REFLEX ACT

 狭いダイニングキッチンと、薄い襖で区切られた二間。
 家賃四万八千円のアパートが灰谷の実家だった。
 灰谷が幼稚園に上がる前はもっと狭いワンルームに暮らしていたが、鉄筋コンクリートの綺麗なマンションから木造二階建てのアパートに越してきた。
 灰谷一家が入居する前から老朽化のために取り壊しを検討されていたらしいが、結局灰谷が高校に進学し、卒業間近になって投獄されるまで、建て替えられることはなかった。
 灰谷が成人して暫く経つ今、あの家が無事に建て直されたのかどうか、灰谷は知らない。
 もし灰谷が逮捕された後すぐに建て直されることになったのだとしたら、それは灰谷のせいかもしれない。
「おはよう、恭一。よく眠れた?」
 灰谷が薄くなった布団を抜け出して台所に続く襖を開くと、毎朝味噌汁の良い香りがした。
 母が嫁ぐ前から使っていたという年代物の炊飯器から白米の炊きあがる暖かい蒸気が吹き上がり、野菜炒めの味付けに投入された醤油の焦げる音。
 眩しい朝日の差し込む台所の窓を向いたままの母は、灰谷を振り返りはしない。
「うん、よく眠れたよ。母さん」
 灰谷は睡眠不足で目眩のする頭を抑えながら、小さく頷いてみせた。それがたとえ母には見えなくても。
「そう」
 灰谷は学校に行けば眠ることが出来る。しかし母はこの後パートに出かけなければいけない。
 母さんこそ眠れたの、そう尋ねたい気持ちをぐっと堪えて、灰谷は洗面所に向かった。
 薄暗い浴室の前に取り付けられた、コンクリートむき出しの壁に埋め込まれた鏡面に母親そっくりの顔を写すと、灰谷は唇を噛んだ。
 確認するまでもなく、母の顔は今朝もひどく腫れ上がっているのだろう。
 どんなふうに殴りつければ人の顔があんなに歪むようになるのか、灰谷にはわからない。母親によく似てると言われる自分の顔も、一晩中殴られればあんな風になるのだろうか。
 灰谷は冷たい水で洗い流した自分の頬に爪を立てて、俯いた。
 母の笑った顔を、灰谷は知らない。
 物心がついてから一度も、母親が笑っているのを見たことがない。泣いたところも。母親はいつも優しく灰谷に語りかけてくれるが、顔がひどく腫れているせいで表情の変化は見えなかった。
 人間という動物が笑う生き物なのだということは知っている。だから学校に行けば同級生と一緒に笑ってみせたりもする。
 学校の成績だって悪い点は取れない。
 母親を困らせてはいけない。
 父親を苛立たせてはいけない。
 それを両立させることは、幼い灰谷にはひどく難しいことだった。だから早く大人になる必要があった。無邪気ではいられなかったし、逃げ出すこともできなかった。
 灰谷が逃げ出せば母親はもっと酷い目に遭うかもしれない。小学生の頃から灰谷はそれに気付いていた。
 母親も、灰谷が気付いていることに気付いていた。



「おはよう、灰谷さん!」
 家賃五万二千円のロフト付きワンルームマンションの狭いベッドを揺らされて、灰谷は目を覚ました。
 灰谷が知る限り、ここは瀬良にとって二つ目の住処だ。一つ目は実家で、電車で一時間とかからない場所にまだ健在している。両親と兄弟が暮らしているらしい。
 事務所まで通う必要に駆られて、この狭いマンションに越してきたのだそうだが、仕事のつてを手繰ればいくらだってもっと条件の良い住居がありそうなものなのに、瀬良はここから動こうとしない。
 それが、灰谷が事務所に近いからという理由で寝泊まりする機会が多いせいなのかどうかは知らない。
 大きな図体をして、瀬良は狭い場所を好むからそういう理由なのかもしれない。
「よく眠れた?」
 瀬良のベッドに我が物顔で横たわったままの灰谷の顔を覗き込んだ瀬良は、珍しくエプロンを着けている。そんな大きなナリに合うのがよく存在したなと以前灰谷が揶揄したら、最近は料理する男性が多いのだと瀬良は胸を張った。
