弾倉の臥狗(2)

 学は身につけておけ、というのは辻の父の口癖だった。
 堂上会系第三次組織桐和組の構成員である辻の父親は、一度は堂上会一次組織の組員まで成り上がる機会を得たものの、他者に足を引っ張られて果たせずにいる。
 自分に学さえあればあの時騙されずに済んだんだ、というのが父の言い分だった。
 父は息子を渡世人にしようとは思っていないようだったが、させまいとする風もなかった。渡世人は生きざまだ。職業は何でもいい。男としての覚悟を決めた生き方さえ受け継いでくれたら、それでいいと考えていたようだ。

「辻」
 銀座の一等地、地下にあるバーに呼び出された辻が店内を見渡すと、奥のボックス席に茅島の姿があった。
 隣にはドレスの肩をはだけさせた女が付いている。テーブルの上にはグラスが三つ。その内二つには口紅が付いているから、女はもう一人いるのだろう。化粧室にでも立っているのかもしれない。
「お疲れ様です」
 辻は茅島が浅く掛けたソファの前で頭を下げると、ソファと対面に置かれたラウンドスツールに腰を下ろした。
 静かな店だ。店側で女性を用意している類のクラブではない。茅島の今日つれている女性は、どこかの店の女のようだった。辻が挨拶をしても茅島の逞しい胸から離れようともしないし、茅島の顔を見つめたきり動かない。
「何か飲むか。飯は食べてきたのか?」
 茅島は女性の媚びた視線を一瞥もせずに、辻に対して身を乗り出すと子供のように破顔した。
 茅島は、堂上会長に拾われた舎弟だった。
 辻が茅島に初めて会ったのは中学に上がる前で、父親が堂上会直参になれるかなれないかという時期に一度堂上会の邸へお邪魔した時、知り合った。
 恰幅がよく、その姿に見合った鷹揚な笑顔を浮かべた堂上会長は茅島を息子と呼び、父親について邸へ上がった辻に対して同世代の遊び相手として茅島を紹介してくれた。
 実際茅島は辻と三歳ほどの違いしかなかったが、辻は茅島を上層組織の坊として敬った。実際、茅島にはそれだけ敬意を払う素質があると思った。会長が息子としているからではない。茅島の中には獣がいる。そう感じたからだ。
 獰猛な獣の前で頭を垂れる自分もまた、獣なのだろう。
 茅島がそうと感じたかどうかは知らない。ただ、礼節を弁えた子供だと言って、茅島は辻を気に入ってくれた。それは辻の父が堂上会の邸に出入する機会をなくしてからもずっと続いていた。
「はい、汐が夕飯を作ったので食べてきました。ありがとうございます」
 辻が答えると、茅島はそうか、とだけ言って自分の胸に手を這わせている女の肩をぐいと押し遣った。
 女の年齢は二十代中盤というところだろう。垂れ目がちで頬がふっくらと丸みを帯び、唇が厚い。好色そうな顔をしている。辻はもとより、茅島よりも年上だろうが、この女性もやはり茅島という獣の前で牝に成り下がっている。
「辻は俺の弟だ。礼を弁えろ」
 それができないなら出て行けと言わんばかりの茅島の言葉に、女性は背筋を伸ばして辻に頭を下げた。慌ててグラスを取ると、茅島のボトルから辻の飲み物を作り始める。
 辻は茅島から、夜の遊び方について学んできた。
 週の半分はこうして銀座に呼び出されて他愛のない話をして過ごす。父は辻に好きなように生きろと言っているし、その言葉に嘘偽りはないようだが、しかし辻がこうして茅島と親しくすることは、堂上会中枢とのパイプになる。それを意識しているのは父なのか、それとも辻本人なのか、計りかねた。
 堂上会長が茅島をことのほか可愛がっていることは周知だ。次期会長は茅島で間違いないと思っている舎弟たちは、茅島が成人を迎える前から媚びへつらっているようだ。
 しかし当の茅島自身はそんな構成員たちを無碍にして、こうして辻と過ごす時間を大事に思ってくれているようだ。
「どうぞ」
 茅島の視線を気にしながら辻の前にグラスを差し出した女性の手が微かに震えている。辻は僅かに双眸を細めただけで、それに応じた。
 茅島のそばに半年以上いた女を、辻は知らない。茅島は下着を使い古すよりも早く女性を替えてしまう。辻にはそれが、茅島の寂しさのように見えた。
 もちろんそんなことを口に出して言うことはできないが、汐という大事な妹がいる辻としては、女性をモノのように取り替える茅島の心の空虚さは気にかかる。
 しかし、茅島も自分が一人の女に執着できない性分を知っていて、素人の女性を堕とすような真似は避けているようだった。
 茅島は優しい男だ。ただ、ひどく不器用なだけだ。
「きゃあっ!」
 無口な女性に作ってもらった水割りを辻が口に運ぼうとした瞬間、静かな店内に悲鳴が響いた。
 他のテーブルの客も振り返る。声は、化粧室の方から聞こえた。
 辻は一度、茅島を見遣った。茅島の視線もゆるりと声の方を一瞥する。辻はそれを確認してから、腰を上げた。
 化粧室に続く曲がり角で、女性が転んでいる姿が見えた。その上に伸びている男の影。辻はもう一度、茅島を振り返った。茅島は笑っていた。
「藤尾さんもいらしたんですか」
 影の男が姿を現すより先に辻が尋ねると、茅島は肩を揺らして笑いながら、小さく肯いた。
 隣の女性は眉をひそめて化粧室の方を伺っている。辻は逡巡の後、茅島に一礼してテーブルを離れると、店の床に転がったままの女性のもとへ向かった。
