩す。
 しかしさすがにボクサー崩れの男はわずかに後退しただけだった。ただ、視線はもう灰谷を見ていなかった。
 灰谷も肩で息を吐いて、声の主を振り返った。
「……またあなたですか」
 灰谷に尋ねられると、十文字は大きな口を開けてカラッと笑った。
 ここまでくると迷惑防止条例で訴えることができるのじゃないかと思うほど、最近尾行されている気がする。
 今日は背後に辻の姿がない。いつも執事かボディガードかというくらいに――実際そのどちらも誤りではないが――一緒に行動しているのに。
 以前に比べたら、十文字について詳しくなった。否が応にも。
 十文字は堂上会の菱蔵組を治める組長らしい。若いし、非力そうだし、頭も良さそうではないし凄みもない。その辺の一般人よりもずっと良心そうなのにだ。
 灰谷が塀の中で見たどんなに気弱そうな犯罪者よりも、十文字はずっと健やかに見える。眩しいほどに、後ろ暗さがない。
 しかしそれこそが十文字の持つ狂った部分なのだということも、ずっと付き纏われているうちにわかってきた。
 十文字の精神は健康だ。暴力的でもなく、底抜けに明るい無邪気さで、人を殺してくれと言う。
 そんな十文字に黙って追従している辻も相当頭がおかしい。その一員になることなんて御免だ。灰谷は何度十文字に誘われても無碍にしてきた。
「また派手にやってんね。どこの組?」
 白いカッターシャツをサラリと着こなして腕を組む十文字の姿に、男たちは戸惑っているようだった。誰も十文字の素性に気付いてはいないようだ。とんでもない下部構成員を送り込んできたということか。
 喧嘩――というよりは、灰谷を拉致する意気込みでいたところに第三者へ踏み込まれた男たちは、拳を握りもしない十文字の余裕に半歩、後退した。
 十文字が「できる男」だから余裕を見せているように見えるのだろうか。灰谷にはそうは見えない。
「灰谷は菱蔵で預かるからもう無駄だよって、お前らの親分さんに言ってあげな。日本語わかる? アンダスタン? あ、中国語かな。うぉーあいにー?」
「勝手なことを言わないでください」
 アジア系の顔の男に適当なことを言っては声を上げて笑う十文字は、無防備そのものだ。
 灰谷の掌は、人を殴ったせいで少しヒリついているというのに、十文字は相変わらずふざけている。
 十文字は言う。灰谷は人を殺せるか? じゃあうちに来て、コロシをやってくれ。
 灰谷は人を殴ることに慣れてるわけじゃない。そんな人間が、人殺しを重ねるなんて、拷問だ。十文字は笑っているのに。無邪気に楽しそうに、辻の庇護下で。
「俺は、あの人のようにはなりたくないんだ」
 呟いた灰谷が視線を下げると、掌に血がついている気がした。弾かれたように顔を上げて、灰谷を取り囲む男たちを見回しても誰も血を流してはいない。
 灰谷がもう一度掌を見下ろすと両手にべっとりと血がついている。
 ぞっとした。
 これはいつも見る幻覚で、気の迷いでしかない。取り乱す必要はない。灰谷は下唇を噛んで、震える手を握り直した。
「あの人って? 父親のことか」
 片足に重心をかけた十文字が組んでいた腕を解くと、ピクッと男たちの拳が震えた。十文字はその手を、そのまま細身のブルージーンズのポケットに入れる。
「ッ!」
 反射的に動いていた。
 こんな場面でポケットに手を入れるなんて、不用意すぎる。灰谷は咄嗟に十文字のもとへ駆け寄るとその一切リキみのない体を自分の背後に回した。瞬間、拳が飛んでくる。灰谷はそれを鼻先で捉えると、腕ごと捻りあげた。
「一体何しに来たんですか、用がないなら――……」
「お前が殺したのって、自分の父親だろ?」
 捻りあげた腕を背中に押し付けて、突き飛ばすように離した男と入れ替わりに、別の男が十文字に殴りかかってきた。
 灰谷の視界ではそれが、まるでスローモーションのように映った。頭で考えるより先に振り返ると、十文字が色素の薄い瞳をギラギラと光らせて灰谷を見上げ、笑っている。
「だから?」
 力任せに拳を突き出してきた男の喉を掴んで引きずり倒す。灰谷は、血に汚れた自分の手が氷のように冷たくなっているような気がしていた。
 自分が一枚の刃になったかのようだ。
「父親を殺したのは、母親を守るためだろう」
 もう一人。
 拳を握る気のない十文字に伸びてくる腕を防ぎながら、灰谷は自分の拳が痛むほど反撃が強くなっていることに気付いていた。
