弾倉の臥狗(1)

「辻って、お前?」
 突然降ってきた甲高い声に、辻は思わず足を止めた。
 辻が足を止めるなどとは思っていなかったのだろう。後ろを歩いていた斉木が辻の背中に鼻先をぶつけそうになって、慌てて仰け反った。
「誰だ、お前」
 辻の代わりに、光嶋が声の主を振り仰ぐ。その視線の先を、辻はゆっくりと辿った。
 昼過ぎの校舎内は休憩時間を間もなく終えようという生徒たちの忙しなさに賑わっていた。ただ、そこに辻や光嶋たちがいるということで、その周囲だけは誰も近づこうとしない。教師たちですら。
 ましてや、声をかける人間なんているはずもなかった。
「お前には聞いてない。辻に聞いてるんだよ。そいつが、辻だろ?」
 辻が見上げた先には、小柄な男が立っていた。
 屋上へ続く扉の前で仁王立ちしたその男は、背後の窓から漏れてくる空の明かりを後光のように帯びて、不敵な笑みを浮かべている。
 逆光で顔はよく見えないが、辻をまっすぐ見ているのだろうということがわかった。
 斉木や光嶋と一緒に歩いていて、辻を他の二人と見誤ることは確かにないだろう。辻が何者なのかを知っているのなら。しかし、だからこそこうして辻を直視する人間など、そういない。少なくとも同じ高校の中にはいなかった。
「お前、辻に対してなんて口を、」
 後ろにいた斉木が辻の前に回りこんできたかと思うと、不躾な男に向かって足音を響かせながら歩み寄った。
 廊下中が緊迫するのがわかる。
 この学校にいる人間はみんな、辻のことを必死で無視している。だから視線も合わせなければ、まるでそこに存在しない人間であるかのように背中を向けているくせに、辻のことを気にかけて止まないのだ。
 辻が何か問題を起こせば息を詰めて、校長から生徒まで一様に身を小さくして問題が過ぎるのを待っている。
 正確には辻自身が問題を起こすのではなくても。
「――見たことがないな」
 辻が唸るように低く呟くと、斉木が男に歩み寄る足を止めて辻を振り返った。
 階段にして二段下で立ち止まった斉木と、扉の前で不敵に立ち尽くした男とは身長が同じ程に見える。斉木の身長が大きいことを考慮しても、本当に小柄な男のようだ。
 カジュアルに着崩した制服のネクタイの色は、辻と同じ高校三年生であることを表している。しかし、男の顔には見覚えがない。
 辻は、同じクラスの生徒の顔だってまともに眺めたことなどない――相手が顔を伏せてしまうのだからしかたがない――が、こんな風に辻に楯突くような命知らずを、三年間も見逃していたとは考えにくい。
「俺は十文字清臣だ」
 十文字と名乗ったその男の目には、目の前まで歩み寄った斉木など見えていないかのようだった。校内の人間が辻を見て見ぬふりしているのとは違う。眼中にないとでも言いたげだ。
 斉木だっていつも辻の腰巾着のような真似をしているものの、斉木一人で見ても周囲に人が近寄り難い容姿をしている。大きく開いたワイシャツの首筋に見える刺青は、中学生の頃に入れたものだという。もともとやくざ者に可愛がられていた不良だからこそ、辻と三年間つるんできたのだ。
 十文字という男は、見るからに堅気の、ただの男子高校生に見える。
 辻は堅気とやくざ者を見誤ったことはない。十文字からは、渡世人の匂いがしない。
 しかし十文字は斉木を塵のように無視して、辻を見据えている。逆光で暗くなった顔に、ガラス玉のような大きな目をギラギラと光らせて。
「辻」
 どうしていいものか躊躇ったような斉木の頭上を超えて、十文字が辻にむかって笑いかけた。屈託のない、あけすけな笑顔だった。
「お前、人殺せるか?」
 十文字が尋ねた瞬間、休憩時間終了のチャイムが校内に鳴り響いた。聞き慣れたはずのその電子音が、辻の頭を強く殴りつけたように感じる。
 辻は瞬きもせずに、十文字の顔を仰いだ。
「お前頭おかしいのか、いい加減にしろ」
 斉木が我慢ならなくなったように、十文字の肩を小突いて笑った。辻の斜め前方で呆れたように腕を組んだ光嶋も鼻を鳴らして笑う。
