猟犬は傅く(2)
茅島Ⅰ
枕元の携帯電話が震える音で、目を覚ました。
発信者の耳にワンコールを響かないだろう間にすぐさまそれをベッドから取り上げる。通話ボタンを押すより先に傍らの椎葉の寝顔を窺うと、まるで死んだように眠っている。
実際、数時間前の椎葉は茅島の腕の中で、失神したのか眠りに落ちたのかわからないような有様だった。
少し、乱暴が過ぎたかもしれない。茅島は呼び出しを続ける携帯電話を片手に握りしめたまま、深く呼吸を往復させている椎葉の鎖骨についた自分の噛み跡を指先でそっと撫でた。
「――……ん、っ……」
瞬間、ぴくりと顎先を震わせた椎葉が身じろいだ。
寝言ひとつでさえ、悩ましく聞こえる。冴え冴えとした白い肌が上気していたことはついさっきのことだ。茅島が頬を撫でると、表面はまだ湿っている。汗か、唾液か、あるいはどちらのものとも知れない精液かも知れない。
初めて乱暴に抱いた夜に比べて、椎葉は随分と淫蕩になった。それは椎葉自身も自覚していることだが、茅島にとっては正直誤算だった。
今まで、いろんな女と夜を共にしてきた。長い付き合いだったこともあるし、性を商売にしている女も、初心な少女のような女を抱いたこともある。しかし、椎葉を知った後では彼女たちはどれも同じだった。当然だ。茅島が変わらなかったのだから。
今椎葉は、茅島の劣情に恥じらいながらも、欲望を覚え始めている。はじめの頃とは違って茅島の深い愛情を知った椎葉は、乱暴にされるほど全身を打ち震わせて恍惚としながら茅島を誘惑さえする。
椎葉が淫蕩になったことは、茅島がそれほど椎葉にのめり込んでいるのだということを明らかにしているように思えた。
性技を覚えることは誰でもできる。しかし、その細胞の一つひとつを悦びで満たすのには、とめどない愛情がなくてはならない。一度覚えた悦びを、もっと満たされたいと渇望し、互いに貪り合うような交わりをするのは、茅島にとっても初めてのことだった。
性にぎこちない椎葉も、茅島の腕の中で蕩けるようになっていく椎葉も、時折見せる妖艶な表情の椎葉も、茅島を夢中にさせる。
自分の無骨な手で触れて汚してしまいたくないと思う一方で、細い腰を乱暴に引き寄せて粉々に砕けてしまうまできつく抱きしめたいとも思う。
椎葉を幸せにしたい。
彼が存分に笑い、怒り、拗ね、泣き、無防備な表情を晒してくれている今のこの時が、永遠に続けばいいと思える。
「――しま、さ、……」
寝返りを打った椎葉が、何事かつぶやいて茅島の指先を握った。
起こしてしまったかと一瞬肩を強張らせた茅島に、椎葉の寝息が聞こえてくる。
茅島は小さく息を吐いて笑うと、未だに手の中で震えている携帯電話の通話ボタンを押した。発信者は、若い構成員だった。
『夜分に失礼します』
電話の向こうがざわついている。怒号も飛んでいるようだ。トラブルのまっただ中ということか。
茅島は携帯電話を肩に挟んでシャツに袖を通すと、ベッドを滑り降りた。
「どうした」
脱ぎ捨てた下着とスラックスを着けて、足早に椎葉の私室を出る。明かりをつけずに階段を下り、階下にある椎葉の事務所まで着くと応接セットのソファに腰を沈めた。
まだボタンを留めずにいるシャツの中の素肌には、椎葉の身体の感触が残っている。しかしそれから引き剥がされるような、戦場の気配が耳元に聞こえてきていた。
『店が襲撃されました。二時過ぎに店内に火炎瓶が投げ込まれ、店内に残っていた人間が表に出たところを、鉄パイプで殴られています』
まるでチンピラのやり口だ。この程度のことなら高校生だってやるだろう。少なくとも、渡世人のやり口じゃない。
茅島は乱れた前髪をぐいと掻き上げると、座ったばかりのソファを立ち上がった。
「店の従業員に怪我人は」
『ボーイが三人、やられてます。タマは無事ですが、何箇所か骨折しました』
スラックスのポケットに入れたままの車のキィに触れて、事務所を飛び出る間際、椎葉の私室へ向かう階段を仰ぐ。
名残り惜しい気はするが、起こすわけにもいかない。
茅島はほんの数秒で決断をして、階段を降りた。
「病院へは搬送したのか」
『はい』
「うちの人間に怪我人は」
『ありません』
茅島は舌打ちをひとつ零して、愛車のBMWに乗り込んだ。
『やった人間はその場で抑えました。吐かせますか』
「今、店に向かう」
茅島はそれだけ告げると通話を切り、運転席のシートに座りなおしてシャツのボタンを止めた。皺になっている。こんなシャツを着けたまま外を出歩くなんて、昔なら耐え難いことだった。しかし今は、これでもいいと思っている。椎葉がすがりついた跡のついたシャツを着て、敗けるわけにはいかない。そう思える。
茅島はシャツを自分の掌で一度握り締めると、車を発進させた。
案の定、茅島の店を襲撃したのは年端もいかない子供だった。
チームだかなんだか知らないが、茅島のシマの外で悪さを働いている子供らしい。本人は自分を有名だと思っている口ぶりだったが、茅島は聞いたこともない。これでも、見込みのある人間なら子供でも気にかけているつもりだが。
茅島の店に嫌がらせを受けるのはこれが初めてではなかった。
