天使の恋(2)

 財布の中には軽く、5~6万は入っていたと思う。大体、何で俺があんなところをうろついていたかというと買い物に出ていたんだから。
 俺は正気に戻るとまず、携帯を手にして財布に入っているキャッシュカードの使用を止めた。
 金を盗られたって事実もイタイけど、それが男にうつつを抜かしていた間にってのが更にイタイ。こんなこと他人に話せやしない。そもそも金で人を買ったことだって話せないし――合法の風俗でもないし――寝てる間に財布ごとスられるなんて、一昔前の作り話のパターンじゃねぇかよ。
 しかも、相手は男。
 俺は携帯電話の通話ボタンを押しながら、彼の顔を思い出していた。
 天使のようだ、と思ったのに。
「……畜生」
 悔し紛れに小さく呟く。
 俺が彼の美しさに鼻の下を伸ばしている間、彼はどんなにか笑い出したい気分だっただろう。
 天使が見せた涙の裏に、俺が見抜くことの出来なかった悪魔の微笑を思うと、腹の底から大きな溜息が漏れた。

 金を盗られた、なんて誰にも言えないまま、数日が過ぎた。
 時間が経てば経つほど俺の気持ちは重くなった。俺のバイトの給料半額分も呆気なく泡と消え、彼の顔を思い出すこともないでもなかったが、それはもう憎らしいものになっていた。
 あの借金なんてのも真っ赤な嘘で、今頃俺から騙し取った金で遊び暮らしていたら、末代まで祟ってやる。あのキレイな顔で、女をはべらせて、俺の金で束の間の豪遊を楽しんでいたとしたら……。
 ああ、畜生。こんなことならもっと酷いことをしてやれば良かった。それこそあの整った顔を、金に物言わせて嬲り、陵辱して、彼が泣き叫ぶまで犯してやれば良かった、――そう思ってから、俺は深い自己嫌悪に陥った。
 金でホモを買っておいて言っても我ながら説得力ないと思うけど、俺は純愛志向なんだ。きっとそんな酷いことをしたところで、やっぱり気持ちは今よりも重くなっていただろう。
 また、溜息がどっと溢れてきた。
「どうした? またでっかい溜息吐いて」
 店長から背中を叩かれて、俺はようやく我に返った。
「あ、お早うございます」
 俺が学生の時分からお世話になっているこのファーストフード店では、それが夕方だろうと深夜だろうと、お早うございますというのが挨拶になっている。
 夕飯時のピークを控えて出勤してきた店長がエプロンの紐を背中で結びながら口許を綻ばせた。
「恋の悩みか? お兄ちゃんに話してご覧」
 バイトの女の子と恋に落ち、とっくに結婚を済ませた店長が兄貴面をして言うが、俺は苦笑で答えた。
 これが、もう一度彼に会いたいという切ない恋の悩みだったらならどんなに良いだろう。もし、今もう一度彼に会うことが出来たなら、俺は間違いなく彼の首を絞めるだろう。金の恨みではなく、騙されたことへの恨みで。
「そう言えば引越しの準備は済んだのか?」
 長い付き合いで、俺の家庭環境をも熟知した店長が売り上げを確認しながらそれとなく話題を変えてくれた。
「ああ……はい、あと、少しで」
 父親のいない俺は、昔から母親が第一戦で働いていて、今度転勤するという都合で長く住んでいたこの地を離れることになっていた。この通りのフリーター風情では、一人暮らしに踏み切る理由も見つからなくて。
「判ったぞ」
 点検レシートを手の中で丸めた店長が、ぽつりと呟いた。
「え?」
 トレイを拭きながら店長の顔を振り返ると、店長は人差し指を立てて、俺の鼻先に突きつけた。
「こっちに置いていくオンナのことで悩んでるんだな?」
 お見通しだ、と高らかに宣言する店長の顔には冗談とも本気とも思えない色が浮かんでいる。店長だって、知っているはずなんだが。
「……何言ってんすか」
 俺は首を竦めて、レジに向き直った。
 彼女なんて、去年の夏に別れたきりだ。
 しかも自然消滅。俺が悪かったのだろうと思いながらも連絡し辛くなって、時だけが過ぎていった。デリケートな俺としては結構引き摺っているんだ。……その挙句、男に金を盗られるし。
 ああ、また思い出しちまった。
「いらっしゃいませー」
 トレイに顔を伏せるようにして自分の世界に没頭してしまった俺に、店長の声が響いた。自動扉の開く音。俺は慌てて顔を上げ、少しでも愛想よく笑顔を浮かべた。この時間帯は女のバイトが入らないから、少しでも気持ちの良い対応を心がけている。
「ええと、コーヒーシェイクと……」
 レジの前に背筋を伸ばした俺の顔も見ずに、客は俺の背後のメニューを仰いだ。
 ふと、視線が合う。
「こ」
 俺が、自分の表情が凍りついたのを感じた。
 静止した客と俺の様子を、厨房に引っ込んだ店長がじっと見詰めていた。
「――……の、野郎!」
 次の瞬間、俺は勢いに任せてカウンターを飛び越えていた。
「響!?」
 お客様にいきなり掴みかかった俺を、店長の怒号のような声が呼び止めた。しかし俺はそれどころじゃなかった。
「てめえ、金返せ!」
 店中に響き渡るような声で喚き、客の胸倉を掴む。
 艶かしいほど白い肌が垣間見えるその胸元を掴まれても、彼は微動だにしなかった。長い睫をあしらった瞳をしらっとそっぽ向かせて、俺の怒り心頭の表情などまるで何処吹く風だ。
「返せるわけないだろう? もう俺の手元には一線も残ってないよ」
 まるであの可愛らしく、しおらしかった彼と同一人物とは思えない憎らしげな声。勢いで掴みかかった俺ですら、もしかして他人の空似なのかと一瞬怯んだほどだった。しかしこんな美しい顔が、この世に二つとあってたまるものか。
「ふ、……っざけんな!」
 彼の襟元を掴んだまま、彼の身を前後に揺さぶる。怒りに任せた乱暴を働いても、彼の髪が揺れ、微かな芳香を漂わせただけで、何の反応も返ってこなかった。
「返せよ!」
 咽喉を裂くような声で怒鳴り声を上げると、彼がようやく視線を流して、俺の顔を見た。
「言っただろ? 俺借金返済してんだもん。一万でも五千円でも欲しいんだよ。そんで、それはそのままサラ金のにーちゃん達のところまで流れてっちゃうわけ。
 俺には冷え切ったハンバーガー食うのが精一杯。早くオーダー取れよ」
 うちでは冷え切ったハンバーガーなんて提供してない、と怒鳴り返してやろうとして、俺は思い留まった。それでは論点がずれてしまう。
「……あれは俺の金だ。
 お前が今一銭も残していなくったって、返してもらうべきものなんだ。返せよ」
 怒りを抑えた低い声を震わせても、彼は退屈そうに視線を逸らすだけだった。
「返せよ!」
 頭に血が上りすぎて、眩暈すら覚える。
 畜生、畜生!
