深淵の天使(2)

 バスルームから、悲鳴のような怒号が響いてきた。
「何だ?! どうした、武」
 俺は作りかけの食事を放り投げて、慌てて駆けつけた。尋常な声ではないと思った。
 しかし、バスルームから転げるように出てきた武は首筋の一箇所を掌で覆うように抑えて、俯いていた。
「……キスマーク……」
 武の震える声が、唸るように絞り出された。俯いていた顔が、突如、ぎっと俺を睨み上げる。
「いつ付けたんだよッ! 俺知らなかったっ!」
 噛み付くような声に、俺は慌てて駆けつけたことを後悔した。
 武ともあろう者が、その程度のことで取り乱すなんてな、と含み笑いすら浮かんでくる。
「いつ、なんて野暮なこと聞くなよ。やってる間に決まってる。何、そんなことにも気付かないくらい感じまくっちゃってたわけ? 教育してやる、なんて偉そうなこと言ってた割には頼りない先生だな。キスマーク付けられるのは初めてじゃないだろうが」
 キッチンに引き返そうとしながら俺がせせら笑うと、武は言葉を失った。
 っかー! 気持ちいい! ざまァみろ。俺だっていつまでもからかわれてばっかりじゃいられねぇ。
 俺が武に踵を返すと、つん、とシャツの裾を掴まれた。振り向いた武の顔が赤い。
「はじ、……」
 耳まで赤くして、武が深く俯き、小さく呟く。
「え?」
「初めて……だよっ、付けられんのも……」
 唇を震わせて悔しげに――しかし恥ずかしそうに噛み付いてきた武の言葉に、今度は俺が唖然とする番だった。
「キスマークなんか一種の所有印だから、……いくらねちっこい客でも、付けさせたくなかったんだ、他の客に見られたら問題だし」
 武は戸惑うように視線を泳がせ、その合間に俺の顔をちらりと上目で窺い見てから、また逸らした。
「"シゴト"じゃなくセックスしたことなんかなかったから、……キスマークなんて初めてだったのに……」
 武の、俺のシャツを摘んだ手が震えている。深く俯いた武は、また泣き出したようにも見えた。なんだか俺は、激しい罪悪感に苛まれた。
「ご、……ごめん、武。それ、本当はお前がさっき寝てる間にこっそり付けたんだ。あの、初めてとか知らなくて、……気にしたら、ごめん」
 武に向き直って、俺も深く俯き、詫びる。
 客に付けさせないようにしてたってことは武がそういうことを大事に思っていたってことだろう。そんなに大事なことを、俺が悪戯でやっちゃったなんて、申し訳無い。
「あ―――そう。この嘘つきッ」
 がっくりと肩を落とした俺の胸を、小憎たらしい武の声が射抜いた。
 顔を上げると、キレイに整った武の顔が、しれっとして、俺を冷徹に見下していた。
「まぁ、……俺もひびきの寝込み襲ったことあるから同罪か」
 頭なんかボリボリ掻きやがって、……このヤロウ、顔を赤くするのもしおらしく恥らうのも、全部演技かよ!?
 寝込みを襲ったって何だ、前につけられたキスマークのことか?!
「けど、嘘ついたのと……初めてだってのはホントだし、お詫びにもう一個付けてよ。今」
 懲りずにまんまと騙された俺の顔を可笑しそうに見つけて、武が腕を伸ばした。するりと俺の首筋に絡み付いて、しどけなく躰を摺り寄せてくる。シャワー浴びたばっかりで裸だってのに、おい。
「い、……今?」
 俺が問い返すと、武はにっこりと笑った。
「ここに」
 と、俺が既につけたものよりもずっと目立つところを指先で示す。服を着ても、見えてしまうような場所に。
「早く」
 武は目蓋を静かに閉じて、顎を逸らした。無防備な首筋は白く、透き通っている。血管の青さが浮き、本来俺には殆どないはずの嗜虐意識すら呼び起こしそうなほど美しい肌。
「だけど」
 俺は言い掛けて、口を閉ざした。
 だけど、キスマークは所有印だって思うなら、俺がつけたりして良いのか?
