天使の恋(3)

「いつものお願い」
 語尾にハートマークでもつけそうな勢いで、そこらのアイドルも裸足で逃げ出すような中世的な可愛らしい顔立ちが俺の顔を覗き込む。
 昼のピーク、間食時のピークを過ぎ、夕食のピークを控えた絶妙な時間帯を狙って、あの日以来、彼は俺のバイト先に通っていた。
「お客様、ご注文をお願いします」
 顔を見ただけでムカムカしてくるというのに、こんな綺麗な顔が目の前にあったら、無視もしていられない。
「一週間も欠かさずに通ってるのに、まだ覚えてくれないの?」
 捨てられた子犬のようにしゅんと視線を伏せる彼の下唇が少し緊張したように噤まれた。寂しげに寄せられた眉根が微かに震えた。
「……俺の抱き方も忘れちゃった?」
 俺に一瞬の後悔の間も与えず、彼は不意に上目を上げると声を潜める。
「ッ!」
 オーダーを取るバインダーをカウンターに叩きつけ、目の前のふざけた馬鹿野郎を怒鳴り飛ばしてやろうと息を呑んだ瞬間、厨房から商品の乗った籠が滑り出てきた。
「Mポ、プレーンあがりー」
 店長の暢気な声。
 フライドポテトのMサイズとプレーンのホットドックが彼の定番だ。俺だってそれくらい覚えている。
「店長、まだオーダー通してませんけど」
 苦々しい気持ちで店長を睨みつけると、店長はお次はドリンクだと言っていそいそコーヒーシェイクを作り始めた。
 店長は若い奥さんがいるっていうのに、すっかり彼の見た目に騙されているようだ。
「響、レジ」
 コップになみなみと注いだコーヒーシェイクにストローを挿し、店長が無闇に威厳を振りかざした。
 仕方がない。俺はただのバイトだ。客を選ぶ権利なんてない。
「……693円になります」
 仏頂面で言うと、俺を上目で覗いたままの彼が、桜色の唇をへの字に曲げて訊いてきた。そんな判りきったことを訊かれるだけでも腹が立つってことまで、全て彼の計算通りなんだろうか。
「うるせぇ。早く金払ってメシ食ってとっとと帰れ!」
 頬の筋肉が痙攣したように引き攣るのを抑えながら、俺は腹から声を絞り出した。店長はもうすっかり、俺の彼に対する態度に離れた様子で一瞥もしない。
「えー、響のツケにしてよ」
 彼はというとしおらしい演技に飽きたように笑い出し、ふざけたことを抜かす。
「ツケが二万を超えたら、俺のこと響の家にテイクアウトして良いからさー」
 彼が気まぐれに笑っただけでも、周囲には一斉に花が咲き誇ったかのように明るさが満ちた。いくら俺が彼に対して憎々しい気持ちを抱いていても、それは仕方のない事実だった。
 自分の冗談に上手いこと言った、とご満悦な彼からは一切切実な様子は伺えないが、もしかしたら彼は本当に借金に苦しんでいて、一食の支出だって馬鹿にならないんじゃないだろうか。
 だとしたら、うちなんて安い方じゃないんだからもっと別の店でメシ食えよ、と思うけど。
「あ、でも響って一人暮らし? 家族と同居してたらまずいか」
 今更俺の事情なんて気にかける振りをしながら彼は質素な財布を開いて金を出した。
「そうそう、響んちのおばさん、こんな美形見たら腰抜かすよ」
 事情も知らない店長は笑い声を上げながら頷いている。
 勿論彼が言っているのは店長が思うようなただの冗談じゃなく、二万でまた買春しろ、という誘いなのだ。
 ホント、いつバラされるか判ったものじゃない。いなくなれ、すぐにでも。
「そーいえば、おばさんもう向こう行ったのか?」
 俺のささやかな願いが届いたのか、大人しく客席についてくれた彼の後姿を見送って店長が思い出したように言った。
「ああ、この前。いつまでもこっちから通うわけにいかないし」
 マンションの借り手が決まらずに、こっちに住んでいた母は、俺だけを置いて新しい仕事先へと引っ越してしまった。俺は不動産屋との連絡も兼ねて、――店の新しいバイトも決まらないし、まだ一人で居座っていた。
「このままこっちで一人暮らししちゃったらどうだ? うちに就職して。向こうで新しい仕事探すのも面倒だろう」
 確かに店長の誘いは有難かった。この歳でまだ母親と一緒に暮らすというのもやり辛かったし、どうせいつかは母親の面倒を見ることにはなるのだと言っても、母はまだ若いし、もしかしたら新しく彼氏の一人でも欲しいかも知れない。
 俺は、空席だらけの店内をちらりと見渡した。
 ドラマか映画か、はたまた絵画を切り取ったかのように、夕日の射し込む店内で眸を細めながら食事を摂る、天使の姿。
 あいつがこの町にいる限り、俺にはこの町を出て行く必要がある。
 これ以上いい鴨にされてたまるか。
「ひびき」
 疎ましく睨みつけるつもりが、いつの間にかぼんやりと見惚れるように見詰めてしまっていた俺の顔を、彼が振り返った。
 視線が合う。不覚にも、心臓が高鳴った。
 悔しいことにあいつの悪いのは性格と根性だけなんだから、名前を呼ばれて何か期待してしまうのは仕方がない。
