猟犬は傅く(1)

椎葉Ⅰ

 椎葉の父親が亡くなったのは、初秋のことだった。
 秋田の田舎で育った椎葉の家は寡黙な父親を大黒柱として、従順な母親、長子である姉と、椎葉の四人家族だった。祖父母も一緒に暮らしていたが、祖母は椎葉が中学に進学してすぐに亡くなった。祖父もその後を追うように、間もなく。
 祖父母が亡くなったのを経験していても何故か、椎葉は自分の父親が亡くなることなどいつまでも考えられないでいた。
 父は大きな男だった。体格こそ大きくはなかったが、芯の通った、強い男だった。
 椎葉は幼少の頃からずっと母親似と言われてきた。姉のほうこそ父親にそっくりで、気が強いと言われ続けていた。いつかそれを茅島に話したら、声もなく笑われてしまった。
 一度、茅島を実家の家族に会わせたことがある。あれは何年前の正月だったか。
 年老いた母や、すっかり母親になってしまった姉が、茅島のことをどう思ったか知らない。
 ただ、東京で世話になっている人だとしか紹介できないことに、椎葉は多少なりとも心を塞がれた。


「駅前の不動産の件ですが、一度税理士さんと相談させて下さい。場合によっては手を引いた方が得策かもしれません」
 堂上邸の小さな和室で、椎葉は堂上会長と対峙していた。
 人払いをする気はなかったが、いつの間にか誰もいなくなっている。椎葉も特に誰かにいて欲しいと思わなかったし、会長も誰かを置いておきたいと思ったわけでもなさそうだ。
 椎葉が堂上会の顧問弁護士として務めるようになって、六年目になろうとしている。
 最初は枯れ木のようなこの老体の中に潜む気迫を感じただけで呼吸すらままならないと思ったものだったが、今はどうということはない。
 尊敬こそすれ、むやみな恐怖心などない。畏れと恐れは別のものだ。
「そうだな。今は難しい時期だ」
「ええ。市民の反感を買うわけにはいきません」
 椎葉が肯くと、会長が細く長い息を吐いた。思わず視線を向けると、会長もまた椎葉を見ていた。今日は少し顔色がいいようだ。
 念に一回の人間ドックで糖尿病の疑いが言いつけられてから、会長の体調が芳しくないと聞いている。とはいえ足腰はしっかりしていて、糖尿病にならないためにも運動をする必要があるのだと、茅島が付き合っている早朝散歩は三十分延長された。
「お前に任せる」
 節くれだった手の甲をひらりと振って、会長がまるで子供のように言い放った。
「……え?」
 思わず椎葉が目を瞬かせると、そっぽを向いてみせた会長が横目で椎葉を窺う。
「お前ももううちの息子みたいなものだ。盃こそ交わしてないがな」
 顧問弁護士とはいえ、余所者であることには変わりない。
 こうして会長と二人きりでいても、それが全面的に信用されているというわけではない。会長に何かあれば椎葉はもう二度と、この屋敷から外に出ることはできないだろう。
 籠の中にいるから、会長と二人でいさせてもらえるのだ。
 今まで誰か人をつけていたのは椎葉のためだったといえる。
 椎葉は堂上会の人間ではない。それは誰にも明白なことで、疑いようがない。茅島でさえ、そう言うだろう。
 それなのに、会長自らそんな事を言い出すとは思わなかった。
「いえ、あの――」
「なんだ、不服か?」
 そういう問題じゃない。
 椎葉が表立って堂上会の人間だなどと名乗ることはできないが、信用してもらえるのは素直に嬉しいことだと感じる。言葉数が少なく、しかし眠れる獅子のように研ぎ澄まされた迫力のある姿は、椎葉に父を思い出させた。
 警察官だった父は暴力や法に背く行為を良しとしない厳格な男だったが、それが何故か堂上会長に似ているような気がした。
 父の存命中、椎葉は父が苦手だった。しかし、今となっては堂上会長の中に父を見出して懐かしい気さえしている。
 だから信用されることは誇らしい気持ちにさえなった。父が元気な内には見せることが出来なかった弁護士バッチを、会長に認めてもらえて。
「差し出がましいようですが、そのようなことを仰られては幹部の中に不満も生まれるかと――」
 椎葉は畳の上に視線を伏せて、言葉を濁した。
 以前、能城の息のかかった人間に拉致されたことを思い出す。
 こんな仕事をすると決めた以上、危険な目に遭うこともあるだろうとは思っていた。それでも、進んでそうなりたいと思うものではない。
「なんだ、そんなことか」
 枯れた声で、会長が笑った。
 笑い事じゃない。椎葉が顔を上げると、会長が手を叩いた。
「おい、大征」
 まるで犬でも呼ぶかのように気軽に二、三度と声を上げると、すぐに廊下に面した障子に影が写った。板張りの廊下を歩いてくる微かな足音だけでわかる。
 茅島だ。
「先生お帰りですか」
 廊下に膝をついて障子を開けた茅島と、視線があった。
 庭から差し込む瑞々しい光を背負った茅島の姿は、はっとさせられるほど美しく見える。自分はこんな男に愛されているのだと思うと、胸が甘く疼いてくる。
「いや、先生がお前のことを信用出来ないと言うもんだからな」
「っ、!」
 会長、と喉まで出かかった言葉を無理やり飲み下す。それでも思わず立ち上がりかけた腰が浮いて、椎葉はじっとりと汗ばんだ掌を畳に押し付けたまま、茅島から視線を逸した。
「……、そうですか」
 茅島がこちらを見ているのが痛いほど伝わってくる。
「俺は、お前と先生は仲良くやってるものだと思っていたからな。何があったのかと――」
「っ……」
 会長の声は完全に揶揄っている類のものだ。
 椎葉は頭を抱えたい気持ちを堪えて、その場で深く項垂れた。他愛のない冗談といっても、下手な対応をすれば失礼になりかねないのがこの世界だ。それでなくても微妙な問題なのだ。
「――親父」
 小さく息を吐いた茅島が、呆れたようにぽつりと零した。
 茅島が会長を親父と呼ぶのを聞いたのは初めてではないが、それは茅島が一人の時の話だ。会長を親父と呼ぶのだと茅島から聞いただけで、会長本人にそう呼びかけているのを聞いたのは初めてだった。
 思わず椎葉が顔を上げると、茅島が首を竦めて笑いかけた。
「先生が困っておられる。つまらん冗談はやめてください」
 茅島がそう言うと、会長もまた声をあげて笑った。
「悪かった。……まあ、俺がお前のことを息子のように思ってるのは紛れも無い真実だ。大征と同じようにな」
 茅島が静かに息を詰めたようだった。
 椎葉も、茅島と同列に語られるとまた違った重みを感じる。どんな表情をしたらいいかわからなくて、椎葉は黙って頭を下げた。
 静かな和室に、自分の心音が漏れ聞こえてしまわないかと心配になる。
 早くはないが、強く、鼓動が打っている。椎葉を窺っている茅島の体温がすぐそばまで伝わってきているかのようだ。一刻も早く、その熱に身を凭れさせてしまいたい。
「これからもよろしく頼む」
 会長が静かにそう言うと、椎葉はどうしてか、泣き出したい気持ちにさえなった。