「ひびき?」
 武が片目を開いた。俺の顔を覗き込んでくる。その眸は甘えているようにも見えた。
 俺は、武の濡れた髪の上にちょんと唇を押し付ける。
「……良いのか?」
 セックスもやりまくってる相手に、たかがキスマーク一つで良いのか、も何もないと思うけど。
「何言ってんだよ。俺が、しろって命令してんの」
 武の額に押し付けた俺の唇に、武が背伸びをして、キスをする。
「して欲しいんだろ?」
 命令じゃなくて。俺はうっかり、何の気もなしに口に出してしまった。一瞬後で、怒鳴り返されるかと思って、俺は目を閉じて怯えた。
 が、怒号は響いてこなかった。
 恐る恐る目蓋を開くと、武は顔を真っ赤にしていた。
「……最近、ひびきむっかつくよなぁ……」
 怒りのせいで赤くなってるのとは違うようだけど、吐き捨てるように――照れ隠しのように、憎まれ口を叩く。
「何、自信満々っていうか? 自惚れてんじゃねぇの? 俺が駄目って言ったって駄目じゃないだろ、とか言うし、何なの? 俺のことは何でも知ってるぜ、みたいなさぁ。本っ当、むかつくよ」
 けど、俺の体に抱きついたままだし、顔を赤くしてるってことは、
「図星だからだろ?」
 俺は半ば呆れたような心境で言った。武の体がビクッと竦み上がる。目を丸くして俺の顔を凝視し、口をパクパク、と無為に動かして――結局何も言い返すことが出来ずに、そっぽを向いた。
「思ったより判りやすいな、お前」
 俺は、笑いながら武の耳朶に吸い付いた。
「……ッ」
 ぴくん、とシャワーを浴びたばかりの武の背中が震える。その背中を抱きしめて、俺は耳の穴を擽るように舌先をそよがせた。
「……っ、ん」
 ビクビク、とたて続けに武の躰が震えて、俺にしがみつく。
「ば、ッ馬鹿、俺は、キスマーク付けろって言ってんだ」
 照れ隠しに喚き声を上げる武の唇を塞ぐように口付けて、たっぷりと唾液を含ませるようなキスをする。微かに身を捩る武の髪に手をかけて、キスを強要するように捕らえた。何度も唇を重ねなおして、舌の裏、根元まで全部嘗め回す。
「ン……あっ・ふ、ぅ」
 武の甘い声が漏れる。武も俺の頭を両手で包み込んで、キスを求めた。さっきまでキラキラと悪戯に輝いていた武の眸はとろんと閉じて、妖しく揺らめいている。
 武の唇の端から滴り落ちる唾液の筋を追って、俺は武の顎先まで啄ばむようにしつこく口付けた。武の足が俺の腰に絡まる。武の唇に戻り、また唾液を啜り上げて、充分にそうしていた後でようやく顔を離すと、
「一丁あがり」
 俺が唐突に言うと、
「……は?」
 急に目を覚ましたような武が素っ頓狂な声を上げた。
 ちょいちょい、と首筋を突付いてやると、
「―――っ!?!?」
 武はアメリカのアニメでみるような機敏さで飛び上がるんじゃないかというくらい驚いて、一気に挙動不審になった。
「何、気付かなかったの? 武ともあろう人がキスなんかに夢中になっちゃって?」
 武は色が白いから、すぐにキスマークが残るんだ。零れた唾液を拭う振りをしてキスマークを付けるのは難しくない。
「~~~~ッ!」
 手鏡を差し出してやろうとすると、武はめいっぱい口端を下げ、見るからに不貞腐れた。折角の可愛い顔が台無しだ。俺は、武の顔を窺うような振りをして顔を寄せると、不意打ちで首筋を吸い上げた。
「っ!」
 真っ赤な顔をした武がビクンッと跳ね上がる。
「ほれほれ、また一つ」
 武は茹でタコのようになりながら、唸り声を上げて拳を振り上げた。
「わ」
 殴られる、と思って慌てて避けようとした俺に、その拳は弱々しく落とされた。
「……っ、くやしい……」
 表情が窺えないほど深く顔を伏せた武が、か細い声で呟いた。
「た……――武」
 悔しいって言われてもなぁ……。武にそんなことを言わせた俺はちょっと嬉しいけど。まさかそんなこと言えっこない。
「もっとちゃんと、付けろよ」
 武に掛ける言葉を探す俺に、武が視線だけを上げて、睨みつけた。
「え?」
 聞き返すや否や、武は獣かよってくらいの勢いでいきなり俺の首筋に齧り付いてきた。
「ッ! 武」
 歯を立てて強く吸われ、武の食いついた一箇所に血が集中しているのが判る。――ていうかこれ、流血してんじゃないのか。
「おいっ」
 最初は驚いて、引き離そうとして武の肩を押さえていた手を、次第に抱き寄せるような腕に変える。
 ……良いんだ。
 もう観念することにしたんだ、最近は。惚れた弱みには勝てない。
 暫くちゅうちゅうと俺の肌に吸い付いていた武が、ようやく満足したのか――顎が疲れでもしたのか、離れた。
「これっくらい強く吸わないと、駄目だよ」
 相変わらず不貞腐れた声。負け惜しみだろう、と言いたい気持ちをぐっと堪えて武の頭をぽんぽんと撫でてやる。
「…………これくらい強く、吸ってよ」
 視線を伏せた武が、唾液に濡れた唇で、消え入るような声で付け足した。
 かあ、と、今度は俺の頭に血が上る番だった。
 なんだなんだ、不意打ちでそういうこと言うんじゃねぇよ。
 すると、武も照れたように俺に抱きついてきて、背中のシャツをぎゅうと握った。
「そんで……もっと、たくさん」
 どうしたんだ、武。またからかおうとしてるのか?