「――あぁ、……」
 仰向けに寝転がった灰谷が眠さの残る目蓋の上に掌を乗せて大きく深呼吸すると、味噌汁の匂いが漂ってきた。
 この香りのせいで、昔の夢を見たりしたのだろう。
「朝ご飯できてるけど、まだ寝てる?」
 灰谷が黙ったままでいると、瀬良の指が灰谷の前髪をそっと撫でた。汗でもかいていたのだろうか、と灰谷自身も手を擡げるとそんなこともなかった。
 ただ、瀬良の長ネギ臭い手に触れてしまって、灰谷は仕方なくそれを握った。
「いや、……起きるよ」
 瀬良が起こしてくれなければ、夢はよりひどい思い出を呼び起こしていただろう。
 未だに耳を塞げば怒号や悲鳴、嗚咽が、記憶の奥底から響いてくる。きっと一生忘れることはないだろう。
 ベッドから重い体を引き剥がして灰谷が上体を起こすと、瀬良が暢気な顔で灰谷の寝ぼけ顔覗き込んでくる。何が楽しいのか知れないが瀬良はいつも笑っている。
「何」
 灰谷が尋ねるより早く、瀬良が灰谷の頬に唇を押し付けて素早く離れた。
 そんな真似をされてようやく、灰谷は瀬良の手を握ったままだったことに気付いて、呆れた振りをしながらそれを解く。空いた手でベッドを押しやるように立ち上がると、勝手知ったる足取りでバスルームに向かう。
 一週間のうちの半分以上を瀬良の家で過ごすようになって、もう一年以上経つ。一般的なレベルでだらしのない瀬良の代わりに、何がどこにしまってあるのか灰谷の方が把握していることも少なくない。
「ねー灰谷さん」
 洗面所に入った灰谷の背中を、瀬良の間延びした声が追ってくる。
 ユニットバスの傍らに設けられた洗面所の鏡の脇のスイッチを押して、灯りをつける。相変わらず無表情で傷ひとつない、見慣れた顔が浮かび上がる。
 灰谷は瀬良への返事をせずに水道の蛇口を上げた。勢いよく吐き出されてくる冷たい水に手を浸すと、擦っても擦っても落ちない血の感触を思い出した。
「灰谷さん」
 それを振り払うように両手で掬った水を、顔に押し付ける。
 瀬良が背後に近付いてきたのは気配で判った。人が洗顔をしているのに腰に手でも回してこようものなら容赦なく蹴り飛ばしてやろうと思ったが、瀬良はそうはしなかった。さすがに学習したのだろう。
「いい加減、一緒に暮らさない?」
 ひとしきり顔を流して目を開いた灰谷が鏡を覗くと、緊張した面持ちで瀬良が灰谷を窺っていた。手には菜箸としゃもじを持っている。
「灰谷さんうちにいる時間のほうが長いしさ、もしこの部屋じゃ狭いんだったら、もう少し広いところに越してもいいし……俺は嫌だけど、灰谷さんがどうしてもっていうならベッドもう一つ買ってもいいし」 
 どうかな、と固唾を飲んだ瀬良の顔を一瞥してから、灰谷は手近なタオルを手繰り寄せて顔を拭った。
「……お前がもう少し料理上手になったらな」
 どうせ今日の朝食も白米と味噌汁の他はコンビニの惣菜か何かだろう。
 料理なんかしたことがないんだから無理をするなと言っても、瀬良はムキになって頻繁に食事を作った。瀬良の中では、灰谷と一緒にキッチンに立つという野望があるようだった。いくら瀬良が料理を頑張ってくれたところで、灰谷が一緒にキッチンに立つなんて言っていないのにだ。
「ひでぇ、今日の味噌汁は過去最高のウマさなのに!」
「自分でハードル上げるなよ」
 間を置かずに突っ込んだ灰谷の言葉に胸を押さえた瀬良が、足をよろめかせて灰谷の背中に縋りつく。それを振り払った灰谷が目の前の鏡を一瞥すると、見慣れたはずの顔が笑っていた。
 ――きっと母親も笑ったら、こんな表情だったのだろう。
 灰谷はそう考えて目を逸らすと、瀬良の背中を押しながらキッチンに戻った。