「先生、今日は外で飲みませんか」
 胸がいっぱいの気持ちで茅島の助手席に座ると、エンジンをかけるや否や茅島が言い出した。
「外で? ええ、構いませんが」
 あまりに唐突な申し出に椎葉が目を瞬かせると、茅島は横目で椎葉の様子を一瞥して、ハンドルから左手を伸ばして椎葉の髪に触れた。
 視線は前を向いている。しかし、茅島の全神経が椎葉を意識していると感じられた。
 そう思うこと自体、自惚れかも知れない。
「今度うちでオープンする店なんですが、内装が出来上がったので先生をご招待したくて」
 椎葉の髪をひと撫でしてまたハンドルに戻ってしまった指先を名残惜しく眺めて、椎葉は小さく肯いた。
 茅島が百坪余りの店舗を新規オープンさせることに関しては半年以上前から相談を受けていたから知っている。経営状態が悪いわけでもない他の店舗を潰してまで作る力の入れようで、そのせいでこの一ヶ月はなかなか会えない夜もあった。昨夜も、一昨日の夜も。
 茅島が仕事で忙しいのは仕方のないことだ。毎晩会いたいのだなどと、子供じみたわがままを言いたくはない。会えない分を、茅島はこうしてしっかりと埋めてくれるのだから。
「先生? 気が進みませんか」
 黄色信号で減速して、茅島が助手席の椎葉を窺った。
 今自分がどんな顔をしているのか、椎葉にはわからない。確かめようとも、俯こうとも思わなかった。甘えだ。茅島にはどんな気持ちをぶつけてもいいものだと、甘えている。
「私が最近で一番力を入れた店です。先生に一番に、見せたくて。でも気が進まないようでしたらまた日を改めても――」
「気が進まないのではありません」
 言いたいことは山ほどある。
 茅島の仕事は女性を雇うことでもあるから、椎葉に会えないほど仕事で忙しい夜には女性と一緒だったのだろうと思えば焼きもちを妬きたくなる気持ちもあるし、外で飲むことは茅島に思う存分甘えることができないことでもあるから、それが少し寂しいという気持ちもある。
 とりとめのない、些細なわがままはいくらでも浮かんでくるが、何よりも。
「――……先生と呼ぶのを止めてくださったらすぐに、はいと答えます」
 椎葉が拗ねた口ぶりでポツリと答えると、椎葉を覗き込んだ茅島が一瞬、面食らったように静止した。
 それを視界の端で見ていながら、椎葉は助手席に身を沈めて首を竦めた。
 どんなわがままも、大したことではない。ただひとこと、茅島が甘く囁いてくれるだけで帳消しになってしまうようなことだ。
「……譲さん」
 ふと、吐息混じりに茅島が口調を改めた。
 交差点の信号はまだ、椎葉の味方をしてくれている。もう少し、茅島の唇が椎葉に届くまであと一分足らずでいいから、青く変わらないで欲しい。
「店で飲んだ後は、あなたの家までご一緒させて下さい。願わくば、朝まで」
 濡れた囁き声を吐く茅島の唇が椎葉の肌を撫で、下唇を噛んだ椎葉の鼻先まで落ちてきた。
「さあ、肯いて下さい。そうでないと、あなたを攫ってしまいますよ。私があなたのことを誰より愛していることをお忘れですか?」
「……忘れてしまったかも知れません。二晩も、放っておかれたものですから」
 言いながら、椎葉はすぐにでも茅島の唇に貪りついてしまいそうになるのを堪えた。
 こんなどうしようもないわがままを口にするなんて、自分らしくもない、恥ずべきことだ。体が熱くなってくる。でも、茅島は椎葉の少し反り返った上唇の先端に短く吸い付くと、胸を焦がすような深い慈愛に満ちた笑みを零した。
「忘れてしまったなら、思い出させてあげますよ。今晩、……嫌というほど」
 椎葉の耳にだけ辛うじて届くような、小さな囁き声。
 椎葉がその擽ったさに思わず目を閉じると、茅島の唇が椎葉の吐息を乱暴に吸い取った。後続の車からクラクションを叩かれても、暫くそうしていた。