 大した金額でもないと半ば諦めかけていたけど、こいつがこんなに頭に来る奴だと判った瞬間、一銭だってこいつにはくれてやりたくなくなった。
「殴れば?」
 胸倉を掴んだ俺の手がわなわなと震えているのを見て、彼はせせら笑った。
「殴れよ、ほら」
 そう言って、彼は目を閉じた。顎を突き出して、俺に無防備な顔を晒す。
 長い睫が頬に落ち、天使の羽で撫で描いたかのような鼻梁、薄くなく、厚くもないふっくらと濡れた唇――俺のものを舐め上げた、あの。
「……っ」
 俺が二の足を踏んでいると、彼はすぐに嘲笑った。
「殴れないのか? まさか、俺に本気で惚れちゃった?」
 ふわりと落としていた目蓋を薄く開き、彼が口端を緩やかに引き上げた。なんていやらしい表情で、笑うんだ。
「………………警察に突き出してやる」
 俺は唸るような声で呟いた。
「無理だよ、止めときな」
 奥歯を噛み締めた俺を、優しく諭すような声。
「だってあんたは俺を抱いたんだもん。気持ち良かっただろ?
 そう、……それに、勘定もあってるんだよ」
 俺に掴みかかられていることなど忘れているかのようなていで彼は上目で天井を見上げ、窄めた唇に人差し指を押し当てた。
「あんた、三回イったよな。……全部、俺の中に出してくれたんだよね。ありがと」
 惚けたような表情が、また天使の様な可愛らしい表情に見えて、心が揺らぐ。
 そんな俺を見透かしたように彼は、咽喉の奥で可笑しそうに笑い声を立てた。
「一回二万は払ってくれるって約束したんだし……三回イったんだから、六万。間違ってないだろ?」
 小学生でも計算できる、と得意げに言って、彼は口先の人差し指をおもむろに俺の唇へと伸ばしてきた。二の句を失った俺の怒りに戦慄いた唇を、優しく撫でる。悲しげに、眉根を寄せて見せたりして。
「それとも……俺が黙って帰っちゃったから怒ってるの? ごめんね、響」
 今にも泣き出しそうな切ない声で、彼はごめんね、と繰り返した。
 こんなのも彼にとっては、お手のものの常套手段なんだろう。判ってる。判っているのに、俺は、ますます返す言葉を失った。
「またしようか? いいよ、あんた腰強いし……今度は何回だってイかせてあげる。
 一発二万で、……そうだなぁ、十万くらい持ってきてよ。あんたのこと嫌いじゃないし、もうサイコーに感じまくってたの、あれは演技じゃないもん。
 十万で六階イかせてあげるよ。どう?」
 胸倉を掴んだ俺の躰に身を寄せて、耳元で囁く彼の声。その麻薬じみた甘い誘惑に、うっかりするとまた罠に落ちそうになった。
「てめえ……」
 彼の服を握り締めた手に力を篭めて、俺はようやくのことで思い留まった。
 何が十万だ、何が六回だ。
「何で怒るの? あんたのことが好きだ、って言ってんのにさ」
 そう言った彼は、爆笑という言葉が相応しいような大らかな笑い声を響かせた。
「ふざけんな!」
 言うに事欠いた俺が繰り返すと、彼がほくそ笑んだ。
「あんたのことホモだ、てばらしちゃってもいいの?」
 宝石のように透き通った眸が悪戯っぽく光る。
「……ホモは、お前の方だろう」
 咽喉を詰まらせながら、俺は声を抑えた。
「あんなに貫いてくれたくせに」
 再び唇を尖らせた彼が拗ねたように言うと、俺はまた言葉を失った。
 それを言われたら、もう何も言い返せない。
「いいじゃん、お互いすっごく気持ち良かったんだしさ。
 つまんないこと言うの止めようよ」
 自分の首元で震えている俺の拳を両手で握って、彼は小さく首を傾いだ。
 何がつまらないことだ、人の金を騙し取っておいて。
 俺がそう言い返そうと思った瞬間、
「ね?」
 そう言って、彼は俺に止めを刺すようににっこりと笑った。