大型店舗を構えると決めた時から、最初は不動産問題、次は施工業者に、応募したスタッフの中に、それぞれ迷惑行為を命じられて潜り込んでくる人間はいた。
ハコが出来上がってからは汚物を大量に投げ込んでくる外国人もいたし、しかし人的被害が出たのは今夜が初めてだった。
内装が出来上がり、オープンが控えていたというのに壁も焼け焦げている。とっさに消防車を呼ばなかったのは、これまでの嫌がらせのお陰で茅島の組の人間を張らせていたのが幸いした。
オープン前に小火騒動など、あまり聞こえのいいものじゃない。
「誰に頼まれた?」
焦げ臭くなった店内で、一人の少年を前に茅島は優しく尋ねた。
自称十九歳の少年は人を馬鹿にしたような笑顔を浮かべて、黙り込んでいる。そんなふうに舐めた表情をしていれば相手が苛立つと思っているのだろう。
今まで、その程度の敵にしか会ったことがないということだ。
「うちの店をオープンできないようにすれば、いくらの補填が必要だと思う? お前に払えるとは思えないな。誰に払ってもらえばいいのか、と聞いてるんだ」
少年を縛り上げるような真似はしていない。
今のところ、少年の頬にかすり傷がひとつ付いているきりだ。これは軟禁でもなければ、力づくで吐かせようとしているのでもない。極めて穏便な、話し合いだ。
とは言え、彼のしたことは犯罪だが。
「それとも、お前が払うか? 両親に支払ってもらうことになるかも知れないな」
少年は自身で未成年を名乗ったのだから、そういうことになる。
茅島が穏やかに話しかけても、少年はまるで茅島の言葉など聞こえていないという素振りで肩を揺らして笑っている。
思えば十文字も初めて会った時は茅島を馬鹿にしたような子供だった。しかし、あれは本当に恐れを知らない男だった。今にして思えば、十文字が恐れるものは人を喪うことであって、自分に危害を与えられることを何とも感じない、だからこそ茅島への畏怖もなかったのだろうと思う。
もっとも、礼儀がなってないのは問題だが。
しかしこの少年は違う。
茅島を恐れている、あるいは、自分に命令を下した"誰か"を。
恐怖心があるからこそ、自分を必要以上に大きく見せたくて、笑みを浮かべているのに過ぎない。あるいは彼も、多少なりとも薬を打っているのかも知れない。
薬物を入れれば、人はいくらでも気が大きくなる。
それは、強さではないのに。
茅島の脳裏に、柳沼の昏い笑顔が過ぎった。
「いい加減に何か言ったらどうだ?」
茅島は、気付くと少年の喉に腕を伸ばしていた。一瞬、少年が竦み上がったように目を瞠った。茅島の動きが早くて、気持ちが追いつかなかったのだろう。理性は残っているようだ。安心した。
「――俺に何かしたら、アンタがやべーんじゃねえの? 俺はイタイケな未成年だぜ」
しかしすぐにだらしない笑みを浮かべた少年が、大げさに両腕を広げて自分を大きく見せた。
「警察に保護してもらおうなんて思っているのか?」
茅島は少年の喉を掴んだ指先にじわりと力を篭めた。掌の中で、少年の熱い鼓動を感じる。
つい数時間前までは椎葉の肌を愛撫していた手の中で、見ず知らずの少年の頚椎が軋むような音を上げた。
「が、……ッ! ァ、……」
少年の手が茅島の腕にかかり、爪を立てる。茅島はそれをもう一方の手で振り払った。そんなことろに傷を残されたら、椎葉に何をしたのかと尋ねられてしまう。
「おじさんに話してくれる気になったか?」
茅島は、目を充血させた少年に微笑みかけた。肯きたくても、少年は首を掴まれていて思うようにいかないだろう。もはや、声も出ない。少年は目を見開くが、返事がなければ茅島にはわからない。
茅島に嫌がらせをしているのは、どうせ能城だろう。そんなことはわかりきっている。
暴力団とは無関係な若者や、不法滞在している外国人を使い捨てにするのは能城の常套手段だ。もはや隠そうともしてないのだろう。むしろ、あっちも火種が欲しくてたまらないのだ。正面切って叩けないから、茅島を子供だましの方法で挑発することしかできない。
「――……ヒ、っは……」
気絶する寸前で、茅島は少年の首に掛けた手の力を緩めた。茅島の手の上に泡混じりの唾液が伝ってきた。
少年の目には怯えの色が浮かんでいる。咳き込みたいくらい苦しいだろうに、しゃくりあげるように浅い息しかしていない。
茅島は、ほとんど照明をつけることのできなくなった店内をぐるりと見渡した。こうなる前に椎葉に見せることができたのは、何よりだった。しかし、その店が襲撃されてけが人が出たのだと知れば椎葉は茅島の身を案じるだろう。
椎葉の気持ちをざわつかせる罪は、金や人の命で贖えるものじゃない。
茅島はまたじわりと、掌に力を篭めた。
「ッ、! ァ、許し……許してくだ、さ……!」
少年が逃げを打つように椅子の上で身体をばたつかせたが、茅島はその首を引き寄せて双眸を細めた。
「人に迷惑をかけたことを許してもらおうと思うなら、その代償が必要なんだよ坊や。お前は何を代償に差し出せるんだ、と聞いているんだよ、俺は」
少年の体が小刻みに震えるのを感じながら、茅島は低く抑えた声で囁いた。