アルバイト(1)

 多分誰も気付いていない。
 気付いていないと思っているのはもしかしたら自分だけかも知れないけど、誰か気付いていたら、それはそれで多分、興奮してしまうだろう。
 彼は、誰か気付いていると思っているのか、或いは気付かれても良いと思っているのか、それともやっぱり僕と同じように誰にも知られてないと思ってるのだろうか。
 多分彼にとっては他人が知っているかどうかなんて問題じゃないんだろう。僕がどう思っているか、は重要なんだろうけど。
 彼が望んでいるだろう通り、僕は誰にも気付かれたくないと思っている。
 もしかしたら誰か知っているかも知れない、それはそれで良いと思っていても、やはり本当に誰かに悟られたら妙な噂を立てて騒がれるかも知れないし、偽善を振りかざして守られでもしても堪らない。
 彼も、そして気付いているかも知れない誰かも、きっと僕が嫌な思いをしていると思ってるんだろう。
 全くそんなことがないとは言えないけど、もう僕の躰は既に、慣れを通り越したところまで来ているのだ。
 このことには恐らく誰も、気付いていない。

 高校に入学してから一ヶ月を経過するのも待たず、僕は中学時代の友人たちより先にアルバイト先を決めた。
 部活動に青春を費やす気はなかったし、父親のボーナスが激減したと母親が嘆いていたのもある。特に趣味はないけど友達とカラオケに行く金くらいは欲しかったし、大学にも進学するつもりだし、あまり気負わない範囲で働こうと思った。
 社会を覗くのは愉しかったし、親兄弟、親戚以外の年上の人たちと年齢を気にしない仲間意識が持てるのも楽しみだった。
 フランチャイズを掲げる喫茶店の店長はまだ若く、それでも僕には大人であるように見えたけど、店長の他にいる二人の社員さんも店長と同じ位の歳だったから、多分店長は遣り手なんだろうと思った。
 溌剌とした顔立ちや物腰は店の常連客に気に入られ、25歳という若さながらアルバイトの管理も怠らない、その姿勢を見て僕は素直に店長を尊敬した。
「金井くん、ちょっとレジ入ってくれるかな。湊さんが今日休んじゃって」
 社員さんや店長に覚えが良いと褒められて、僕は誇らしい気持ちになっていた。他の大学生のアルバイトたちにも良くして貰って、僕はアルバイトを始めて一ヵ月後には週の半分以上シフトを入れるほど、アルバイトにはまっていた。同じ時期に始めた他の学校の高校生よりも全般的に仕事が出来たし、研修期間と称した時給の安い三ヶ月間も短縮してあげようと店長に言われていた。
「はい」
 カウンターの端で調理していた僕は、油のついた手を洗ってレジに向かった。
 レジは大抵、人あたりの良い女子がやるものだが僕も何回かやらせてもらったことがある。自分のものではないお金を扱うのは緊張するけど、お客さんの笑顔を間近で見ることが出来るのは貴重だ。
 「ごめんね。湊さん風邪だって」
 シフト表を片手に首を竦めた店長が笑う。大学生の湊さんは、綺麗な人だけどこういう休みが多い。現に昨日はぴんぴんしてバイトに来ていた筈なのだが。店長もそれを判っているけど、問い詰めようとはしない。自分が代わりに店頭に立てば済むことだとあっさり言い放つ。
「金井くん可愛いから、レジでも大丈夫だよね」
 シフト表にマーカーで線を引き、店長はカウンターに入るべく帽子を被った。
「レジは可愛くないと駄目なんですか?」
 何ですかそれ、と呆れた僕が笑うと、店長はカウンターに残った他のアルバイトを見渡してから慌てて口を覆うような仕種をして見せる。この時間帯は男ばっかりだから、言えたことだろう。
「お客さんだって、俺みたいなおっさんがレジ打つよりも金井くんに可愛く有難う御座いましたって言われたほうが気分良いでしょう」
 帽子の中に前髪をしまい、カウンターに向かいながら店長が言う。その姿を振り返ろうとした僕の背後を通り過ぎる時、店長の手が僕の尻に触れた。
 その時は、何も感じなかった。
 触れたのが店長の手だとも思わなかった。たまたま何かがぶつかったのだという程度にしか。
 やがてそれが頻繁に起こるまで、僕は店長の意を知りようもなかったのだ。