僕と君だけの世界(7)

 行為を終え、前回と同じように僕と武田はシャワーを浴びた。時刻は八時半を回っていた。
「今日は無理を言って悪かったね」
 浅い湯船から腕を伸ばして僕の背中を流しながら武田は言った。いえ、と僕は小さい声で答える。答えたあと、僕は思い切って口を開いた。
「僕も、逢いたいと思ってました」
 背中を往復するタオルの動きを止めて、その代わりに武田の相槌のような声が聞こえた。僕の言葉の先を促すような小さな相槌だった。
「僕は、僕の快楽を失ってしまったんです」
 言ってから、やっぱり失敗したかなと思った。僕は自分について具現化することが好きじゃない。だから口数が少ないとよく言われた。普段はそれでも別に良いと思っていたけど、思い切って話す必要に迫られ、話す機会を得るとやっぱり今のように後悔する結果になる。
「以前は、僕のことをどう思ってるのかと尋ねることが僕の快楽だと思っていました。でも、それは違った」
 武田の手に握られた泡だらけのタオルを受け取りながら僕は体の向きを変えて武田を見た。武田も僕を見ていた。彼に目を逸らされたことはないように思う。
「武田さんが気付かせてくれたのだけど、武田さんの所為だと言ってる訳じゃありません。ただ――……武田さんにもう一度逢えれば僕の新しい、もしくは正しい快楽が見つけられるんじゃないかと思いました」
 今回も僕が先に目を逸らしてしまった。逸らすだけじゃ足りなくて、目蓋を閉じた。強く閉じた。珍しく、自分を嫌悪した。
「それで、見つかった?」
 静かに口を挟んだ武田がどんな表情をしているのか僕には見当もつかなかったし、見たいとも思わなかった。ただ、武田の指に回った指輪だけが目蓋の裏に鮮明に思い出された。
「セックスは瑞帆くんにとって快楽ではないんだね?」
 僕は頷いた。頷いてからしまった、と思って武田の顔を仰ぎ見る。ごめんなさい、と言うのもおかしいし、僕は口に手を当てたまま黙ってしまった。武田はわざとらしく僕を非難する表情をして見せたあと、歯を覗かせて笑った。
「そりゃないよなー。おじさん傷ついちゃうよ」
 どうして良いか判らず頭を下げた僕の頭を、武田は虐めるように掌で押さえ込み、ぐりぐりと撫でた。そうして僕に濡れた床を見せたまま
「今日、婚約をしてきたんだ」
 武田は言った。
 指輪の嵌まった左手の薬指。僕はそんなことは判っていた。でもそれが僕の求めている答えではない筈だ。
「もちろん女の人とだよ」
 武田は声を上げて笑った。どこか虚ろな笑いだった。武田らしくない、と思った。
 僕は彼の何も知らない。二度会って二度寝ただけだ。二度、買われただけだ。僕は彼に対してただ理想を押し付けているだけなのかも知れない。それでも、そんな笑い方をされるのは悲しいと思った。何が悲しいのかは知らない。僕の理想である武田が自分の思い通り生きてくれないから悲しいのか、或いは僕が、女性を愛することも、まして武田のように男を愛することも出来ない事が悲しいのかも知れなかった。
「結婚するんだ」
 武田は僕の理想だった。二度しか会っていないからそう思えたのかも知れないし、武田が僕に答えをくれる相手だから過度な期待をしたのかも知れない。
 武田は結婚するんだと呟くように繰り返したきり、僕の頭から手を離して黙り込んだ。それ以上僕に掛ける言葉を持ち合わせていなかったのだろう。それが答えなんだろう。
 僕にとって武田こそが快楽だった。
「僕にだって一緒に暮らしている女の人はいますよ」
 僕は顔を上げてそう言って、笑って見せたつもりだった。僕はこの世を渡るための笑顔くらい幾らでも上手く出来ると思っていた。でも今回は上手く出来なかった。顔に皮を一枚貼り付けているような錯覚を覚えた。笑顔という皮を。