「ダメだ、やっぱり茅島の女とは相性が合わねえ」
 辻が女性に手を差し出すより先に、藤尾が姿を見せた。
「よう、辻か。ガキがこんな店にノコノコ来るんじゃねえよ」
 そう言って笑った藤尾は相変わらず派手なシャツを着ている。今はその前がはだけていて、女性の口紅がいくつも付いていた。
「……こんばんは、ご無沙汰しております」
 辻が頭を下げると、その間に藤尾は藤尾自身が――おそらく突き飛ばしたのだろう、女性を恭しく抱き上げた。
 女性は困惑した顔をして首を竦め藤尾の甘い顔を見つめているが、藤尾は既に女性を見ていなかった。
「そうだな、久しぶりか? 勉強ちゃんとやってんのか、えらいな」
 藤尾はあっさりと女性を離した手で、子供をあやすように辻の頭を撫でる。藤尾よりも辻の方が僅かに身長が高いが、藤尾は気にしていないようだった。まだ辻が小さいままだと思っているのだろう。
 辻は押し黙ってそれを受けながら、戸惑ったまま立ち尽くしている女性にそっと目配せをした。
 きっと藤尾はもうこの女性の存在を気にも留めないだろう。それなら彼女がこれ以上惨めな思いをする前に、店を出ていった方がいい。辻がそう促すと、女性は下唇を小さく噛んだ後、踵を返した。
 辻に酒の飲み方を教えてくれたのも、女性を教えてくれたのも茅島だ。しかし辻にはどうしても、女性遊びの方は向いていないようだった。
 母親もいて、妹もいる辻にとっては女性は性の対象以上の存在であって、茅島とはどうしても同じになれない。
「さて、飲み直すか」
 辻の隣で一つ伸びをした藤尾は、前の開いたシャツを気にするでもなくテーブルに戻っていく。店内の客は、派手ななりをした藤尾がどんな類の人間か悟ったのだろう、そろって視線を伏せた。
 藤尾は茅島の友人で、厳密に言えば渡世人ではない。
 組織に与していないからこそ堂上会長の覚えもある、遊撃隊なのだと本人は言っている。その点では辻も藤尾と同じ立場だ。自分が卒業後、藤尾のようになるのかどうかはまだ判らないが。
 藤尾の後追ってテーブルに戻った辻が藤尾の酒を作ろうとすると、藤尾は迷いもせずに口紅のついた空きグラスを差し出した。自分が放り出した女のグラスを使うつもりなのだ。未使用のグラスはまだあるのに。
 辻が一瞬躊躇すると、藤尾は不思議そうに目を瞬かせた。
 どうも藤尾という男を、辻は把握しかねた。嫌悪感はないが、茅島ほど好きにもなれない。
「学校は楽しいか?」
 しかし、そんな辻の気持ちを無視して藤尾はまるで兄のように尋ねて、グラスを傾ける。辻を弟だと言って可愛がってくれるのは茅島の方だが、藤尾には妙な親しさがある。辻はもしかしたら、自分がそれを恐れているだけのかもしれないとも思った。
「はい、まあ……卒業はしたいと、思っています」
 大学まで行けとは父は言っていない。それほど金に余裕があるわけでもない。もうすぐ卒業後の身の振り方を考えるべきだろう。茅島はそうとは言わないが、おそらく茅島は辻の父以上に辻の渡世入りを期待しているに違いない。自惚れかもしれないが。
「そうか。あんまり悪い友達とばっかりつるんでるなよ。ガキの頃はガキの頃にしかできない付き合いってのがある」
 三口でグラスを開けた藤尾が言うと、茅島が首を竦めた。辻を店に呼んだ自分を責めているのかと言いたいのだろう。しかし辻には、斉木や光嶋のことを言われたような気がした。
 彼らは辻を渡世入りするものだと思ってるだろう。辻が渡世入りしたら自分たちも続くつもりかもしれない。しかし、辻からしてみれば彼らはまだ暴力団がどんなものかを知ってはいない。
 いわば、辻にとっては斉木や光嶋との付き合いこそが「ガキの頃にしかできない付き合い」だと思っている。
「――はい」
 辻は藤尾の眼を見つめて、重く肯いた。
 下手をすれば、彼らに足を引っ張られかねない。辻が下手な荷物を抱えて渡世入りすれば、茅島には切り捨てられるだろう。茅島を煩わせるわけにはいかない。
 藤尾もそれを暗に仄めかしているのだろうと姿勢を正すと、藤尾はけらりと笑った。
「いちいち仰々しいね、お前」
 氷だけになったグラスで辻の肩を押し遣った藤尾が、次は新しいグラスを欲しがった。席に戻ってからの一杯は、自分が追い出した女性のために一杯というつもりだったのだろうか。藤尾の考えることはよく判らない。
「俺と茅島みたいな関係の友人を作ってりゃオニーサンは心配ないって言いたいんだよ。判るか?」
 辻は新しいグラスを引き寄せながら、一度茅島を窺った。茅島は女性に唇を求められてそっぽを向いていたが、藤尾の言葉は聞いていたようだ、小さく肩を揺らして笑っている。
 茅島と藤尾は若い頃に派手にやりあった仲だと聞いている。茅島のような男に一見優男にしか見えない藤尾が楯突いたのかと思うと辻は今でも信じ難い。しかし茅島が認めている男なのだから、それなりの男なのだろう。
「……、」
 その時ふと、辻の脳裏に十文字と名乗った男の顔が過ぎった。
 どうして思い出したのか知らない。
「どうした?」
 水割りを作る手を止めた辻に、茅島が声を掛けた。
「――いえ、何でもありません」
 辻は薄く苦笑を浮かべると、首を振って藤尾に水割りを差し出した。
 あんな素人に「資質」などあるはずがない。資質というのは、茅島のような男に備わっている天性のものだ。