天使の幸福(1)

 店長から問答無用の出勤停止命令を下され、俺は自宅療養一週間を余儀なくされた。
 その分、暫くの長い間まともに抱き合いもしていなかった武に酷使されるんだろうと覚悟を――あるいは期待を――決めていた俺に、武は思いもよらないことを言い出した。
「じゃあその分、俺が働かないと……」
 バイトが決まって早々長期休暇をとる羽目になった武は結局うちのバイトをクビという形になり、別のバイトを探さないとと求人情報誌まで貰ってきた。俺が退院した日に、その足で。
 度肝を抜かれた俺を横目に見て、武は含み笑いをした。
「何? 一週間ヤりまくろうと思ってた? 俺が働きに行っちゃったら寂しいんだろ」
 一応療養中ということでベッドに横たわった俺の顎に、武の指が這う。挑発するような手つきで。
「馬鹿言うな」
 うろたえながらそっぽを向くと、武はベッドに半身を預け、俺の横顔に唇を寄せてきた。
「仕方ないなぁ、ひびきは。俺が帰ってくるまでガマンしててね」
 囁くような声で言う、まんま昔、俺が武に言ったような台詞じゃねーか。
「まだバイトも決まってないくせに」
 俺の口元にぴたりと密着しただけの唇から、武の体温が染み込んでくる。それだけで俺は、何だかむずむずとするような、胸の奥がじんと痺れるような、劣情と幸福感が入り混じった気持ちになった。
 だけど口先だけは強がりで意地悪く言うと、肌の上で武の唇が笑う。
「大丈夫だよ、接客業とかだったら俺なんてモッテモテだもん。看板息子ってゆーの?」
 自分で言うなよ、と呆れながらも、俺は確かに、と胸中で深く頷いた。
 武がうちのバイト先のレジに立ったのはほんの一ヶ月くらいだったけど、日を追うごとに売り上げは良くなった。その殆どが女性客で、客と無駄口を叩かない武と会話を交わすためにお客さんは、長居する割りに注文点数も多くて助かった。
 でも、そんなの武を一目見た人間だったら当然予想できる効果だ。だからこそ、それを変に利用するような人間が現れないとも限らない。
「……変な仕事つかまされんなよ」
 俺の首筋に掌を這わせてご機嫌な武の背中に腕を回すと、武も珍しく素直に、うん、と答える。
 俺が顎先を少し動かしただけで、武はそれが合図であるかのように唇をずらして短いキスに応じた。
「やっぱり、うちで働いた方が良いんじゃないか?」
 クビになったとは言え店長の心象が悪くなったわけではないし、仕事だってきちんと覚えてる。俺が抜けた代わりに入ってもらうのには適任だ。
「いい、……俺、ひびきと別のところで働きたい」
 掠れた声が呟いた。離れたばかりの唇に吐息が掛かる。視線を上げると、武は目蓋を伏せていた。
 四六時中一緒にいたいと言ったのは武の方じゃなかったか?
「……傷ついた?」
 言葉をなくした俺に、武は両腕を回してぎゅうと抱きついてきた。ベッドの上に完全に乗りかかって、擦り寄ってくる。ヒヒヒとわざとらしい声を上げて笑った武の顔は、俺の肩口に伏せられて見えなくなった。
 俺はその背中をしっかりと抱きとめて、何も言えなかった。
「よく、……判んないけど、そうした方が良い気がするんだ」
 何も返さない俺に、武の声のトーンが落ちる。
「俺は、……一緒に暮らせるだけで幸せだから」
 俺を抱く腕に力を篭めた武の声は、寂しかったんだ、と言っているように聞こえた。
 武は今まで、幸せなんて他人のものでしかなくて、自分が幸せになる順番なんて回ってくることも期待してなかったんだろう。自分にないもの、存在しないものなら手に入れられないからといって悔しがる必要もないし、羨むことも苦しむこともなかった。
 だけどきっと武の心はずっと無自覚なまま寂しくて寂しくて、その気持ちが麻痺して何も感じられなくなるほど、寂しかったのに違いない。
 だから武は、今まで恋愛なんてしたことがなかったとしても、溺れてはいけない、全てを束縛してはいけない依存してはいけないと、本能で感じ取るんだろう。
 全てを欲しいと告白した後で、ほんの少しでいいと実感する。
 そんなに寂しがらなくても良いのに。
「……? ひびき」
 知らず、武を力いっぱい抱き締めていた俺を、無防備な眸が仰いだ。
「武」
 しようか、と尋ねようとして、俺は躊躇した。そんな気持ちじゃない。
 今俺の中に突き上がって来ているのは、もっと確かな、強い感情だ。
「武が、……欲しい」
 自分で口に出してから少し恥ずかしくなったものの、それを聞いた武の唖然とした表情が、次第にくしゃくしゃに歪んでいく様を見ると、照れ臭さなんて直ぐに忘れた。
「……うん」
 潤んだ目をぎゅっと閉じて、武は俺の胸に頭をこすり付けた。嬉しくて仕方がないというように。
「うん、って何? ……くれんの?」
 やっぱり少し照れ臭くなった俺が意地悪く尋ねると、武は俺の背中に回した手を握り、俺が振り回しても離れまいとするかのように力を篭めた。
「うん、あげる。あげる、ひびき。もらって、もらって」
 武の声はすっかり鼻声で、俺の上に圧し掛かるような勢いで身体全体を摺り寄せてきた。
「おいおい、子供かよ」