「母親ってやつだろ?」
 武田に汚されて、武田に磨かれた躰が冷えていく。バスルームが寒いわけじゃない。でも、確実に僕の体は冷えていった。
「してることは同じですよ」
 薄い皮膜のような笑みは武田の顔をも覆い尽くした。その戸惑ったような瞳なら幾らでも見つめ返すことが出来る。
「家事に縛られているという点で?」
 シャワーのコックを捻って僕は冷えた体にお湯をかぶった。そうすることで顔面を覆い尽くす下手な笑顔の膜を洗い流すことも出来そうな気がした。
「勿論それもですけど、――セックスも」
 熱湯と言っても差し支えないくらいに温度を上げた飛沫を浴びると、僕はようやく上手く笑うことが出来た。その僕とは対照的に、武田の表情は凍り付いたままだ。
 僕がこんな事を話すのは武田が初めてだ。僕はずっと、母親に性的な関係を強要されていた。母は寂しい人だった。家で安らぐことも知らない父親に対する気持ちと、同時に躰を持て余した彼女は僕を溺愛し、しまいには一種の精神病に罹ってしまったのかも知れなかった。
 僕はセックスの意味もよく判らない内から女の躰を抱いていた。それは苦痛ではなかったけど、他の同級生達とは違ってしまったことが僕の気を重くさせた。セックスは僕の快楽じゃない。義務であり、哀れな母に対して僕だけがしてあげられる慰めでしかなかった。
 母の倒錯的な行動は改善されず、父は僕と顔すら合わせず、僕はやがて家に帰って母の相手をすることが鬱陶しくなってハンズの前に立ち止まった。ビルの谷間を通ってきた風が一時そこで吹き溜まるように、僕は自然にそこで時間を潰すようになって、僕の躰は今度は男に買われた。セックスは義務からビジネスにもなって、僕はますます快楽を見失って行った。
「僕は、僕の上で昇天する男の顔を見るのが好きでした」
 僕は呟いていた。
 お湯が床を打つ音だけがバスルームにこだまして、僕の呟きは武田には聞こえないかと思った。
「その瞬間、この世界は僕と、その見ず知らずの人の二人だけのものになった。僕は、……何処にでも逃げられる気がした」
 快楽なんて知らなくても生きていられる、そんなことは知っている。僕は今まで誰にも僕のことを悟られずに生きてこれたんだから。だけど僕は逃げ出したかった。行ってみたかった。ずっと、垣間見えるだけのその「刹那の世界」へ。
 武田が僕の頭をそっと抱き寄せた。それはひどく悲しい仕種だと感じた。バスルームに湯気が立ち篭めて、僕の表情を隠してくれる。僕は泣いていた。自分のためなのか武田のためなのか判らない。母のためなのか、それとももっと大きな塊に揺り動かされている所為なのか。
「君は何処へだって逃げられるよ」
 武田は僕の髪に唇を埋めて言った。水音に掻き消されそうなその言葉は、まるで武田自身はもう何処へも逃げられないのだと言っているように聞こえた。
「どこへだって、いつだって君が望む世界へ行ける、きっと」
 武田はそう言いながら僕の頭を祈るようにきつく抱き竦めた。その声があまりにも哀しく震えて、僕は何も言えなかった、武田を責めてしまうような気がして、何も言えないまま僕は数分後ホテルを出た。武田とはもう二度と出逢えないのに、何の言葉も口に出来ないまま別れた。



 僕はJR町田駅のホームで電車を待っている間、武田のことを努めて思い出していた。もう忘れることは許されない、僕の快楽。武田は言った、僕は何処へでも逃げることが出来るのだと。僕は武田に言えなかった言葉を、濁って、闇にすらなりきれない夜空に向かって丁寧に囁いてみた。
 ……だけどあなたは逃がしてくれない。
 しかしその言葉は騒々しく滑り込んでくる電車の音に紛れて、きっと誰の耳にも届かないまま、開くドアに押し寄せる人々の靴の裏で踏みにじられ、消えた。