「何だ、辻のことを知ってるんじゃないのか?」
 斉木に小突かれた十文字は容易に足をふらつかせると、背後の扉に手をついた。光嶋の声を一瞥したが、すぐに辻へ視線を戻す。まるで辻の言葉以外は雑音だとでも言うように。
「辻のオヤジさんは菱倉組系の人だぜ? 本物なんだよ。あんまりナメたことばっか言ってると、痛い目みるぜ」
「オヤジ?」
 斉木の声に眉をぴくりと震わせた十文字が、不満そうに表情を曇らせた。
 いや、不満そうだと感じたのは辻の思い過ごしかもしれない。おそらく十文字には不可解だっただけなのだろう。体勢を立て直してから、首を捻った。
「なんでそこで辻の父親が出てくるんだ? 俺は辻の父親に訊いてるんじゃない。辻に訊いてるんだ。辻は殺せるのか、って訊いてんの」
 苛立ったかのような十文字の口調に、辻は片手を擡げて首の後ろを撫でた。
「まあ、多分」
 不可解をあらわにしたいのはこちらの方だ、という気持ちをぐっと堪えて辻が答えると、十文字は一瞬の間も置かずにぱっと破顔した。
 十文字の様子にいつの間にか引きこまれていた辻が気圧されるような邪気のない、笑顔だった。
「そうか! じゃあ俺の部下にしてやる!」
 休憩時間を終え、他に生徒のいなくなった廊下に十文字の脳天気な声が響く。
 一瞬、斉木も光嶋も、辻でさえも呆気に取られた。
「おま、……何言ってんの?」
 一番最初に口を開いたのは、斉木だった。慌てて目を瞬かせた光嶋が、ため息を吐くように苦笑を零す。
「お前なんて辻の舎弟にもなれないよ」
 勝ち誇ったように笑った光嶋の声に合わせて、斉木がもう一度十文字の肩を押し遣った。もともと腕力の強い斉木の腕だ、十文字は大きな音を立てて背後の扉に身を打ち付けた。
 十文字が眉を潜めて、身を丸く屈める。しかし、辻から目を逸らそうとしない。辻もまた、そんな十文字から目を離せないでいた。
「お前、何者なんだ?」
 足をふらつかせた十文字の胸ぐらを掴んだ斉木が十文字を引き起こす。十文字はそれに眉一つ動かさず、しかし辻が尋ねると、またしても笑みを浮かべた。
 今度は無邪気なものじゃない。目を爛々と輝かせた、狂気の笑みだった。
「俺はどっかの組の組長になる男だ。だから、俺は俺の手を汚さない。俺のためにコロシをする部下が必要だ。つまり、お前が」
 光嶋が、堪えきれないというように吹き出した。授業の始まった教室を気にかける様子もなく、声を上げて笑い出す。
「お前頭おかしいんじゃないのか? 漫画の読みすぎだろ。ヤクザがどんなもんだか知ってんのかよ? こんなヒョロヒョロの腕しやがって」
 十文字を胸ぐらを振り払うように斉木が腕をふるうと、十文字は前のめりにバランスを崩した。あわや階段に足を滑らそうかというところで、斉木が十文字の華奢な腕を取る。背中に捻り上げるように腕を掴まれた十文字は、眉間に皺を寄せながら斉木を一瞥した。
「銃を撃つのに腕力や握力が必要か?」
 抵抗しない十文字の腕を固めた斉木に、辻が首の後ろの手を小さく掲げる。斉木はその仕種に気付くなりすぐに十文字の腕を離した。
 腕を解放された十文字は肩で小さく息を吐き、腕を小さく摩るとやはり辻をまっすぐ見据えた。
 外国人の血筋でも入っているのか、グレーがかった不思議な眼の色をしている。笑うのをやめてしまうとまるでフランス人形のような目鼻立ちのはっきりした顔つきの十文字に、辻は見入った。
「俺に必要なのは、お前という銃を備える資質だけだ」
 静かな声で言った十文字の声に、斉木の怒号が重なった。いいかげんにしろよ、とでも言ったのかもしれない。
「……資質」
 自分でも無意識の内に、辻は呟いていた。傍らの光嶋が辻の呟きに気が付いて、顔を覗き込んでくる。
 思わず思案した辻が鈍い音に視線を上げると、斉木の拳に十文字が尻餅をついていた。その姿に、思わず辻は問い返していた。
「あるのか? お前に」
 十文字がゆっくりと顔を上げる。
 殴られた拍子に口端を切ったのだろう。掌で滲む血を拭って、十文字は笑った。
「あるよ」