 甘えた口調を愛しく思いながら俺がうっかり口を滑らせると、武が急にがばっと顔を上げた。唇がへの字に曲がっている。
「やっぱりひびきなんかに年齢教えるんじゃなかった、子供子供ってうるせぇよ。その子供にメロメロになってんのはどこのどいつなんだよ」
 すっかりむくれて睨みつけてくる、その仕草も充分子供だ。
「あァ、はいはい。スマンね。俺だよ俺。このおっさんがメロメロなんだよ」
 体勢を仰向けに直して、腹の上に武を乗せてその膨れっ面を掌で包む。
 武は未だ眉間に皺を寄せていたものの俺の「メロメロなんだよ」発言には少し満足したらしかった。全身の力を抜いて、俺の上に身を預けてくる。頬を俺の首筋にぺたりと押し付けて、ゆっくりと往復させる呼吸も、全て感じ取れる。
「……あげる。あげる、全部、ひびきに」
 かつて、一緒に暮らし始めた頃は予想すら出来なかったような、素直で甘くて可愛らしい、武の囁き声。
「うん、全部、俺のなんだもんな?」
 武の着ているシャツの裾から掌を忍び込ませながら髪の上にキスをする。武は赤くなった目許で、俺の顔を弱く睨んだ。あの時の告白は、一応言っちゃいけないことになっているらしい。あの時は武も相当気分が昂ぶっていたし、恥ずかしいんだろうな。素面で聞くのは。
「ン、……っひび、き」
 背筋を撫で上げると、武が俺の上でぴくぴくっと躰を震わせた。
 何でもないような愛撫でも、武は過敏に感じる。切なそうに眉を寄せて、下唇を薄く噛む。髪の間に鼻先を分け入れて、耳朶を舐めると首を竦めて、熱い吐息を吐いた。
 その仕草がなんて愛らしいんだろうと思うたびに、俺は、今まで付き合ってきた何人かの彼女達にはしなかったようなことをしたくなるし、抱くことのなかった膨大な愛情を感じた。
「全部、俺のだって……武、もう一度、言ってみな?」
 背中からたくし上げたシャツを脱がすと、俺は上体を捻って武をベッドの上に降ろした。
 体重の限り俺に密着していたのを解かれると武は下から腕を伸ばして俺を欲しがりつつも顔を背けて、唇を尖らせる。
「……ふざけんな。やだよ」
 首を武に縛り付けられながら、武の下肢を露にして、その怒った素振りすらも可愛いと思う。大事に大事に抱き締めてもあげたいし、いやらしく乱暴に掻き乱してもやりたい。
 俺は武のパンツをベッドの外に放ると、その手で脇を向いた武の顎を掴んで此方を向かせた。むくれた唇を舌で強引に割り、歯列に唾液の音をぬちゃぬちゃと響かせながら嘗め回す。武は直ぐに酔ったようになって、片足を俺の下肢に巻きつけてきた。
「何で? 言ってみなって、……武」
 濡れた舌を押し付けあいながら、俺の強張った股間を引き寄せようとする武の腿を撫で上げる。武はシーツの上に皺を刻んで、僅かに身を捩った。
「やだ」
 子供が甘えるような――そんなのよりももっと艶かしい、鼻にかかった声。俺はそれをもっと誘うように、ベッドの上で身をしならせる武の腰の下に掌を入れた。薄い尻の丸みを撫で上げて、間の深い谷間に指先を滑らせる。そこは既にじわりと汗ばんで、俺が触れるときゅうと窄まった。
「あ……っやァ、ン・や、ひびきッ」
 武は背中をますます弓なりに逸らして、腰を摺り寄せてきた。
「ここも、俺のだろう? 全部俺のなんだから」
 戦慄く唇が可愛くて、つんと突付くようなキスを落とした。直ぐに離れてしまう俺を焦れったそうにして、武が舌を大きく伸ばして俺の顎を舐める。
「ンあ……ッもう、やだ、ひびき、ぃ……っ」
 欲しい欲しいと言葉にならない欲求に溢れた武は涎を垂らして、俺の下唇に貪りつく。俺に愛されていないと息も出来ないのだとでもいうように苦しげに呼吸を弾ませ、喘いでいる。
 俺は双丘に割り込ませた指先をその奥の窪みに押し当てて、くにくにと揉み解した。もう何週間も繋がっていないその箇所を突付かれると、武は首をがくりと落として唇を丸く開いた。尻を振って、俺の勃起に自身の猛りを擦り付けながらそれだけでイきたがっているようにも見える。
「ア・やっやっ、……ひびき、ィっ」
 それなのに、出てくるのはやっぱりいやいやばかりで
「嫌? 俺のものなんだろう? 武は」
 こんなことを行為の最中に囁くなんて、俺らしくもない。今までの恋愛じゃ考えられなかったような俺自身に驚きながらも、止められない。武が乱れる姿が俺をそうさせる。
 躰を重ねるたびに武がどんどん感じやすくなっているのと同じで、俺も、武をよりいやらしい気持ちにさせたくって、俺自身も興奮したくて、獣みたいに、お互いを欲しがる。
「……ッ・だか、ら……早く、ちょ……だい……っ!」
 震える声で、武が懇願した。強がりのように口調を強めて見せたのが可愛くて、俺は武の首筋に吸いつきながら尻穴を押し捏ねた指先を、突き入れた。
「……ッ! ひび、……っ・きぃ、い……っひび、ひびきっ」
 逸らせた背を、丸めてから捩らせる。俺の足に絡めた足を強張らせて、肉襞をなぞる俺の指をヒクヒクと締め付けた。
 俺も頭が真っ白になっていくのが判る。
 何で、武が俺のずっと求めていた人のように感じるんだろう。男同士なのに、まるで欠けていたピースがぴたりと合わさるかのように、抱き合っていることが自然のように、感じる。