「灰皿ちょうだい」
 俺の心を見通したように、彼はにっこりと笑った。こんなパーフェクトな笑顔を向けられたら騙されるなという方が無理なのかも知れない。店長は、もうすっかり鼻の下を伸ばして見惚れてしまっている。
 ……一度騙されただけに、俺はぐっと心を引き締めるけど。
「何だお前、煙草なんか吸うのか」
 灰皿を持って、カウンターを出る。
「うーん、時々」
 薄い貝殻のような爪がついた、男のものとは思えない指先にケチャップを垂らし、それを舌先でぺろりと舐めてから俺に手を伸ばす。指先が触れ合ってしまわないように厳重な注意をし、なおかつそれを奴に覚られないようにしながら俺は灰皿を渡した。
「借金が出来る前は普通に吸ってたんだけどね」
 高いよね、煙草って、と言って彼は素っ気無い煙草を取り出した。俺と同じマイルドセブンだった。
「なあ、お前」
「ちゃんと名前で呼んでよ、ひびき」
 拗ねた仔猫のような瞳で俺を見る。それだって俺の名前じゃねぇよと突っ込みながら、俺は奴の隣に腰をかけた。
「えーと、何だっけか」
 名前。確かにあのホテルで聞いた気がするけど、あの時俺は夢の中に漂っていたかのようで、全く記憶がない。
「トムだよ。藤井、武」
 煙草を一本、唇に挟んだ彼が短く答えると、確かにそんなことを言っていたような気もした。しかし今の彼はその自分の名を吐き捨てるように雑に言って、やっぱりあの時とは別人のように思えた。
「武、さ」
 呼び捨てにしてからしまった、と思った。
 なんだか親しくなってしまったかのような錯覚にとらわれて。知人にすらなりたかないのに。
「借金って……いくらくらいあるんだよ」
 店のマッチで煙草の火をつけ、口先だけで煙を吸い込む彼がちらりと俺の顔を見て、それから店の床を見た。何か計算をするかのように少し難しい顔をしてから、それでも冗談や嘘を言っているのではないような真顔で
「今残ってるのは、五百万――くらいかな」
 何でもないような口調で武が答えた時、店長がコーヒーを持ってきてくれた。時計を見ると丁度休憩時間だった。
「今残ってるって、……もともとは?」
 こんなことを聞くものじゃないかな、と思って俺は少しばかり後悔したが、俺がフォローの言葉を探すよりも前に武は唇から薄く煙を吐き出し、指を三本、立てて見せた。
「三千万」
 さらっと言われてしまった。
「何年かかってるんだよ、ここまで」
 三千万なんて、しがないフリーターには現実味の沸かない値段だった。武のフライドポテトに手を伸ばすと、何も言われなかった。遠慮なくつまみ食いした。次回来店時にオマケしてやればいいことだ。
「寝る間も惜しんで、ひびきがしてるみたいなバイトを掛け持ちしてた頃は、一ヶ月で十五万も返せなくて……生活費も必要だったし、返す前に同じ分くらい利子がついちゃってたけど」
 まるで今日の天気を話すかのような口振りで武は言い、俺はますます判らなくなった。実際に苦しんでいる人ほど、こんなものなのかもしれない。
「バイト、いくつくらい掛け持ちしてたんだ?」
 親の買ったマンションでのうのうと暮らしている俺を恥ずかしく思った。
 六万くらいのことで目くじら立てなくたって良いんじゃないか、とすら思えた。それこそ、……やることはやったんだし。
「四つくらいかな」
 まだ長い煙草を灰皿に預けると、武はシェイクにささったストローを咥えた。その仕種が妙に艶かしく見えて、俺は目を伏せた。
「でも体壊して続けられなくなって、今の仕事になって……月五十万くらいは返してるから、あと少しだ」
 単純に考えてあと十ヶ月。でも利子だってものすごいスピードでついてるんだろうから、一年以上はかかるのかもしれない。
「いつから返してるんだよ?」
 俺は紙コップのコーヒーを飲み干して、時計を見上げた、もう少しで休憩時間が終わる。
「十六の時から」
 やっぱり大したことでもないかのように、武は言う。
 その時からバイト掛け持ちってことは、
「お前、学校は?」
「行ける訳ないじゃん」
 別に珍しい話でもないでしょ、と言って武は小さく笑った。
 
 悔しいけど、気になる。
 これがもしかしたらまたあいつの巧妙な作戦なのかも知れないと思うけど、それにしては武の演技は真に迫りすぎていた。借金苦を前面に押し出したいならもっとお涙頂戴もののエピソードの一つでも俺に聞かせるべきだったのだ。
 武がさらりと答えたことが、俺の心に引っ掛かって、気になって仕方がなかった。バイト中も上の空になるくらい、あいつのことが気になる。
 三千万もの借金を、どうして十六の少年が返さないといけないんだ。
 それを武に訊くことは憚られたが、たとえ俺が訊こうと思っても、訊くことは出来なくなった。
 あの話をした日以来、武は俺のバイト先に来ることはなくなった。