天使の幸福(2)

「……ん?」
 汗ばんだ躰を俺の上に半分乗せて、顔を覗き込んでくる武の前髪をかき上げるように撫でていると、武の指が俺の目許に触れた。
「……ごめん……、痛い?」
 一瞬、何のことを言われているのか判らなくて、俺は目を瞬かせた。
 そうしてから直ぐに、武が俺を殴った跡がまだ残っているのだと気付いたけれど、判らない振りをした。
「ひびき」
 眼窩から指先が離れると、代わりに目蓋に唇が降って来た。その頭を抱き寄せる。
「ごめんね……」
 セックスで乱れた後だからしおらしくなっているのは判るけど、そんな風に謝られたって、俺は何も言えない。
「ひびきが好き」
 抱き締めた掌をずらして背中を撫でてやると、武は今度は、頬擦りをしてきた。
「俺も好きだよ」
 骨ばった肩にキスをしながら言うと、武は擽ったそうに身を捩った。肌理の細かい湿った肌が俺の上で捩れて、こっちが擽ったい。
「この間、……」
 短く笑った後で、武は直ぐに低い声に戻った。
「ひどいこと言って、ごめん」
 ひどいこと?
 真剣に思い出せずに、俺は武に聞き返した。だけど武は俺が本気で忘れているなんて思っていないようだった。
「本当はあんなこと思ってない。……本当だよ。他の奴らの事は、思い出したくもないくらい嫌だと思うこともあったけど、……何でひびきにあんなこと言っちゃったんだろう、って」
 武の声が涙で途切れた。
 そうしてやっと、俺は武が何のことを謝っているのか判った。
 ――触るんじゃねぇよ!
 ――てめえだって一緒だ、人の体を金で好きにしやがって、うす汚ねえホモ野郎! 死んじまえ!
 俺は武の、鈍い刃のような言葉を思い返して少しだけ苦笑した。
 知ってた。武は一生、その憎しみを嫌悪感を、忘れられないかもしれない。自分の身をすり減らして、心を殺して、「人」として生きられなかった時間のことを、ことあるごとに思い返すだろうと、俺は武と一緒に暮らすようになってからずっと、判っていた。
「泣くことないよ、馬鹿。武の言うことなんか殆ど信用してねえし」
 俺が茶化して言うと、ひでえ、と怒る振りをして、武もぎこちなく微笑んだ。
「…………ひびき」
 蕩けそうな唇が、重なる。味なんてただの唾液の味しかしないのに、武の唇や舌は本当に、一日中だって吸っていたいと感じるほど美味しい。
「もっと甘えても、いい?」
 殆ど吐息にしかならないような掠れた声で、武は尋ねた。
「もっと甘えても、俺のこと嫌いに、ならない?」
 それも、俺は知ってる。
 あのどす黒い嫌悪感の塊を俺に吐き出したことは、武の甘えに他ならないんだと。
「ならないよ」
 武の上唇を舌先であやすように舐めると、武の長い睫が微かに震えた。俺はそれを何故か、武が泣いているようだ、と感じた。
 武がそれを自覚しているとは知らなかったけど、あんな風に自分の意思を放棄して外界を全て遮断できたのも、武の俺へ対する甘えだったんだろう。あの時俺が少しでも武から目を逸らしたら、武はもしかしたら、また外で男に買われる人生に戻っていたかも知れない。武があんなにも嫌悪していた、自分の意思ではなく男に抱かれる生活に。
 武は今までそうやって、自分を殺して、現実から自分を隔絶してきたんだから。母親から愛されない、自分を直視したくなかったんだろうから。
「……でも控えめにしないと、またひびき倒れちゃうかな」
 上目遣いで俺を見て、心配そうに言う武が可愛くて可愛くて、俺は頭を撫でる。指の間をすり抜けて落ちていく、透き通るような髪の毛の一本一本まで、全部愛しくて全部、俺のものだ。
「もうあんな気持ちになるのは絶対、嫌だ」
 また武の眸が涙で濡れた。
 まだ、武の精神状態は元に戻っていないんだ。
「俺なんて死んでも良いって、何度も思った。人間が死ぬことなんて何とも感じなかった。
でも、ひびきだけは駄目だ。ひびきだけは、死んだら駄目だ。いなくなっちゃ駄目だ。俺なんかどうなってもいいけど、ひびきは駄目だ」
 泣きじゃくるように言う武を抱き締めて、俺は言葉を止めさせた。
「大丈夫だよ。俺はそんじょそこらのことじゃ死にゃしない」
 睫一杯に涙を湛えている武が、唇を震わせながらキスをねだった。そうと判るような仕草はしないけど、顔を上げるだけで、俺には判る。鼻の頭を舐めてやると、武の白い喉が上下して、濡れた唇から舌先が覗く。俺はそれを舐め取るようにして唇を何度も合わせた。
「それに、俺なんかどうなってもいいなんて言うなよ。武は俺のものなんだろう? だったらそんなこと言ったら、俺が許さない」
 唇の右端から左端まで、丁寧に何度も啄ばんで言うと、武はきゅうと俺の首筋に顔を埋めて顔を隠した。
「……あの日、俺、ずっとずっとひびきのこと待ってたんだ。ひびきが寝てろって言ったから、寝てたけど、どうしても眠れなくなって、お腹が空いて、喉も渇いて、ひびきがいなくて、どうしようって思ったら、
苦しくて、苦しくなって、……お店に行ったら、店長が病院教えてくれて……」
 それでも俺が武を棄てたなんて思われなかったことが嬉しくて、俺はこんな時なのに唇が綻んでくるのを止められず、武の背中を力の限り抱き締めた。
「もう、大丈夫だよな?」
 尋ねたのは俺の方だった。
 あんな武は、もう見たくない。
「俺が何か言わなくても、自分で欲しいもの言えるよな?」
 武が欲しいと言えば、俺は料理長にだってメイドにだってなってやる。そうすることが愛というわけじゃないけど、俺は武にそうしたいんだ。武を目一杯可愛がりたい。
 俺が武の髪に頬を押し当てながら言うと、武は別の意味に解釈したらしく、するりと俺の下腹部に手を這わせてきた。……ソッチが欲しいってのも、ある意味願ったり叶ったり、ではあるが。
「こら、武」
 笑いを噛み殺しながらも武の手を止めずに俺が言うと、武は双眸を細めてくくと笑った。いやらしい表情だ。
「……うん、……今度ひびきがいなくなったら、すぐ、探しに行くよ」
 地の果てまでだって探しに行ってやる、と武は笑いながら言ったけど、その視線は伏せられて、俺はちっとも笑えなかった。俺が武から逃げ出すなんてことは有り得ないけど、もし武が地の果てまで俺に会いに来てくれたら、俺は地の果てで目一杯両手を広げて、武をこれでもかってくらいに抱き締めてやる。探しに来たのを後悔した、苦しい、離せ、と言うまで、力いっぱい。
「苦しいまま、この部屋で一人で泣くのは、嫌だ」
 首筋でぽつりと呟いた武の肩を、俺は来るかも知れないその日の予行練習でもするような気持ちで強く抱き締めた。
「ああ、泣く時は必ず、ここで泣けよ」
 武の頭を俺の胸に押し当てさせて、俺は祈りにも似た気持ちで言った。俺は絶対に、この腕を解いたりしないから。