「いろんなところに付けろ」
 命令口調なのは、照れ隠しだろうな。
「……っ何か言えよ、馬鹿ひびきっ!」
 シャツを握った武の腕が、どすっとものすごい鈍い音を立てて俺の背中を打った。イテテ。
「何か、って」
 咳き込みそうになりながら俺が復唱すると、武は俺の胸に額を摺り寄せた。
「……だから、付けろって言ってんだよキスマーク。体中に、たくさん。今すぐ」
 俺の真の前で俯いた武に言われると、まるで哀願されているような気分になった。これは、つまり。
「別に、俺が押し倒してもいいけどな」
 やっぱりそれは、やろうってことだよな。今。
「あのな、武。でも俺今メシ作ってるし、バイトの時間もあるしだな」
 ゆっくりと言い含めるように諭すと、武はまっすぐ俺の眼を見詰めた。それから――駄々っ子がお気に入りのおもちゃを独占したがるように、ぎゅうっと、俺の腕にしがみつく力を強くした。
「武」
 その頭を撫でる。
 いつもならこの辺で笑い出しても良い頃だ。武にこんな風にされると、俺はまたからかわれているんだって判っていても、困りきってしまうんだから
「武、……そんなにしたいのか? 今じゃなきゃ駄目なのか」
 武の細い髪を指先にとって、さらりと落とす。擽ったがるように武が顔を伏せた。
「『したい』とか言うな。そういうんじゃないんだから、……色に狂ってるみたいに。俺はセックスなんて飽きて吐き気がするくらいにやりまくったんだから」
 武の声は鼻にかかっていた。……泣いてるのか?
 俺は胸が詰まって、武をきつく抱き返す。
「今じゃなきゃ駄目か? 帰ってきてからじゃ駄目か? ……武」
 武はもっときつく俺を抱いて、俺の気のせいかと思うくらい弱く頭を振った。
「武、寂しいのか?」
 バイト休んでやっても良いけど、そう付け足そうとした時、武はようやく顔を上げた。
「……また引っ掛かりやがって、冗談に決まってんじゃんか。ひびきもよく懲りないで騙されるよな。俺なんかその気になりゃ女も男もぼろぼろ言い寄ってくるんだから、ひびきが帰ってくるのを待つくらいだったら、手っ取り早くその辺の奴ひっかけるよ」
 赤くなった瞳を瞬かせながら、武はぎこちなく笑う。
「待ってろよ、武。店長に言って少しでも早くあがらせてもらえるようにするから」
 俺は武の顔を隠そうとするように、髪を抱き寄せた。
「『寂しい』? 馬鹿じゃんひびき何言ってんの?」
「な、待ってろよ? 武」
 か細い声で憎まれ口を叩き続ける武の頭を撫で続ける。しまいに武の声は吐息のように弱くなって、消えた。
「……ひびき、俺のこと好き?」
 暫くゆっくりと呼吸を往復させていた武が、ぽつりと呟くように言った。
「……あぁ、好きだよ」
 俺が答えると、武は静寂を破られた闇のように大きく全身を震わせて、俺の服を握り締める拳に力を篭めた。
「……もう一回」
「好きだよ」
 何度も言わされる内。武の腕はこれ以上俺をきつく抱きしめることが出来なくなって、俺は武に痛いと訴えたのだが、無視され、十数回も好きだと言う内に今度は俺が武を抱きしめないといけない番になった。仕方がない。武はもう自分の力の限りに俺を抱きしめているんだから、これ以上は俺の力が限界に達するまで抱きしめるほかない。
「もっと、もっと言うんだ、もっとたくさん、俺を好きだって、……だってひびきは、俺を好きで好きで好きで好きで、仕方がないだろう? だから、もっともっと言うんだ」
 そう言う武の声は震えていて、俺は俺のこの腕の力がいつまでも限界に達しないように、でも武の繊細な体を壊してしまわないようにと祈った。
「武はどうなんだ?」
 でも、俺がそう尋ねると、武は俺の体に頬擦りするように身じろいで、切ない声を絞り出した。
「ひびきは俺のだ、絶対、もう放さない」