 このままでは十文字が望む通り、自分が望まない暴力を振るうようになってしまうかも知れない。父親と同じように。
 飛びかかってきた男の頬骨を打ち返す。勢いよく振り下ろした灰谷の手から血飛沫が飛んだ気がした。それが父の返り血なのか、それとももう殴らないで欲しいと泣きながら懇願する母親の血なのかわからない。
 ボクサー崩れの男がスウェーしながら打ち込んでくるのを、踏み込んで髪を鷲掴みにする。灰谷は吠えていた。獣のような声で唸って、男の顔を砂利の上に叩きつける。
「さすが、スゴイスゴイ」
 気付くとその場に立っているのは灰谷と十文字の二人だけになっていた。
 十文字は少しも姿勢を変えず、ただ最後の男が短く痙攣してから気絶すると、両手をポケットから抜いて短く拍手した。
「……ッ!、――」
 十文字の悪びれのない顔に苛立を覚えたが、怒る筋合いのことではない。
 ここに十文字がいなくても、男たちを黙らせるにはこれしかなかったかもしれない。十文字はいたずらに灰谷を激昂させたが、それが十文字の計算なのだとしたら、それに構うことは危険だ。
 それに、十文字は誤ったことは何一つ言っていない。
 灰谷は実の父親を殺した。
 理由はなんであれ。
 灰谷は息も切らさずに四人の男を伸したその場をすぐにでも立ち去りたくて、十文字のふざけた顔を振り返らず踵を返した。
 痺れた手を見下ろす。
 強く握りすぎたせいで掌に爪が食い込んでいるが、気にしないように努めた。自分で自分の掌の皮膚を掻き毟って血塗れになるなら、それでもいい。親殺しというのは自分を否定することと同じだ。
「灰谷」
 黙って十文字の傍を離れようとした灰谷の手を、十文字が引き止めた。
 反射的に振り払おうとしても、十文字の手はしっかりと灰谷の拳を掴んでいて、離れない。引き寄せようとすればするほど、十文字の手の力は強くなった。
「離、」
「お前は他人を守れる男だ」
 十文字のギラギラとよく光る眼差しが、灰谷を射抜いている。
 上段から振り翳されるやたらと断定的な口調も、最近は慣れてきた。どんなに十文字が力いっぱい灰谷を捉えようとしても、灰谷が本気で振り払おうと思えば振り払えるだろう。
 だけど、十文字は今まで一度も、辻を使って灰谷を捉えようとはしなかった。
 変な男だ。
「お前は父親を殺したんじゃない。母親を守ったんだ」
 いつしか十文字の表情からは笑みが消えていた。
 真顔になると、十文字の外国人めいた顔立ちはぞっとするほど美しくて、威圧的だ。十文字がいつも間の抜けた顔で笑っているのは、それを知っているからなのだろうか。
「――違う。俺は、父親を殺したんだ」
 血に濡れた拳を握り、もう一度強く引いてみた。十文字は離さない。意地になっているかのようだ。
「他人を守るために殺しが出来る人間を、俺は強いと思う」
「違う、俺は強いわけじゃ――……」
 灰谷はもう一方の手で十文字の手を掴むと、強引に引き剥がした。
 強ければ、母親を連れて逃げることができたはずだ。弱いから、父親を殺した。父親に追われることが怖くて。父親の報復が怖くて。
 灰谷は十文字の視線に晒されていることさえ不快で、自分の頭を抱え込んでその場に蹲った。
 結局母親のことだって守れているわけじゃない。息子が旦那を殺す一部始終を目の当たりにして、平気でいられるわけがない。心労を増やしただけだ。母親はもう一生、笑うことはないだろう。何度となく折られた鼻の骨が元に戻るわけでもない。灰谷は何もできなかったのと同じだ。
「灰谷」
 顔を隠し、その場に崩れ落ちた灰谷の目の前に、十文字の声が近付いた。
 同じ目線までしゃがみこんで、息を荒げた灰谷の顔を覗き込んでくる。何もかもを見透かしたような眼で。
「お前のことは俺が守る。だから、お前は俺を守ってくれ」
 十文字の手が、灰谷の両腕を掴んだ。
 そっと力が込められた十文字の腕に逆らうことを忘れた灰谷がゆっくりと顔を上げると、十文字は屈託ない顔で笑った。
「お前が危険な目に遭うようなことがあれば、俺が命を賭して守ってやる。だから、お前も俺に命を預けて俺のために働いてくれ」
 灰谷の手を掴んだ十文字の手は熱く、脈打っていた。
 ――まるで、北風と太陽だ。
 灰谷は目の前の太陽のような男の笑顔を見ながらふとそんなことを思って、肯いた。